第151話 不退と勇者

 これは危険である。しかも、凡百の危険物とはわけが違う。


「『覚醒蝕薬』!? クラーク、貴方、これをどこで手に入れたの!?」


 思わずテーブルに手を叩きつけ、目を見開いたマリィの表情が、丸薬がどんなものであるかを伝えていた。フォンがどれほど強くても、カルト集団に攫われても声を荒げなかったマリィの焦り具合が、一層四人に緊張感を齎す。

 しかし、クラークはいたって平静だった。彼は黒い塊が何かを知っているのだから。


「なに、ちょっと闇市場の商人と知り合いでな。二日ほど駆けずり回らせて集めたんだよ。安心しな、商人の方はしっかり口封じをしといたから、取引の話が漏れる心配はないぜ」

「口封じはいいとして……噂には聞いていたけど、まさか実在するなんて……!」

「ご存じなんですか、マリィさん?」

「マリィ、こりゃ何だ? ただの薬じゃないのか?」


 べたべたと黒光りするそれを手に取り、宝石であるかの如くしげしげと眺めるマリィの傍に寄ってきたサラとパトリスの問いかけに、彼女は静かに答えた。


「……『覚醒蝕薬』は、人間の力を限界まで引き出す特殊な薬よ。文字通り、限界までね」


 意味は大まかにしか察せなかったが、二人には十分だった。

 つまり、クラークが説明した通りである。これは増強剤――ドーピングの一種だ。


「そうだ、こいつは一粒呑めば体中に浸透し、肉体のありとあらゆる要素に働きかける。そして一時的にだが、あらゆる能力を飛躍的に高めてくれるんだよ。腕力、脚力、魔法力……知能までは助けてくれねえが、他は例外なく強くしてくれるぜ」

「強くしてくれるって、どれくらい?」

「商人に聞いたら、前にこれを呑んだ冒険者が、素手でワイバーンを捻り殺したんだと」


 しかも、クラークの話が正しいとするのならば、強化する範囲も効果も尋常ではない。

 ワイバーンと言えば、前脚のないドラゴンのような姿をした、凶悪な魔物として名が通っている。勇者パーティも倒せなくはないが、道中ではなるべく遭遇したくないと思えるほど凶悪で、おまけに並の魔物よりも狡賢い。

 そんなワイバーンを、武器も使わずに捻り殺す。人間の何倍もの体躯を誇る怪物を、小鳥を蹂躙するように殺せるようにするとして、果たして人間が服用して良い薬なのだろうか。


「わ、ワイバーンを!? 熟練の冒険者五人がかりでも倒せない魔物を!?」


 そう考えると、クラークの笑顔とは裏腹に、パトリスが焦るのも無理はない。


「一粒で人間を辞めるくらい強くなる丸薬が、こんなにあるんだ。勿論、副作用もそれなりにあるみてえだが……お前ら、当然使うだろ?」


 彼女の焦りなどどこ吹く風の調子で、使うのを前提として話しているのだから。

 驚愕するパトリスの隣で、マリィはあっさりと首を横に振った。


「私はやめておくわ。作戦に支障をきたすと困るの。サラとジャスミン、パトリスは?」


 マリィが使用を拒むには、相応の理由があった。確かに、作戦の実行者であるマリィが万が一、薬のせいでおかしくなってしまったなら、折角の一勝をふいにしてしまう。薬を使わずとも勝てるのならば、策を台無しにする必要はないだろう。

