赤百合
アスカ
第1話
『昨夜未明、××市にて、身元不明の男性の遺体が見つかりました――』
端正な男性アナウンサーが、神妙な表情で原稿を読み上げる。真っ暗な部屋の中、テレビの明かりは異様な自己主張をしていた。
画面が真っ暗な夜の団地に切り替わっても、彼は淀みなくニュースを視聴者に伝えていく。
男は全身にやけどを負っていたこと。殺人の可能性が高いこと。また、同様の事件が十数件起きていること。警察は連続殺人と見て捜査をしており、市民に注意を呼び掛けていること――。
この団地はよく知っていた。昨日はあそこで、と他人事のように考える。
犯人不明の連続殺人。被害者の年齢はまちまちで、下は十代、上は七十代の老人が殺されたケースもあった。共通点は全員が男で、焼き殺されているということ。この共通点ゆえに、ワイドショーはこの殺人犯を好き勝手な名前を付けて連日取り上げている。
ぱちん、と不意にテレビが消された。
部屋に暗闇が落ちる。まるで世界に残された最後のテレビの電源が切れてしまったかのような錯覚を覚えた。
だがもちろん私の部屋のテレビはそんな大層な代物ではないし、電源だって買って一年でそこまで劣化はしない。
大体、窓からは街の明かりが入ってくる。錯覚は錯覚だ。世界は荒廃すらしていない。
「寝る前にこんなつまらないものを見るの?」
街灯を背にベッドに座るユリ先輩がリモコンを脱ぎ捨てた私のブレザーの上に放り投げながら、奇妙なものを見たというような声でそう言った。
「……あと五分でドラマが始まるんです」
掛け時計の秒針が回る静かな音を聞きながらそう答える。テレビは沈黙を続け、再び点灯する気配はない。
ごそり、と先輩が立ち上がった。
「見たいわけではない癖に」
ゆっくりと私の背中に腕を回す。
ふわりと香り立つ、リンスの甘い匂い。長く細く、真夜中の川底のように黒い先輩の髪の毛に、喉の奥が鳴る。
いい加減、この暗さにも目は慣れている。
彼女のパジャマは、ボタンがすべて外れていた。
もちろん、見たいわけではなかった。ドラマなど、誰が見たいものか。
肩を落とす。全身の力を少しだけ抜く。
「寝るつもりはない癖に」
ささやかな反抗を試みると、ユリ先輩はふふ、とむしろ嬉しそうに笑った。
先輩の瞳が妖しく輝く。音のない光。それでも、私の胸は高鳴り、何かが沸き立ってくる。
気が付いたら、私の唇は封じられていた。柔らかく、温かい感触。だがすぐに、もっと熱いものが口の中に押し込まれる。
「ん、んうぅ……」
体が震える。息が止まる。服を脱がす手が乱れる。
挑発するように、ぴくりとそれが動く。私のどこかで残っていた自制心が、からからと崩れていく。
私は、彼女の舌を、噛んだ。
ゆっくりと、軽く、優しく。
噛んでみると、今度は胸が苦しくなるほど狂ったように鼻息が荒くなる。
パジャマを剥ぎ取ると、大きな胸が露になる。形の整った、柔らかい胸。ユリ先輩は待ち望んだかのように私のパジャマのボタンに手をかける。
先輩の手際はよかった。指の細やかな動きと、舌の熱さに涙すら浮かぶ。
どちらともなく体を押し付け合う。ひくひくと痙攣する腹の動きに呻き声が溢れ出た。
ぷは、と舌を離す。同時に、先輩も口を離した。
脚本もない、示し合わせたわけでもない。合図があったわけでもないが、私にはいつ先輩の舌を離せばいいのか自然にわかった。
いつ口をつければいいのかも。
剥き出しになった先輩の細い腕に、鳥肌が立っている。たぶん、私の肌にも。
体の奥がドクドクと音を立てる。押し殺した呼吸が、だんだん荒くなっていく。
「――っ!」
私たちはもう一度口をつけた。先輩の舌に噛みつく。先ほどよりは強く。だが本気では噛まない。まだ、噛まない。
「ぐうぅ……」
唸り声が漏れる。どちらの声だったのか。わからない。わかる必要もない。
悲鳴のようなものでもあった。焦っていたのだから。まるで乾いた地に咲いた小さな花が水を求めるように。
けれど、手際のいい先輩とは反対に、焦れば焦るほど私の指はもつれてしまう。
ちゃんとしなければいけないのに。そう思うと意識がどこかへ飛んで行ってしまいそうになる。
「ん、ん、んあ……」
歯が震えた。
私のブラジャーのホックを外した先輩が、ゆっくりと私を抱きしめる。されるがままになって、ブラジャーを剥ぎ取られる。
放り投げられる白くて小さな拘束具。
小さな胸で感じる先輩の体は、少しくすぐったい。
気が付いたら、私の指はちゃんと動くようになっていた。
ズボンを下ろし、下着に手をかける。その時はいつも、少しだけ緊張する。固く閉ざされた箱を開けるかのような奇妙な恐怖が一瞬だけ過ぎる。
