推参!キャット・ニンジャ

第30話 夢と忍者


 夢を見ていた。

 木々と霧、朝焼けと冷たい空気に覆われた、幻想のような切り立った崖。

 その上で、彼らは修業を積んでいた。合わせて十人の子供達は、男女問わず若草色の衣服を身に纏い、空気に向かって拳を振るい、爪先を叩きつける。一糸乱れず、誰に命令されてもいないのに、拳闘の訓練を一心不乱に繰り返す。

 霞も、流れる汗すらも裂く、子供とは思えない鍛錬に心を注ぐ彼らの両手足は、何れも包帯が巻かれていて血が滲んでいる。なのに、誰も呻きすらしない。


「――ふむ、修行に励んでおるようじゃの、皆の者」


 ふと、修行に明け暮れる彼らの後ろから、霞の暖簾をくぐるように、声が聞こえた。

 姿を見せたのは、異様な姿の人間だった。緑の唐草模様の着物を身に纏った、全身包帯塗れの老人。黒い右目以外は全て包帯で隠れており、歪んだ木製の杖をついている。

 彼の姿を見た途端、少年少女達は一斉に彼に向き直り、両手を合わせて挨拶をした。


「「オハヨー、レジェンダリー・ニンジャ! マスター・ハンゾー!」」


 妙な挨拶だが、ここでは常識のようだ。ハンゾーと呼ばれた忍者は、包帯の奥で笑い、杖に重心を傾けながら崖の際まで歩いてゆく。


「今年の弟子は学問に優れ、武術にも長け、集中力も例年より抜きんでておる……じゃが、お主らはまだ忍者には遠い」


 そうして、いよいよ落ちるか落ちないか、石ころが揺れるほどのところで立ち止まると、瞳の奥でじっと子供達――弟子達を見つめ、杖で空を切りながら言った。


「この崖、落ちればただでは済まぬ。人はおろか、魔物でも死ぬじゃろう」


 白い布に包まれた顔は目しか見えないのに、顔中で笑っているように見えた。


「しかし、じゃ。忍者は死にこそ本質がある。儂からの命令じゃ――我こそはと思う者は、ここより飛び降りて死ぬがよい」


 ただ、その笑いは好奇心や喜びからではなく、意地の悪い挑発からだろう。

 弟子達の表情に、明らかな焦りと陰りが見えた。レジェンダリー・ニンジャ、マスターとまで呼ばれる者の命令であれば絶対だが、同時に崖の高さも知っている。ハンゾーの言う通り、落ちればまず助からない。

 目を逸らし、隣の同胞を小突く弟子達を見て、ハンゾーはわざとらしく首を傾げる。


「どうした? 忍者を目指すが、死ぬのは怖いか?」


 誰も、肯定も否定もしなかった。

 代わりに、一人の少年が、弟子達を置いて一歩前に出た。

 口を堅く真一文字に閉ざし、暗く澱んだ目をした、茶髪の少年。周囲の弟子より一回り小さいが、明らかに纏っている雰囲気は、未熟者のそれではない。


「お主、名は?」


 ハンゾーが問うと、少年は無機質さすら彷彿とさせる声で答えた。


「ありません。フォンに拾われました」


「ふむ、例の捨て子じゃな……よかろう、死んでみよ」


 名もなき少年は頷くと、躊躇いなく崖へと歩き出し、そして落ちた。

 切り立った崖。真下に激突する前に、切り立った岸壁に激突し、体を削り取られて死ぬ人間が殆どだろうが、彼はそうではなかった。

 落下する体が岩にぶつかる直前に、掌底や裏拳を叩き込み、衝撃を殺しながら落下していく。当然無傷ではなく、拳を叩き込む度に拳の包帯が解け、血が噴き出す。だが、即死には至らぬまま、とうとう眼前に地面が迫ってきた。

 それすらも、少年にとっては予測の範疇だった。地面に激突する寸前、体を何回にも分けて捻り、奇怪な着地法を取った彼は、潰れたトマトのようにならずに地に足を付けた。


「――見事」


 両手足を血で濡らし、顔を上げた少年と、ハンゾーは目が合った。これ以上ないくらい嬉しそうに目だけで笑ったハンゾーは、くるりと振り向いて弟子達に告げた。


「もし、敵に追われている時に崖から飛び降りれば、追手は自死したと思うじゃろう。正しく儂の言葉通り、あの者は傍から見れば死んだ。しかし、その実は生きておる」


 誰もが息を呑む。彼らが目指すものの覚悟と、容易くやってのける異常性に。


「何より、死を躊躇わぬ精神。命よりも使命を尊び、自ら死を選ぶその姿、忍者と呼ぶに相応しいじゃろう……道具として、最も必要な条件じゃ」


 道具。即ち、忍者。

 あの時に気付いていれば、心を壊していなければ、自分には違う未来が残っていたのだろうか。或いはそのどちらでもなく、ただ忍者としての道しか残っていなかったのか。

 何故、どうして、思考と思案が永遠に巡り、視界が真っ黒に染まって。


「……ん……」


 ――そうして彼は、フォンは目を覚ました。

 彼が体を起こしたのは、とある街の宿、その一室。傍の窓から差し込む朝日が部屋を照らして、ここが夢とは違う現実で、朝を迎えた世界だと教えてくれる。

 つまり、彼が見ていたのは夢だったのだ。


「……夢、か……」


 ベッドの上で、フォンはじっと、強張った自分の掌を見つめていた。

 部屋の扉を誰かが叩いているのにも気づかず、忍者として逃れられない呪縛を感じ、彼は目を細めた。自らの選んだ道を進むと決めたとしても、まだ自分の中には、掟に縛られ、過去に心臓を掴まれた自分がいるのに、嫌気がさす。

 きっと、こんな過去を誰かに話せば、距離を置かれるだろう。修行の内容だけでなく、重ねてきた任務という名の闇、残虐さ、醜さを聞けば。

 忍者の全てを、ようやくできた仲間が知ったなら――。


「フォン、起きてるー?」


 はっと、フォンは我に返った。

 ずん、と沈んだ気持ちを浮き上がらせるように、木製の扉の外から、声が再び聞こえてきた。正確には、さっきからずっと名前を呼ばれていたのだが。


「お、起きてるよ! ごめん、直ぐ行く!」


 フォンは慌てて返事をしながら、ベッドから飛び起きた。

 黒い半袖の寝間着を脱ぎ捨て、いつもの格好に着替える。傷痕だらけの体と、腕や足に巻き付けた武器や暗器を隠すように、鈍色のパーカーと黒いカーゴパンツに着替える。軽く顔を洗い、首元に黒のバンダナを巻いた彼は、鏡の自分を一瞥し、部屋の外に出た。


 改めて紹介しよう。彼はフォン、職業は忍者。

 制約から解き放たれ、二人の仲間と共に冒険者稼業に邁進する、忍者だ。

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