 彼女達が企てている作戦の詳細をクラークも知っているようで、だから彼も無理強いはしなかった。ならばと、今度は目を泳がせるサラとジャスミンに声をかけた。


「サラ、ジャスミン、このままあいつらに舐められたままでいいのか? 俺達ギルディアの勇者パーティは、いつまでもあんな雑魚連中を目の前でのさばらせるのか?」


 クラークの挑発は、二人の目に殺意の炎を灯らせた。

 勝率が低いのを、彼も知っていた。だとしても勝ちたい、あわよくば殺してしまって、自分の強さを街中に証明したいと思っているのも。

 仮に恐ろしい薬の副作用があったとしても、所持するだけで法に触れるような闇市場も商品だとしても、二人の憎悪の感情はまともな思考を鈍らせてしまっていた。


「…………面白い、使ってやる。あの筋肉バカを殺せるなら、なんだって使ってやるよ」

「私も! 副作用ったって、どうせ大したことないでしょ!」


 二人とも『覚醒蝕薬』を一粒ずつ掴んで、服のポケットに入れた。


「良い判断だな、二人とも」


 仲間達の熱い闘志に感動したクラークだが、直ぐにパトリスをぎろりと睨んだ。


「で、パトリス、お前はどうして直ぐに使うって言わなかったんだ? まさか、俺達の仲間なのに、他の皆は使うって言ったのに、自分だけリスクを背負わないのか?」


 全身の汗腺から液体が噴き出すのを、パトリスは鎧の内側で確かに感じた。

 彼女はクラーク達ほどフォン一行に恨みも抱いていないし、いつも暴走しがちな彼らを宥める役割だった(必要とされているかはともかく)。

 今回はというと、クラーク、サラ、ジャスミンは平常な考えがもう頭に残っていないのが見て取れる。数少ない常識人のマリィは薬を使わないと言ったが、作戦の実行者という名目で、リスクを背負わないように立ちまわっているのは明らかだった。

 辺りの光を吸い込んでしまいそうなほど暗い球。こんな悍ましいアイテムを呑めばどうなるのか、パトリスは吐きそうな気持ちをこらえて、どうにか説得を試みた。


「……だ、だって、人をそこまで強くする、闇取引で手に入れた薬ですよ……副作用が起きて、五体満足で助かる保証なんて、どこにも……」


 だが、彼女のまともな発言は遮られた。


「――じゃあ、お前は俺達の仲間じゃねえな」


 目をぎょろつかせたクラークの抜いた剣が、彼女の首元にあてがわれたからだ。


「ひっ……!」


 思わず、彼女は失禁しそうになった。

 クラークの瞳は――いや、パトリスを見る全員の瞳は、彼女を仲間と認識していなかった。冒険における盾役、小言でパーティを制する面倒な女ですらない。

 彼女は道具だ。フォン達のうち一人でも道連れにできれば上出来の、丸薬を呑んだ末にどうなろうが知ったことではない、剣や盾よりもぞんざいな扱われ方をする道具だ。


「選択肢は二つだ。俺達の仲間として丸薬を呑んで、あいつらを殺すか。それともここで断って、不慮の事故で死んだってことにするか……どうする?」


 ならば、クラークがここで選択肢を与えたのは、ある意味では有情かも知れない。

 内臓が抉り出されそうな恐怖と、目の前に確かに迫った死は、パトリスの意志すらも鈍らせてしまった。死を、勇者パーティを恐れる彼女の決断は、一つしかなかった。


「わ、わ、分かりました! 呑みます、呑ませてくださいぃっ!」


 震えて涙を流しながら懇願するパトリスを前に、クラークは笑った。

 ただし、最早勇者とは呼べないほど醜悪な笑みだ。仲間達も、同じだ。


「それでいいんだよ、俺達の仲間ならな。それじゃあ改めて、明日の目的を話しとくぜ」


 丸薬をつまみ、握り締めたクラークは、四人の前で己の目的を呟く。


「フォンと仲間達を皆殺しにするぞ。決闘での生死は、法で裁かれないからな……明日奴らが死んだとして、偶然の事故になるってわけだ」


 『覚醒蝕薬』。文字通り、人を目覚めさせ、蝕む薬。

 尤も、クラークの声を聞く面々には、大して不安などないだろう。

 彼女達は各々違う理由で、すでに狂っている。


「後悔させてやるぜ――俺に、勇者に喧嘩を売るってことが、どれほど間抜けかってなァ!」


 それとは比べ物にならないほど、最早クラークは正気を失っていた。

 どろりと濁った瞳で空想を吼える彼を見るのは、唯一常人であるマリィ。

 安全圏から人々の滅びを見据える彼女だけが、心の底から微笑んでいた。

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