第46話 ラ・ラ・ランドリー
建物の前に到着すると、なんとドアは開ききった状態だった。どおりで声が良く聞こえるはずだ。なんて不用心な家だとは思ったが、よくよく考えると、ここも塀に囲まれたアリシュテル家の一部である。不審者がいるはずもない。近くで見ると一層普通の一軒家にしか見えないので、脳がバグってしまった。
ドアの前に立った時点で中に人が沢山見える状態ではあったものの、クレアは律儀に、既に開いているドアをノックした。
「失礼いたします!ミーナさんはいらっしゃいますか!?」
今まで聞いた中で1番張り上げられたクレアの声も、室内の
「ほぉーら、静かに!!お嬢様たちが来たよ!ミーナはどこ行った!?」
「えっ?…やだ!本当にお嬢様来てるじゃない!?」
「ほら、あんたそこ退いた退いた!お嬢様の道塞いでるよッ!」
「そう言うアンタこそ、デカいケツでお嬢様ぶっ飛ばさないように気をつけなさいよ〜?アンタの首まで吹っ飛ぶことになるよ?」
「あっはははは!!違いない!」
静かになりかけていた室内は、再び笑い声で包まれる。空気の震えがこっちまで伝わってくる程だ。想像はついていたが、実物はそれ以上に圧巻だ。昨日の料理人たちで慣れたつもりだったけど、他のメイドたちよりも体格の良い彼女たちが腹の底から声を出すと、圧がすごい。別格だ。
クレアは呆気にとられているようで、昨日は即座にサラの耳を塞いでいたが、今日は横に突っ立って微動だにしない。どうやら、クレアも彼女たちに会うのは久々らしい。サラ達を置いてきぼりにして、彼女らの話は目まぐるしく飛び交う。
「あ〜はいはい!で、ミーナは?」
「あ、わたしさっき外出てるとこ見ましたよ!」
「あー、今日久々のいい天気だからねぇ。すみません!悪いけど、外回ってもらえます?外出て右側にぐるっと回ったら、そこで洗い物してると思うんで!」
真っ白な歯を見せて太陽のように笑う彼女に、クレアもサラも少し引きつり気味の笑顔を返すことしか出来なかった。
家の中を見たまま、1歩後ろに下がる。本音を言えば、ミーナという女性に会う前に、勢いに押されっぱなしの胸中を落ち着かせて体勢を立て直したい。別にその結果何かが変わるわけでもないけど。
しかし残念ながら、ドアから少し離れて外に出ただけで、部屋からは聞こえてこなかった歌声がはっきりと耳に届く。それも1人2人の声ではない。ほぼ間違いなく、ミーナたちが作業している所から聞こえているのだ。屋敷の大きさに慣れてきた沙羅からすると、普通の一軒家の外周の長さなんてたかが知れている。目と鼻の先の角を曲がれば、すぐに彼女たちに遭遇することだろう。
頭上から、クレアが深呼吸する音が聞こえる。サラも彼女に倣い、体中の空気を絞り出すくらいに大きく息を吐く。
クレアは、サラが息を吐ききったのを聞くと、先陣を切って次なる1歩を踏みしめた。
「わぁ…!」
角を曲がって、クレアの向こうに見えた景色に、思わず歓声が溢れた。サラの目をまず引きつけたのは、気ままに歌うメイドたちではなく、洗濯物だ。真っ白なシーツ類が10枚以上物干し竿に吊るされて風にたなびいている光景は、まさに壮観だった。奥には様々な大きさのタオルや、メイド達の服も一緒に揺らめいている。風に混じって洗剤の匂いもする。
サラは、先ほど空っぽにした肺が一杯になるまで、その空気を吸い込んだ。当然、沙羅が日本で使っていた洗剤とは匂いは異なる。それなのに、何故か物懐かしさを感じて、眩しい白色に目を細めた。
「あら。もしかして、お嬢様?」
洗濯物に心を奪われている内に、歌声は止んでいた。そしてそれは多分、今サラ達に話しかけている恰幅のいい女性が、主旋律を歌っていたからなのだろう。女性の横で、数人のメイドがこちらをチラチラと盗み見しながら、手を動かし続けている。サラは彼女の顔を見て一瞬放心してしまったが、すぐに慌ててスカートの裾をつまんで挨拶した。
「初めまして。サラ・アリシュテルですわ」
「やだ。あたしみたいな下っ端に、そんな丁寧に話す必要無いですわ。あたしはランドリーメイド長のミーナ。会えて光栄です」