目をつぶると黒い影が浮かんだ。
私から布を取り除いた先輩はいつも待っていてくれる。その体温と舌の厚みに縋りつく。
意を決して、最後のそれを下ろした。
「……」
口を離す。どちらが望み、どちらが合わせたのかはわからない。
先輩は子供をあやすかのように微笑みながら、私をゆっくりとベッドに寝かせる。
窓からの街灯に照らし出された体の輪郭が薄い暗闇の中で淡く浮かび上がる。
先輩の重さと柔らかさと、無防備に垂れた胸。車の音がどこか遠くで鳴り響く。
ゆっくりと、影が身を引くのを感じる。
小さく息を吐いた。
とがった乳首に唇を当て、舌で舐める。
ひゅ、と一瞬だけ呼吸が乱れたのがわかった。
彼女の肌から分泌された汗の味に、一瞬目が回る。
気が付いたら背中に手を回して強く抱き寄せていた。いや、あるいは彼女のほうから押し付けてきたのかもしれない。
体の芯から、何かが膨れ上がる。世界が歪んでいく。ぐちゃぐちゃになった視界の中、ユリ先輩だけがはっきりとしていた。彼女の体温と、息遣いと、肌の感触と、匂いと、味だけが現実だった。
胸を噛む。強く、強く、しっかりと噛みしめる。
その代わりと言わんばかりに、耳を舐められた。耳から、顎へとざらざらとした舌が動く。
陰毛を擦り付けられ、体が痙攣した。
体の火照りは消えない。お互いの体は、お互いの体液でドロドロに濡れていた。
「どうして、今日?」
声を捻り出す。言い知れない脱力感に身を包まれてなお、体の奥底にうねる疼きを抑えることができない。
全身に私の歯型をつけたユリ先輩は、何も言わず、ただクスリと笑った。含みのある笑みだった。
不意に股間に太ももを押し付けられ、ひう、と声を上げる。
跳ね上がった心臓の音に耳を傾けながら、けれど先輩の細い指が私の手首をなぞるのをはっきりと感じ取っていた。
そこに何があるのかを、私は知っている。古い切り傷。
諦めるしかなかった。
「死のうと……思っていました」
声を震わせる。言葉にすれば、何かが決定的に変わってしまうかもしれないと思った。
だが、実際には何も変わらなかった。先輩はただ黙って続きを促している。
一段と大きなエンジンの音が外から聞こえて、通り過ぎて行った。
「なぜというわけではないんです。ただ、今日がいいんじゃないかと」
方法ならば、いくらでもある。
このアパートから飛び降りれば少なくとも無事では済まないだろうし、近くには川もある。夜になると極端に人気が少なくなる場所だって知っている。あとはほんの少し、勇気を出すだけ。いや、勇気なんてなくてもいい。ほんの少し行動するだけでいいのだ。たったそれだけで、全てが私と無関係になる。――いや、私が全てと無関係になる。
そして死んだ人間は、恐怖も後悔も苦痛も感じない。それらを感じるのは、生きている人間だけだ。
先輩はどうしてわかったのだろう、と思った。だが口にはしなかった。部活でフルートを吹きながら、ホルンを吹く私の後姿を見て何かを直感したのだろう。
だらけた私の手のひらを撫で、力が入らない指を弄る。
「私が魔女だっていうことは覚えてる?」
そう言われ、私は「はい」とほぼ機械的にうなずいた。
気づけば、苦しいほどに昂っていた心臓が湖のように静かになっている。
「どんな魔法を使うんですか?」
名残惜しさを感じた。
「あなたも魔女にしてあげる」
そんな私にユリ先輩は小さく笑い、そう囁く。ふわり、と彼女の体に異変が起きる。
突如現れたローブが艶めかしい体を覆い、乱れた頭にとんがり帽子が乗る。
薄暗い部屋ではよくわからないが、私はそれが赤であることを知っている。
「……なれるんですか?」
驚かなかったのは、前にも見たことがあるからだ。
ふふ、と彼女は目を光らせる。それが魔法によるものなのか、それともそれが彼女の美しさによるものなのか、私には判別できなかった。
「言ったでしょう、あなたには才能があるって」
そういいながら、先輩は私に口をつけた。いつも通り捻じ込まれた舌をほとんど反射的に噛もうとして、息が止まる。
全身を、風のような何かが駆け抜けていく。
口から、何かが流し込まれていくのがわかった。
まるで、まるで――どろりとした液体のような、熱い、何か。
否応なしに喉の奥へと流れ込む。体が、痺れる。
「ん、んう……ッ」
思わず呻いて身をよじらせた。けれど抜け出すことはできない。もともと脱力しきっていたし、何よりがっしりと体で体を固められていた。
かち、かち、と機械的な音が頭の奥で鳴り響く。この音には聞き覚えがあった。でも、なんだったか。
