通路

麻城すず

通路

 母は東北地方の出身で、僕たち家族は毎年夏になると上野駅から出る寝台列車に揺られ、祖父と母の長兄である伯父夫婦、二人の従兄の住まう本家へ遊びに行ったものだ。


 今でこそ駅前にはデパートやショッピングモールがあるものの、当時は本当に何もなく、都心に住んでいた僕には何度通っても全く慣れない場所であった。県の玄関口でさえそんな有様であったから、そこから路面電車で一時間近く移動し、さらに車で三十分もかかる山の中にある母の御在所は、日常とは切り離された、いうなれば別世界に近い場所に思えていた。大きな日本家屋の正面には何反もの広大な田んぼと山、すぐ裏手には畑と川。近所には多少の食料品と雑貨が売っている個人商店が一店あるだけ、あとは移動販売車を待つしかないような寂れた場所。


 今から四十年も前の話になる。


 長患いの祖父がいよいよ危ないらしいと言うので、お盆にはまだ少しだけ早い七月の初旬、仕事を休めない父を自宅に残し母と共に久しぶりにその土地を訪れた。

 母は毎日祖父の病室に通い、当然僕もそれに付き合わされた。優しい祖父のことは好きだったが、それほど頻繁に会っていたわけでもない。話すことのできない祖父と神妙な面持ちをすした大人たちが作り出すのは口を開くことも憚れるような空間。そんな中に長時間籠ることは幼い子供の身にはなかなかに苦痛で、度々病室を抜け出しては同じように暇を持て余した従兄と裏手の山になっているアケビをもいだり、〈ヘビに注意〉という看板に落書きをしたり遊びまわってばかりいた。


 母の実家に着いてちょうど1週間が経った日。いつものように退屈な見舞いを終えた帰り道、まだ病院に残っていたはずの伯父が車で僕らを追いかけて来た。

「おーい、京子ぉ。爺さんいよいよダメみたいだぁ。今医者にみんな呼ばれたわぁ」

 僕らは伯父の車に乗り、たった今歩いて来た道を引き返した。

 血の気を失った祖父の顔はもう覚えてはいないが、その肌が妙に黄色かったのは記憶に残っている。今思えば肝臓を患っていたのだろう。黄疸が酷かったのだろうが、当時の僕にそんなことは分かるはずも無く、ただそのまだ微かに温もりの残るゴツゴツした黄色い手を不思議な思いで眺めるばかりであった。


 次の日の晩、通夜が行われた。


 そうは言っても記憶は定かでは無くて、これが通夜の記憶なのかどうかの確信は持てない。ただ、通夜だか葬式だかを3日間かけて行った記憶だけがある。もう何十年も前のことだ。記憶が曖昧なことには目をつぶって欲しい。

 田舎の葬式は僕の知っているやり方とは随分違っていた。夕食を終えた頃、皆が集まり円になって僧侶が唱える念仏に合わせ大きな数珠を延々と回し送るのだ。

 こぶし大の珠が並ぶ数珠の中で、一回り大きな珠が目の前に来るとそこで頭を垂れる。そんな風に繰り返される単調な儀式の間、僕は掃き出し窓のほうをずっと見つめていた。月もなく、街灯などもちろんない真っ黒い窓の外の闇。そんな景色は都会にはなかったし、こんな田舎では夜出歩くこともなかったから夜の景色を見るのは初めてだったのだ。

 綺麗に拭かれ、僕たちの姿を寸分の歪みもない鏡のように映しとる掃き出し窓に、田んぼから飛び上がり、ペタリと貼り付く小さな青蛙の白い腹。灯りにひきよせられているのだろうか。一匹どころではない。窓の低い位置にぺたり、ぺたりと落ちては飛びつき必死に貼りつくいくつもの青白いもの。それがなんだか不気味に思えて、田舎の夜に身を震わせた。

 

 儀式が終わると仏間に布団を敷き詰め、皆でその部屋に寝た。死者が夜寂しがらないようにという配慮らしい。埋葬はすでに昼間に行われたから遺体と一緒に寝る訳ではないのだが、葬儀が全て終わるまで亡くなった人は仏壇の中にいるという考えから来ているらしかった。

 仏壇から玄関、台所、トイレまでの道を作っておくことも、死者が家にいる間は普段どおりの生活をできるようにとの配慮だそうで、僕と同じく東京から来た同い年のはとこはくだらないと笑い飛ばした。死んだ人間がわざわざ夜中にトイレに行くわけがないという意見はもっともだ。

 その晩僕ははとこと並んで横になり、僕の隣、仏壇からトイレへの通路側には母が寝ることになった。


 疲れと興奮、それから葬儀の間に感じていた不気味な景色への多少の緊張。そんなものが一気に出たのだと思う。あっという間に眠りに落ちた僕は、夜中母の寝返りを打つ音で目が覚めた。

 ごそごそと忙しなく聞こえる布ずれの音。暑くてタオルケットを蹴飛ばして寝ている僕とは正反対に、母は厚手の毛布を肩まですっぽり被っている。そのうちにはことの父である叔父と母が小声で話すのが聞こえてきたが、僕は内容を聞くことも無いまま再び眠りに落ちていった。


 翌朝目覚めると母の姿はなく、代わりにそこで叔父がくうくうと鼾をかいて眠っていた。母はすでに台所で兄嫁と朝食の支度をしていた。

 僕の隣にどうして叔父が寝ていたのかと尋ねると、母は曖昧に笑いながら「あそこでは眠れなかったから替わってもらったのよ」と言った。何故か、その理由は教えてはもらえなかった。


