第12話 ニンジャ・ウルフ


「ちょっと、フォン、正気!?」


 驚くクロエが彼の服の裾を掴もうとするが、手遅れだ。手は擦り抜け、彼はタスクウルフ達の前に出た。しかも、完全に無防備で。

 彼女は狼ではないが、自分が狼で、手ぶらのハンターが来ればどうするかくらいは予想がつく。敵の仲間が余計なことを考えないように、見せしめとして食い散らかす。今は間違いなく、フォンがその立場だ。


「大丈夫だよ、クロエ。弓を下して」


「でも……!」


「こっちが殺しに来たんじゃないと教えないと、意味がない。必要最低限の犠牲でことを為すのも、忍者のやり方だから、ね?」


 振り返ったフォンが笑顔を見せたので、クロエは渋々だが、弓を下し、矢を仕舞った。

 フォンはもう一度正面を見据え、唸る狼達の前に立ち、じっと彼らを見た。狼達は、棒立ちをしている彼が格好の獲物にしか感じられなかった。何であれ、平穏を乱した敵であり、襲わない理由はない。

 はずだった。

 不意に、狼達は、フォンと目を合わせていると、喉首を掴まれているような気分になった。そんなのは気のせいだと思いたいが、彼らは自身がまともだと悟った。

 異常なのは、フォンだ。彼の目から、全身から放たれる殺気。

 温和な顔をしている眼前の人間は、その気になれば、ここにいる群れを皆殺しにできる。タスクウルフの雄も、雌も、子も、誰もが気づいた。クロエも勿論勘付いていたが、彼女だけは、その目的にも気づいていた。


(凄い殺気……まさか、威迫で狼達を屈服させるつもり!?)


 普通に考えれば、できるはずがない。

 だが、フォンの体から漏れ出すおぞましい殺意が、可視化できるほどの漆黒の殺意ならば。こんなものを、彼はずっと腹の底に押し込めていたのかと思うと、心底ぞっとする。きっと今、彼のどす黒い目を直視すれば、生きるのを諦めてしまうだろう。

 少しばかりの間、フォンと狼の、無言の時間が続いた。

 そして、クロエですら冷や汗をかく底なしの威迫を前に、遂に狼が折れた。


「……嘘」


 最も大きいタスクウルフ――恐らく長の狼が、ゆっくりと前に出てきた。

 そして、フォンの前に、首を垂れたのだ。一匹とて邪魔をしないその行為はつまり、群れが殺し尽くされるより前に、自分の首一つで許してほしいという、タスクウルフの敗北宣言でもあった。

 圧倒的な力の差。忍者の未知の恐怖に、狼達は屈した。殺すならばせめて自分をと、野生の動物が、抵抗ではなく犠牲を選んだ畏怖に、クロエは息を呑んだ。

 ただ、フォンは別段、殺すのが目的ではない。


「……分かった」


 次の瞬間、フォンは目にも留まらぬ速さで、長の首筋に何かを撃ち込んだ。タスクウルフは僅かに目を見開くと、その場にぐったりと倒れ込んでしまった。狼達は長の死を予期していたからか、何も言わないが、人間側は違う。


「フォン、殺さないんじゃないの!?」


 思わず立ち上がったクロエの言葉に、彼女を見ないまま、フォンは答える。


「ちょっと薬で眠らせただけ。牙は必要だから、それだけ持って帰るよ」


 そう言いながら、フォンは手首をしならせる。すると、パーカーの奥から、小さな鋸が出てきた。彼は長の口を開きながら、ギコギコと長い牙を削り始めた。

 狼達は、何も言わない。ただ、ずっと、フォンの行いを見守っている。


「ねえ、どうして殺さないの? フォンの生殺与奪の基準は、何なの?」


 クロエは聞いた。聞かずにはいられなかった。フォンは、鋸をひく手を止めない。


「彼らは、子を守る為に僕の前に立った。僕達の命を奪う為じゃない。だったら、退くべきは僕達だ……けど、こちらにも退けない理由がある」


 歪んだ価値観だと、クロエは思った。思わざるを得なかった。


「犠牲を選ばせた。彼らは従った。ならば僕達は、彼らの勇気に敬意を表するべきだ。命を持って行けと言うならそうするけど、彼らはそうは言っていない」


「どうして分かるの?」


「僕の行為を止めない。誇りよりも命を選んだ証拠だよ……よし、出来た」


 鋸を仕舞ったフォンの手には、大きな牙が握られていた。彼はそれをポケットに押し込むと、じっと彼らを見つめながら、言った。


「君たちの長は死んでいない、じきに目を覚ます。ありがとう、待っていてくれて」


 言葉は通じないだろうが、意図は通じたのか、タスクウルフ達はゆっくりと身を引いた。フォンもまた、彼らに背を向け、クロエの方にやって来た。

 もう、殺気はなかった。代わりに、ついさっきまでずっと一緒だったフォンがそこにいて、さも当然であるかのように、今度は彼が、クロエの肩を叩いた。


「よし、必要な物は揃った。帰ろっか」


「え、あ、うん……」


 タスクウルフ達のまなざしを背に受けながら、二人は歩く。

 クロエは彼の奇怪さを改めて学びながら、ある決心をこの瞬間、決めていた。

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