気が付けば、私もローブを纏っていた。頭には帽子が付いているのがわかる。
――魔女。
私は、魔女になった。
そのとき、私は空を見上げていた。
夕暮れ時の空だった。秋の空気は冷たく、吐いた息が白い靄となって消えていく。
まるで油絵のようだ、と私はそんなふうに思っていた。空だけではない。眼下に広がる街の景色も、もうすぐ壊される予定の廃ビルも――そして、私自身でさえも。よくできた作り物のように思える。
この日ここに立とうと思ったことに、理由はない。特段苦しかったわけでも、悲しかったわけでもない。ただ、今日ならできそうだと思っただけだ。一歩、前に踏み出すことができそうだ、と。
実際に、それはできそうなことだった。恐怖はあったが、それは行動を阻害する理由にはなりそうもなかった。死んだ人間は、恐怖も公開も苦痛も感じない。
吹き上げる風を感じながら、ふう、と息を吐く。
「へえ、それで?」
「……っ!」
背後から話し声がして、思わず呼吸が止まった。
人。
こんなところに、人。
完全に予想外だった。ここに来るまでに誰ともすれ違わなかったし、そもそもこんな人気のないところに誰か来るとは思ってなかった。
誰かに見られている。そう思うと、急に恥ずかしくなってきてしまう。人間とは奇妙なものだ。
おそるおそる振り返ると、女子高校生が無表情と微笑みの中間くらいの顔をして、こちらをじっと見つめていた。それが部活の先輩――ユリ先輩だったのだ。
彼女のほかに人はいない。電話をしているようでもなかった。
不思議だ。なら先ほどの『へえ、それで?』というのは私に向けられた言葉ということになる。どういう意味だったのだろう。
「おっ、気づいた気づいた。――ごめんね? 近づいていい?」
先輩がおもむろに手のひらをこちらに向ける。スクールバッグは彼女の足元に倒れていた。
風になびいて不思議な動きをする黒く長い髪の毛と柔らかそうな胸のふくらみを見つめながら、うなずく。
ありがとう、そう柔らかく笑った。
彼女が恵まれた容姿なのは、誰もが承知していた。中にはあからさまに嫉妬する人もいるほどに。
そうでありながら恋人というものを持たなかった。持っているところを見たことがないし、過去に持っていたという話も聞かない。
自然と、様々な噂が飛び交うことになる。実はこっそり誰かと付き合っている。先生と禁断の関係を持っている。中には年齢を詐称して売春しているなどという、悪意の籠ったものまである。本気で信じている人もいるが、もちろん根も葉もない憶測だ。
私自身は――そもそも興味を持てなかった。時間とともに流れすぎていく有象無象のうちの一つに過ぎなかった。
先輩はゆっくりと、一歩一歩確認するように慎重に近づいてくる。
少しの間それについて考え、ようやく私に配慮しているのだということに気づく。
馬鹿馬鹿しくなった。
配慮。私のために、配慮。
死のうとしている人間よりも、それを見つけた人間のほうが緊張しているなんて、滑稽がすぎる。
半ば呆れて、私のほうから彼女に近寄った。
一瞬顔をこわばらせた先輩だったが、私が飛び降りるのを諦めたのを見て取って、ふう、と肩を落とす。
「ごめんなさい。心配をおかけして」
気にしないで、と彼女は手を振った。
「間に合ってよかった」
するとやはり、気づいていたのだろう。今日、この日にしようというある種の天啓に。
「いつから……ですか?」
いつ気づいたのか、という意味で言ったのだが、先輩は『いつからここにいたのか』というふうに捉えたようだった。
「今来たばかりよ。何か恥ずかしいことをやっていたなら、見てないから安心して?」
もちろんすれ違いには気づいたが、訂正するのは諦めた。言葉足らずだったのはこちらの方だ。
それより、新しい疑問がわいてきた。
「どうしてここに?」
ということは、私の後をつけてきたというわけではない。
第一、私は路地裏に入ってから誰ともすれ違わなかった。だから、パラペットの上に立つことができたのだ。もし誰か一人でもすれ違っていたら引き返していたと思う。
鋭いじゃない、と先輩は笑った。
「偶然あなたを見かけたからついて行った――なんて嘘は通じなさそうね」
じっと先輩を見つめる。反対に、彼女はあらぬ方向へ目を向ける。考えなければ話すことが難しいことらしかった。
「才能を失うのは惜しいと思ったのよ」
意外すぎる言葉だった。
「才能?」
あまりにも無縁なものすぎて、何の、という疑問も浮かばない。聞き間違いかとすら思った。