 昼間の家の中は線香の匂いと黒い服の人々に埋め尽くされていた。

 やんちゃ盛りの子供がそんな場所でおとなしくしていられるはずも無く、暴れる僕達に親は渋々裏の川で遊ぶ許可を与えた。都会っ子の僕は魚を触ることすらおっかなびっくりで田舎育ちの従兄に散々馬鹿にされたが、それでも死んだ祖父のことなんか忘れてしまうくらいに楽しかったのを覚えている。


 そしてその日の晩、僕は奇妙な体験をした。


 前夜と同じく僕とはとこが並んで横になったのだが、母が寝ていた通路側には最初から叔父が寝る。

「なんでお母さんがここじゃないの?」

「京子義姉さんはここじゃ寒くて寝られないんだってさ」

 暑さに耐えかね布団を掛ける気にもならなかった僕は、叔父にそこで寝たいと訴えた。母は止めたが、叔父は少し考えた後ニヤリと笑って頷いた。


 夜中、身震いして目が覚めた。


 仏間の隣りの和室の襖からは光が漏れていて、大人達はまだ起きているのが分かった。

 時計は午前二時を指している。

 普段は一度眠ってしまえばトイレにでも行きたくならない限り夜中に目覚めることなどまず無かった。僕は寝直そうと毛布を肩まで手繰り寄せ、そして気付く。

 僕はいつから毛布を被って寝ていたんだろう……。

 隣で寝ているはとこは暑いとみえて掛けものを全て蹴飛ばし大の字で寝ている。僕自身もはとこの方に向けている足は妙に熱を帯びていて暑い。だが、通路側の背中だけはゾクゾクと寒さを訴えて来る。だがその時は眠気が酷く、また通路側は風通しが良いせいだろうと深く考えもしなかった。

 背中をしっかり毛布で覆って、ほてる足だけ布団の外に出すと僕はまたすぐに眠りに落ちていった。


 再び目覚めた時、初めて違和感を感じた。


 時刻は午前四時丁度。

 先ほどといい今といい……、時計の針が指し示した時間が不気味に感じた。

 最近の子供がこんな話を信じているかは知らないが、当時の僕にその二つの時刻は少なからず恐怖を与えた。

 午前二時は死者が生者の世界に来る時間、そして午前四時は死者が黄泉に帰る時間。子供心にもこの目覚めは尋常ではないと悟るに十分だった。

 怖くて堪らなくて、だが隣で気持ち良さそうに寝ているはとこを起こすのも気が引けて、僕は暗闇のなか身動ぎ一つできず縮こまるばかりだった。

 皆の寝息が聞こえるなかに混じって、ギッと畳のきしむ音が聞こえた。トイレと仏壇を結ぶ僕の背中側の通路を誰かがひっそりと歩いている。そちらを見るのも怖くてギュッと目をつぶるが、視界が閉じた分他の感覚は無駄に冴える。重い身を引きずるようにゆっくりと畳を擦る音、体重がかかる度に軋む。

 何度も通路を往復する人物が僕の側を通る度に背中に何とも言えない冷気が纏わりつく。そして近付いて来る息遣い。間違いなく僕の横で足を止めた。見えなくても気配で分かる。僕の顔を上から覗き込んでいる……。

「ひゃあぁっ!」

 堪え切れず間抜けな声を上げた時、隣の和室の襖が開いた。

「どうしたの?」

 母の声にホッとして目を開けると、確かに直前まで覗き込んでいたと思われたはずの人物の姿はなくなっていた。

 母と一緒に寝ずの番をしていたであろう叔父が明るい和室の奥の方でニヤリと小さく笑っている。叔父は何かを知っているらしい。


 母がいれてくれた茶を啜る僕に叔父が言った。

「だから通路側に寝るなって義姉さんに言われただろう?」

 前夜の母の寝返りの原因もあの寒気と、人の気配だったらしい。

「ありゃあ爺さんだ。最後の別れにきたんだよ」

「叔父さんは大丈夫だったの?」

 僕は朝呑気に鼾をかいて寝ていた叔父の姿を思い出し尋ねた。

「ああ、爺さん血のつながった奴等のところにしか挨拶に行かなかったらしい。叔母さんの所にはちゃんと来たよ。トイレ側に寝ていた伯父さんの所にもな。十五年も義理の親子だったっていうのに俺には挨拶もなしだなんて薄情なもんだ」

「怜ちゃんは? ゆき兄のところは?」

「ああ、そういや怜たちは何にも言ってなかったな。通路側の奴らに挨拶するので精一杯だったんだろ。寝相の悪いお前を乗り越えて怜やゆき兄のところまでいくのは足腰弱ってた爺さんには無理だったんだろうよ」

 そう言って大したことのないように笑う叔父は元々豪胆な人だ。そんな人が確信をもって話しているのを聞けば、不気味さは薄れていく。祖父だったのなら、今度は目を開けてみてもいいかもしれない。にこりと優しく笑ってくれるのかもしれない。

 気付けば空は既に白み始めていて、さっきまでの寒さは嘘のように消えていた。気の早い蝉の鳴き声が聞こえる。


 葬式は三日間続いた。昨夜と同じ儀式。昨夜と同じいくつもの蛙の腹。気持ち悪くはあったけれど、昨日のような不気味さは感じなかった。

 祖父はもう来なかった。最初の二晩で通路側に寝ていた皆への挨拶は済んでいたらしいので、それでだろう。

「お祖父ちゃんはせっかちな人だったからね」

 母は遠くを見ながらぽつりとつぶやいた。

 その懐かしむような視線の先、祖父が埋葬されたばかりの墓の方角だということに気付いたが、僕は何も言わなかった。

















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