エプロンで拭いた手を差し出されたので握り返すと、ミーナの手は驚くほど冷たく、水仕事のせいか荒れて硬い肌触りだった。反射的にミーナの顔を見上げて、またすぐに目線を泳がす。それに気が付かないミーナではなかった。彼女は一段声を優しくすると、子供を宥めるような声でサラに語りかけてくる。
「ごめんなさいね。これ、気になるでしょう?」
そう言ってミーナが指差したのは、まさしくサラが目を逸した原因だった。ミーナの顔を見ようとすると自ずと視界に入る、左目を覆うような赤い
今までの沙羅は、どう接していいか分からないものにはそもそも関わらなかったし、見ないふりをしてきたのだ。いざ対峙するとなると、ここまで不器用な人間だったとは。目を背ける行為も、相手の気分を害するだろうということまでは、全く気が回っていなかった。
それもよりによって、嫌な思いをさせた相手に謝らせてしまうなんて。今は5歳といえど、精神的には16歳のはずなのに。自分の狭量さに気がつき、恥ずかしさで血の集まる顔を、慌てて俯いてひた隠した。
「ごめんなさい。あなたが謝る必要なんてどこにもないのに…」
なんとか絞り出した言葉は、あまりにも弱々しい。それでも、「痣なんて全く気にならない」という嘘をつくことはできなかった。
それなのに、何故なんだろう。ミーナは、堪えきれないとでもいう風に吹き出し、背中を反らせて豪快に笑い始めたではないか。心なしか、目に涙すら浮かべているように見える。心底可笑しそうなその笑い声は、元々通りやすい声質らしく、1つの曲でも聞いている気分になる。夏の空のような、どこまでも澄み切った声だ。
ミーナは、驚き固まるサラの肩を抱き寄せる。まだ笑いが収まっていないようで、ミーナの肉厚な身体越しに、振動が伝わってくる。
不思議なことに、初対面の見知らぬ女性、それもサラにとっても知らない女性に抱きしめられているにも関わらず、一切嫌な気がしないどころか、安心感すら感じる。そっとクレアのお腹に顔を
「いーい?あなたは貴族である前に、まだ子供なの。そんなの気にしなくていいんだよ?それに、
サラの肩を
自分を奮い立たせ、ミーナから体を離す。そして、今度は真正面からミーナの顔を見た。赤く痛そうに見える痣も、目を逸らさずに見据えると、サラは今更ながら、ミーナの瞳が黒色ではなく、夏の草木のような美しい深緑色だということに気がついた。
「…生まれつきってことは、痛くはないの?」
「そう、ちっとも」
目線を合わせたまま、ミーナはサラを安心させるように、左目の痣を手でペチペチと叩く。そのミーナの言動に、ようやく沙羅の中で納得がいった。
そうか。生まれつきあって、痛くないのなら、ほくろや蒙古斑と一緒だ。なにも腫れ物扱いする必要もないじゃないか。
そう思うと、呪いが解けたかのように、ミーナの顔の見え方が変わっていく。赤一色にすら見えた顔が、それぞれのパーツに分かれだす。深緑の瞳は垂れ目がちの二重。ボリューム感のある唇に、スッと高さのある鷲鼻。ひとつひとつのパーツが大きく、華やかな印象の顔立ちだ。ふくよかで肉付きがいいが、それでも海外セレブのような美人に分類されるだろう。
「痛くないのなら、良かった。でも、やっぱりごめんなさい。慣れたって、嫌な気持ちが無くなるわけじゃないもの」
今度はしっかりと目を見て、ミーナに謝る。深緑の瞳は、驚きに目を見開いたことで、キラキラと光が射し込む。そして、さっきの豪快な笑い方が嘘のように穏やかに、サラに向かって微笑んだ。
「驚いた。やっぱり、あなたは旦那様と奥様の子供なんだわ」
「…どういうこと?」
「あたしが、どうしてここで働いてるのか知ってる?」
ミーナの問いに、ふるふると首を横に振る。するとミーナは、洗濯物の入った大きな桶の横にあるベンチに座るよう促した。
話してくれるのだと察したサラが座ったのを見届けて、ミーナは近くにしゃがみこみ、洗濯物を手にしながら口を開いた。
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