そう、とうなずいた後も、先輩の視線はしばらく戻ってこなかった。単純にホルンの、であればここまで悩む必要はないはずだ。
十二分に時間をかけてやっと戻ってきた視線には、奇妙な光がともっていた。
「魔女の」
ふわり、と強い風が吹く。
吹いた、と思った。だがそれは錯覚だった。風など吹いていない。よしんば吹いていたとしても、そよ風程度だ。
めまいを起こした時みたいに、ぐらりと空間が歪む。
気が付いたら、先輩は真っ赤なのローブととんがり帽子を身に纏っていた。
絶句、という言葉をここまで体現したことはない。目を見開き、ぽかんと口を開け、けれど声は出てこない。
その時の感想をよく覚えている。
――まるで魔女みたいだ。
固まっている私を先輩が優しく抱きしめる。
薄い布越しに感じる、柔らかい胸の感触。少し開いた襟から見える鎖骨。
すうっと体の奥で何かが疼く。苦しいような気もしたし、悲しいような気もした。
その時、そこが人通りのない裏路地の、誰も来やしない廃ビルの上であったことは幸運だったのだろう。
何かに吸い付くように、先輩の首筋に噛みついた。
先輩は何も言わなかった。ただ、心臓の音が跳ね上がったことはわかった。
その日、先輩は私のアパートに泊まった。そして、彼女が彼氏を作らない本当の理由を知った。
まぶしい太陽の光に目を覚ますと、すでに先輩の姿はなかった。これはいつものことだ――いや、これも、というべきか。
先輩は、いつも気が付いたらいなくなっている。
丁寧に、翌日が学校の時は目覚まし時計までセットしてくれている。今日は鳴らなかった、とぼんやりと考え、休日であることを思い出す。
つくづく、不思議な人だと思う。小さなアパートで一人暮らしをしている私とは違い、先輩は実家で暮らしている。すくなくとも、先輩本人はそう言っている。
それなのに、私の家に泊まる時、親に連絡している様子はない。
構わないのか、とたずねたことがある。アホらしい、と返ってきた。
ふと掛け時計を見て、七時前であることを確認した。何があっても、この時間には目が覚めてしまう。
先輩に話したら馬鹿らしい、と言われた。私もそう思う。けれど――七時には起きていなければならないのだ。
この日も、きちんと時間通りにかかってきた。
少しだけ大きく呼吸をする。こんな電話、無視をしてもいいのではないか、とほんの一瞬頭に過ぎったが、結局はベッドから立ち上がり電話を取ってしまう。
もしもし、と小さく定型句を口にする。
「起きていたみたいね」
今日の相手は母だった。
「はい」
母と話すと、急にすべての感情が失われる。そんな気持ちになる。
心が虚無と化し、何も感じなくなる。
「ご飯はもう食べた?」
「はい」
質問に対し、相手の望む返事をするだけの機械。
「いい子ね」
母は私の嘘に気づかない。私がいうことを全面的に信用している。
「変なこととかしていないでしょうね?」
一瞬、昨夜のことを思い浮かべた。
親は男女間の恋愛を嫌う。何かがあったのかもしれないし、何もなかったのかもしれない。興味がないのでたずねたことはない。――というより、たずねればいやな顔をされるのはわかり切っていた。
彼女がお見合い結婚だったこととは何か関係あるかもしれない。
とにかく、母は私の一人暮らしをそこまで歓迎していないようだった。
いや、正確には歓迎はしていた。一方で不安がっているようだった。多分、私が一人っ子だからなのだろうと思う。
「……はい」
裸のままで答える言葉ではない。
とはいえ先輩との関係は『男女間の』ものではなく、嘘ではない、はずだ。
いい子ね、と母は何かの呪文のようにそういった。
かち、かち、という音が頭の奥から聞こえてくる。
母が何か言っているがよくわからない。答えなければならないのに、質問が耳に入らない。
動悸が起こる。答えられなければ、投げられる。
「聞いてる?」
母の最終通告が耳をついた。
「……っ」
瞬間、何かが体を突き抜けていった。まるで、金管楽器が一斉に同じ音を鳴らした時のような波動だ。
ガシャン、と受話器が床にたたきつけられる。
落とした記憶はない。
黄色いローブを着た記憶も、見たこともない槍を手に持った記憶も。
刃の両側に鎌がついた立派な十文字槍。それが電話機本体を貫いている。その姿はさながら、翼を広げ突撃した、一羽の鷹のようだった。
もちろん、そんなことをした覚えはない。
魔女、と心の中でつぶやく。
これが、先輩がくれた力。
槍から手を離し、思わず後ずさる。
あまりにもわけがわからなかった。
