鬱屈
「暑い!それにとてもお腹が減った!」
高校の頃同じクラスになった牧瀬さんは、いつもそうしてなぜか楽しげに声をあげたものだった。何か気の利いた言葉でも返したかったが「暑いよね。お腹減ったんだ」とただ同じ内容を繰り返した。
「髪をしばるのって嫌いなんだよね。暑くて。だから短いんだ」
「そうなんだ。暑いよね。俺もだから短い」
自分の髪をぱさぱさと触りながら朗らかに笑う彼女を見て、こんなはずじゃないと思っていた。
本当に。いくらだって返事は考えていたのに。
咄嗟に言葉が出てこない。練りに練った言葉も、果たして彼女が望む回答なのかと、いざと思った瞬間にためらってしまう。こんな調子では牧瀬さんと付き合うなど夢のまた夢だった。
彼女を好きになって二か月が過ぎても、牧瀬さんははじめて会った時から変わらなかった。あの時は「暖かくて気持ちいいなあ」と言っていた。俺は多分「暖かくて気持ちいいね」と言ったのだと思う。
心の声をそのまま口にする彼女に、俺はただ同意するだけだった。新学期、たまたま隣の席であった彼女と何度そんなやり取りを繰り返したのだろうか。ある時、牧瀬さんは俺に言った。
「伴野くんって、人の心が読めるみたい。いつも私の気持ち分かって凄い!」
そんなの当たり前だ。自分の心を音読しているのだから。少し変わった女の子と、つまらない男のやり取りだと思っていた。
でもそれ以来、俺はずっと彼女が好きだった。
そんなきっかけで彼女を好きになったものだから、余計に返答は困った。だって俺はただ頷いて、彼女の言葉を繰り返していただけだ。彼女の気持ちなど何も分かっていない。そこで調子づいて何か変わったことを言えば、彼女に「やっぱり勘違いだった。そりゃ人の気持ちなんて分からないよね」と見向きもされなくなるかもしれない。
いや、そもそも別に彼女は自分のことを好いているわけではないのだが。
そうだ、彼女が何を好きだとか、俺は全然知らなかった。そんな恐らく恋愛の一歩目で悩んで、滑稽としか言いようがなかった。
俺が牧瀬さんを好きなことを、仲の良かった平井は知っていた。直接そうだと伝えたことはなかったが、珍しく女子と話す俺を茶化してきた平井に対して、曖昧に返事をしていたら「なんだ、本当に好きなのか」と気取られてしまったのだ。
「コクんないの?」そう何度も聞かれたが、いつも決まって「出来るわけないだろ」と答えていた。
平井は別に俺をからかえればいいようで、牧瀬さんがいる場面で何かをけしかけたりはしなかった。昼の時間、あるいは帰りが一緒になった時には「今日牧瀬ちゃんと話してたじゃん。どう?コクったん?」と聞いてきた。
鬱陶しいとは思いながら「馬鹿、そんなわけないだろ」といつも返した。強く拒否すれば、平井はもうこの話題を出さないことを分かっていたが、それは出来なかった。俺の恋にわずかに色が差すのは、その瞬間だけだった。
決まったやり取りを繰り返していた。何もかもが刻々と状況の変わっていく高校生活の中でその異質さは際立っていて、それはこの恋が崇高なものであるかのように感じさせた。学生だからではない、自分はひとりの人間としての牧瀬さんを好きになったのだと思った。変わらない関係も、きっと大人の恋愛はそういうものだと少し誇らしかった。
月日が流れ、学年の終わる頃になっても結局俺と牧瀬さんのやり取りには何の進展もなかった。平井は相変わらず「クラス変わっちゃうじゃん。コクんないの?」と聞いてきたが、そんなつもりはなかった。
その頃になると俺は敢えて告白しないのだと考えるようになっていた。
クラスが変わって、また同じクラスになったとしたら運命的だ。神様を積極的に信じているわけではないが、その場合は神の思し召しと信じて頑張りたいと思う。
もしクラスが違った場合でも、それはそれでいい。もし気持ちが冷めるなら、所詮はその程度の気持ちだったということであるし、変わらず好きでアプローチをしかけて無理だったとしても、クラス程度の障害を乗り越えられない二人に未来はないだろう。
ここで焦って告白するのは最悪の手段だ。そう結論づけていた。
その現場には、掃除のごみ捨て帰りに遭遇した。
ごみ捨ては不人気な役割だ。回収場所が校内の端にあり遠く、加えてごみ捨ては掃除の最後にするものだから掃除後の休憩時間を損なってしまう。そのため俺はいつも近道をしていた。普通に校舎内から向かうのではなく、一旦上履きを履き替えて外から回収場所に向かうルートだ。
そんな変わった道を使っていたせいで、俺はその現場を見てしまった。
空のごみ箱を抱えて裏庭を通り抜けようとしたとき、誰か人がいることに気付いた。
慌てて近くの木陰に隠れた。こんなところで人と会うなら、告白かもしれないと思ったからだった。同じように近道を使っているやつがいてもおかしくはないが、かねてから校内で牧瀬さんに告白するならこの裏庭にしようかと妄想していたため、その可能性がまず頭をよぎり自然と体が動いていた。
木陰から顔を出して、様子を窺う。もし告白ならなかなか分かっているやつじゃないか。知り合いだったらからかってやろう。そんな軽い気持ちだった。
長いポニーテールが上下に揺れる。
「嬉しい、幸せ」そう聞こえた。
何度も想像した、牧瀬さんの反応と同じだった。
なんだかアニメの一場面でも見ているような気分だった。
そのまま二人はまるでキスでもするかのように顔を近づけていく。俺はごく一般的な道徳心に駆られて目を背けた。不思議と失恋をしたのだという気持ちは起きなかった。何かがすっぽりと抜け落ちていて、それはやはり恋心を失ったのだと当然思ったが、当てはめようとしてみるとどうにも隙間が目立った。ふと思い立ち、次に気になっていた子を思い出してみた。その次は俺に優しかった子のこと。前好きだった子。考えて、他のことは考えないようにして、縋るように空のごみ箱を強く抱きしめていた。
しばらくすると二人は校舎に戻っていった。すぐに後を追うのはためらわれたので、ごみ箱をたたき時間を潰した。安いプラスチック。ぽんぽんと軽い音がした。すると、にわかに「自分は掃除当番である」と張り切った気持ちになり、ただちに校舎に戻った。途中、二人を追い抜いたがこちらを気にした様子はなかった。
それから数日たった帰り、平井と一緒になった俺は珍しく自分から牧瀬さんの話をはじめた。「牧瀬さんって好きな人いるのかな」と聞いたとき、平井からは「どうした?告白するのか?」といつものように返ってきた。そのやり取りで満足して、俺は「いや、実は別に気になる人が出来たんだ」と切り出した。
牧瀬さんのことは変わらず好きだった。だが、もう恋をしてはいけないのだと思った。
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