母からの電話を切ることができたという安堵よりも、恐怖のほうが勝った。それがこんなふうに電話を切れば後でどういわれるかわからないという恐怖なのか、自分が得た力に対する恐怖なのか私自身もよくわからなかった。
音もなく槍が霧散する。あれだけ立派なものだったというのに、幻かのように跡形もなく消えてしまった。ローブもとんがり帽子も。
だが夢だったのだ、と思い込んでしまうには壊れた電話があまりにも生々しかった。
今日の予定が何もなかったのは幸運だったと思う。
逃げるように机に向かい、参考書を開く。お菓子の缶を再利用したペン立てから引き抜いたシャープペンのボディー部分には噛み痕がついている。もちろん、私が無意識的に、あるいは意識して噛んだ痕だ。
幼いころから噛み癖がひどかった。鉛筆はあっという間にボロボロになったし、消しゴムを危うく誤飲しかけたこともある。
シャープペンを噛みながら、ふと鉛筆の噛み心地を思い出した。木材独特の柔らかさと固さ、歯が食い込む時のサクッとした感触、そして味。少し苦かった記憶がある。おそらく鉛筆のものではなく、塗料の味なのだろう。
あの噛み心地は、なかなか再現できるものではない。シャープペンシルという文明の利器に鉛筆が勝てる部分のうちの一つだろうと思う。
――こんなことを比べる人はいないと思うけど。
苦笑いをして、もう一度固いプラスチックを噛む。力強く噛んでも壊れにくい、という意味ではこちらの方が勝っている。
勉強をしながらふと、かちかちという音について考えた。魔女と何か関係があるらしい、脳内で響くあの聞き覚えのある音。
メトロノームだ。
機械的に、一定間隔でリズムを刻む、あの小さな振り子が出す音とよく似ている。
だとすれば、少し早めだったな、などと思った。
夜。
夕飯を何にしようかと考え、何もないことに気づいて苦笑しながら買い出しに行く途中、ユリ先輩を見かけた。
思わず足を止めたのは、彼女の隣に男がいたからだ。
皮ジャンにダメージジーンズ。髪も染めていて、いかにもなナンパ男。しかも、腕を組んで――会話すら弾んでいるようだ。
なぜ、という二文字が頭をぐるぐる回った。
そのあとに続く言葉はうまく紡ぐことができなかった。あまりにも多すぎて一つに絞ることができない。
あの男は、いったい誰なのだろう。
二人は息の合った足取りで、コンビニの前を通り過ぎ、人気のないほうへと歩いていく。
その先は、営業時間がすぎてシャッターが閉じた商店街が広がっている。
「……」
気が付いたら、ふらふらと後をついて歩いていた。
二人は私の他には誰もいない、明かりも少ない道を進んでいく。錆びた看板を掲げた書店の前を通り過ぎ、靴屋を無視してはんこ屋に差し掛かる。
急にユリ先輩が立ち止まった。驚いて電柱の陰に隠れ、そっと様子をうかがうと、先輩ははんこ屋のほうを指さして何かを男に伝えていた。男は怪訝そうに眉をひそめる。たぶん私も同じ顔をしていると思う。
ユリ先輩とはんこ屋は、どう考えても結びつきそうになかった。彼女の口からはんこやら印鑑やらという言葉が出てきたのを聞いたことがない。
ましてや、営業時間を過ぎたはんこ屋との関係など、想像もできなかった。
先輩が色っぽく微笑み、背伸びをして男に何か耳打ちする。途端に、男の口元が綻んだ。目を細め、瞳に光が宿る。
寒気がした。
もちろん夜だからというわけではない。空気の冷たさなど感じなかった。
いや――むしろ、熱い。苦しいほどに、熱い。
それなのに、猛烈な悪寒に襲われ、目が回った。
胃の中が沸き立ち、その場で吐きそうになる。
先輩は何を言ったのか? 男の表情は何を意味しているのか?
わかりそうな気がする。わかってしまいそうな気がする。
はんこ屋に向かって歩いていく二人を、目で追うことしかできなかった。
本当にはんこ屋のシャッターを上げて中に入ったら、どうにかなっていたかもしれない。実際にはそのすぐ脇の通路に消えていったようだった。
しばらく呆然としていた。動けなかったといった方が正しい。
吐き気がひどく電柱にもたれかかったが、なぜか吐くことはできなかった。
どこかに潜んでいるらしい虫の声が、まるで嘲笑っているように聞こえる。彼らは私に何も教えてくれない。ただ、ひそひそと鳴いているだけだ。
どうしたらいいのだろう、と思った。
私は、どうしたら。
だから、その異常な臭いに気づいたとき、それがいつから漂っていて、何を意味しているのかが全くわからなかった。
表現のできない、強烈な悪臭。
先ほどまでの悪寒や吐き気が嘘のように引いた。かわりにもっと単純な思考に支配される。
何だこの臭いは?
ふらふらとはんこ屋へ向かい、狭い路地裏をのぞき込む。そこが、ユリ先輩と男が消えていった通路だということを思い出した時には、もう遅かった。
大きな蛾やハエがたかる、切れかけた電灯のすぐ下。
薄汚い壁にもたれかかって、男が燃えていた。どういうわけかぐったりとしている。表情は炎に包まれ見えない。
「……っ!」
その瞬間、叫び声をあげなかったのは、あまりにも信じられなかったからだ。
男が燃えていることが、ではない。
火だるまを冷たく見下ろす、ローブ姿の魔女を見てしまったから。
――あれは。
そこから先は出てこなかった。
回れ右をして駆け出す。
何かに憑かれたような衝動のままに、私は走った。
翌日、私は先輩の顔を見ることができなかった。見ると、まっくらな路地裏が脳裏に過ぎる。明滅する電灯。燃える男。そして、魔女。
考えたくもないのに、先輩の顔を見るとあの場面が思い浮かぶ。
指が動かない。ホルンのレバーが嫌に固い気がする。
楽譜も妙に難解だった。意味のない模様がずらりと並んでいるだけのようにしか見えない。
耳に入ってくる演奏ですら、無機質だった。自分とは無関係なところで鳴っている、当たり障りのない雑音のようにしか聞こえない。今まさに吹奏楽部の部員のうちの一人として一緒に演奏しているにもかかわらず、だ。
――先輩に触りたい、と思った。それだけが頭の中で渦巻いていた。
どうしてなのか、先輩のほうから私に話しかけてきた。
「今日も、あなたの家に泊まっていい?」
これは一種の合図だった。
はい、と顔をあげる。
「……!」
だが、すぐに顔をそむけた。
影が、ちらつく。
先輩は何も言わなかった。
先輩との帰り道で、これだけ無言だったのは初めて彼女を『泊めた』とき以来だと思う。
その時は、気恥ずかしさで頭がいっぱいだった。今は、不安で頭がいっぱいになっている。
先輩の体のすべてを思い描きながら、けれど実際には手を握ることすらできない。そんな矛盾でどうにかなってしまいそうだった。
だから、アパートの扉を閉めた瞬間に全てが吹き飛んだのも、あるいは無理もないことだったのかもしれない。
「先輩……」
そう声をかける。
振り返った先輩は、微笑んでいた。
胸が苦しくなる。知らないうちに込み上げてきた嗚咽が漏れる。
自分ではどうしようもなかった。
先輩の胸に飛び込み泣きじゃくる。先輩は私がスカートのホックに手をかけることを拒まなかった。驚くことすらなかった。まるで、この行為がごくごく当たり前のことであるかのように。
早くその体をじかに触れたかった。そしてあらゆる曲線がどのような形をしているのかを確かめたかった。そのためにはあらゆる布は邪魔な存在でしかない。
彼女と私の服を剥ぎ取って、露になった裸の暖かさと柔らかさを全身で抱きしめる。
首筋に噛みつき、背中から尻へとその曲線を手でなぞる。濡れた割れ目に指で触れると、ひう、と先輩は鳥のような声を上げて私にもたれかかった。
じわりと滲み出る汗の匂いがより激情を掻き立てる。先輩の顎に垂れてきた涙を舐め取り、その塩辛さに全身が震えた。
気が付いたら床に押し倒していた。
先輩はしっかりと目を閉じ、まるでうなされているかのような表情で荒い息をしている。
夕日に照らされたその姿はまるで一種の作品のように見えた。この世界で完璧なものがあるとするならば、そのうちのひとつは汗に濡れたこの裸なのだ。
頭の奥底で路地裏の影が蜃気楼のように浮かんでくる。
それを振り払うために、胸を吸う。
うう、と唸り声が上がる。それが私のものなのか、先輩のものなのかはわからなかった。
いつ、気を失ったのかは定かではない。とにかく気が付いたら部屋が暗くなっていた。
先輩は薄眼を開けて静かに呼吸していた。それは深く考えているようにも、何かを待っているようにも見えた。
あるいは、そのどちらでもあったのかもしれない。
「昨日、どうして逃げたの?」
ぽつりと、ユリ先輩がつぶやく。
「……」
何のことですか、と言ってとぼけることも、聞こえないふりをすることもできた。
実際そうしようかとひどく悩んだ。
けれど、できなかった。
「どうしてでしょう」
不思議なくらいに受け入れていたからだ。
昨日の夜、男を火炙りの刑に処した魔女は、ユリ先輩だ。
そう、最初から理解していた。認められなかっただけで。
男ばかりを狙う連続殺人鬼の正体も、もちろんユリ先輩だ。よくわかっていたけれど、うまく飲み込むことができなかったのだ。
「私も、わからない」
先輩がまた、そうつぶやく。
私を通り過ぎてどこか虚空へと消えて行ってしまうような声だった。
「殺したいわけではないのよ。ただ、夜になると、メトロノームが頭の中で囁くの。殺せって」
もちろん、実際に頭の中で声が聞こえるわけではないのだろう。
槍で貫いて壊した電話のことを思い出した。私はそれを一度体験している。
ぶうん、と車の音がした。大きな音だった。アパートのすぐ前を走り抜けていったらしい。
「どうして男ばかりなんですか」
そうたずねると、先輩はおもむろに私の後頭部に手を回し、強引にキスをした。
あまりの不意打ちに思考が止まる。あっという間に上下が逆転した。
股間を脚で押さえつけられ、背筋が痺れる。口が塞がれているせいで声を出すこともできず、息が止まった。
しかし、性的な快楽より『突然何を?』という困惑のほうが勝っていた。何せ、当の先輩自身がどこか遠くを見るような目をしていたのだから。
そのまま、先輩は私にありとあらゆる刺激を与えてくる。
いや、与えるというよりも押し付けるという方が正しいかもしれない。全身をがっしりと押さえつけられ、ひきつるような感覚に震えながら悶絶どころか身じろぎ一つできない。
ただ、このぞくぞくする震えはあくまでも動物的、本能的なものでしかなかった。悦びが伴わない。むしろ苦痛すらあった。喉が鳴れば鳴るほど、意識が揺らげば揺らぐほど、空白感が広がっていく。
「……昔」
唐突に口を離し、先輩が語り始める。
抑揚のない声とは真逆に、刺激の与え方には緩急があった。先輩は私のリズムを完璧に理解していて、無意識レベルでそれに合わせることができる。だから私は先輩の話を聞き取るために、必死で意識を保たなければならなかった。
「昔、私は兄に襲われた。私があなたにしていることを、兄にされた」
必死に声を抑える。
呼吸すらままならない地獄。苦しむ私を無表情で押さえつけ、先輩はさらなる責め苦を課す。
ずぶりと、指が入ってきた。
声を上げようとする私と、堪えようとする私に分裂して、どうにかなってしまいそうだった。
「訳がわからなくて、夢だと思うことにした。悪い夢なんだって。でも、現実はもっと酷かった。気が付いたら私が兄を襲ったことになっていたの」
ユリ先輩が何を考えているのかは全くわからなかった。私にこの地獄を味あわせて何がしたいのだろうか。
それ以上に、この唐突な独白が何を意味しているのか。
「パパとママは性的なことを嫌っているから、私を排除することにした。もちろん泣きながら『違う』って訴えたけれど、二人とも兄のほうを信じた。不潔な娘の言うことなんて、聞いてくれるはずもなかった」
指が繊細に動く。それに合わせ、私の体が勝手に反応する。
先輩が目を伏せる。やはり、私を見ていない。というより、何も見ていないように思えた。
今まで必死に抑えてきたが、声が喉から漏れ始めている。意識のほうも、そろそろ限界を迎えているようだった。快楽という名の拷問に、精神力より先に体が壊れそうになっている。
そしてそれすらも、ユリ先輩は見通しているようだった。
「家を追い出された日の夜、私は初めてメトロノームの音を聞いた。そして、人を殺した――」
歌うような先輩の声が耳に残った。
するりと私から指を引き抜き、ゆっくりとキスをする。差し込まれた舌に、考えるよりも先に噛みついていた。
十分に時間をかけたキスをすると、私はもうぴくりとも動けなくなっていた。虐め抜かれ疲れ切った体は呼吸以外のことができなくなっている。
ユリ先輩はそんな私を一瞥して悠然と立ち上がった。美しい曲線美に目を取られていると、くるりと踵を返した。ほぼ同時に彼女は赤いローブを身に纏う。
その意味に気づいたときには、ユリ先輩は家から出て行った後だった。
「……」
先輩は、一人暮らしをしていない。
それでも親に連絡せずに私の家に泊まれるのは『排除』されているからだったのだろう。
止めなければ、と思った。
深い考えがあったわけではない。ただ、酷く傷ついているように見えた。
気怠い体に鞭打って制服を着る。
全部着てしまってから、動きやすい服ではなく近くに落ちていた制服を着てしまったことに自分で笑ってしまった。乱れた髪を直す気力もない。
外に出ると、すでに先輩の姿はなかった。いるはずがない。私を待っているわけでない限りは。
見つけるのは大変なはずだ。けれどなぜかどこにいるのかわかる気がした。これも魔女の力なのかもしれない。そういえば、私が廃ビルの屋上に立った時も、なぜか先輩は私の居所を的確に当ててきた。
夜の街をにらみつける。
まったく理由がないわけではないとはいえ、勘を頼るというのも不安なものだ。ただ不思議なことに、歩いているうちに徐々に自信が出てきた。
何かに突き動かされるようにして歩き続ける。この時間でも人通りがそこそこある道をしばらく進み、不意に逸れたことで自信は確信に変わった。間違いなくユリ先輩はこの先にいる。しかもまた、人を殺そうとしている。
人気のない寂れた公園に先輩はいた。
例によって男は眠らされていて、ジャングルジムのシーソーにもたれかからされている。
彼の前で冷酷に佇んでいる人がいる。
「先輩!」
声をかける。
しばらくの間反応は返ってこなかった。声が届かなかったのかと思ったくらいに。
けれど、それは単にそれだけの時間が必要だったということだったらしかった。じっくり間をあけて、こちらを振り向く。
とんがり帽子の下から覗く瞳がまっすぐこちらを捉える。
「あの、もうやめませんか?」
とりあえずたずねたが、聞いてくれるとは思えなかった。
その有無を言わさぬ妖艶な笑みを見ればわかる。やめるつもりはないのだと。
あるいはクセになっているのかもしれない。人殺しがクセというのもひどい話だが、そういうことはあると聞いたことがある。
それなら、強引にでもやめさせなければ。
そう思って一歩踏み出す。
ひゅん、と熱が頬をかすめた。
嫌な汗が噴き出る。
振り返ると雑草が燃えていた。
それがどういうことなのか、理解するのに時間はかからない。止めるなら私ですら燃やすということなのだろう。
信じられなかった。先輩が私を攻撃するとは。
だが事実として先輩は私をも焼くつもりでいる。
「どうして……」
思わずつぶやいた声が届いていたのかどうかはわからない。
先輩はただ無言で人差し指を立てた。その指先に音もなく炎がともる。
どうもこうもない。彼女は魔女で、私も魔女だ。なら戦うしかない。
かち、かち、とメトロノームが頭の奥で鳴り響いた。
あるいは、最初からこのつもりで私を魔女にしたのかもしれない。そんなことを考える。
「絶対止めてみせる」
呟き、あらためてユリ先輩を見る。
ふわり、と暖かい風が吹いた。体の奥から力が沸き上がり、着ていた制服がローブに置き換わる。虚空に槍が現れた。
息を吐いて、それを握る。相変わらず、重さは感じない。何でできているのかもわからないが、不思議なくらいに手に馴染む。
戦ったことなんて一度もないのに、先輩の動きが手に取るようにわかる。呼吸のリズムも、瞬きの間隔も。感じるはずもない肌の温かさも、聞こえるはずのない鼓動の音さえも。
先輩のことなら、全てわかっている。
「……!」
先輩が指にともした炎を飛ばしてきたのと、私が地面を蹴ったのとが同時だった。
飛んできた炎を槍で薙ぎ払う。
その向こうにいる先輩の目を見て次の攻撃に移ろうとしていることを瞬時に把握する。腕から指先。胸の動き、腰の動き、脚。そして表情を見れば、何を考えているのかわかるような気がした。
即座に体を捩じらせ、攻撃をかわす。背後でなにかが燃える音がする。
だが、この苦しいほどの熱はそのせいではない。体の奥から滲み出る汗の理由も。
先輩も私の突進をかわそうとしている。
それを、私は、わかっていた。
槍を突き出す。
どん、と鈍い衝撃を感じた。
「――ッ」
どん、という音がした。
いや、本当にそういう音がしたわけではない。そう感じただけだ。
ガタガタと体が震えてくる。
「――ふう」
刃が。私のステッキの刃が。
倒れ込んだ彼女の体を貫いていた。
「先輩……?」
ぐらぐらと世界が揺れる。
シュウゥン、と槍が消える。幻のように。いや、本当に幻なのだ。魔法の槍なのだから。
途端に、どろ、と赤い血が地面に零れだす。気味の悪い物のように地面に染みていく。
ふふふ、と痙攣するかのように彼女は笑った。
「よかった……」
そういいながら、く、と顔を歪ませながら唾をのみ込む。いや、それは唾ではなかったのかもしれない。
「先輩、そんな……」
こんなことするつもりは。
震えながらその体を抱き上げる。重い。こんなに重い。
いいんだよ、と彼女は笑う。口の端から、血が漏れる。
「ありがとう」
最後に、ユリ先輩はため息をついた。
赤百合 アスカ @asuka15132467
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