第45話 探検を続けよう
翌朝、目覚めは意外と悪くなかった。大きく伸びをすると、朝の冷たい空気に思考も明瞭になっていく。沙羅は普段、夢の内容をはっきりと覚えていることは稀なのだが、今回はその「稀」の方だったみたいだ。バッチリ全て覚えている。
「あーあ、どこまでもネガティブな奴…根強いな」
全く、癖というものはどれほど堅牢な呪縛なんだろう。過去の自分を思い返して不幸の汁を
リックに倣い、残念な自分の思考を振り払おうと髪をかき回してみる。すると、指が毛玉に引っかかり、予想していなかった痛さに短く悲鳴をあげた。そういえば、サラの髪は超直毛だった沙羅と違い、細くて柔らかい癖っ毛である。朝はどうしても、寝癖で小さな毛玉ができてしまうのだ。いつも起きてすぐに、クレアが丁寧に丁寧に梳かしてくれるから忘れていた。
頭皮に残る痛みに、現実に戻された気がする。気持ちを切り替えるために、もう1度腹の底から息を吸って伸びる。リセットされた体で布団から出ようとすると、ベッドサイドのテーブルに、エマに貰った紙包が置いてあるのが目に入った。
(あー、これ……)
昨日の自分が
「全くもう…あたしが食べなかったら、サラの口に入るわけでもないっての」
過去の自分を罵りながら、紙包を留めていた麻紐をほどく。中に入っているのがどんなお菓子か分からない以上、今日中には食べといた方がいいはずだ。腐らせてしまうなんていう、下らない結末にはしたくない。
紙が破けないようそっと開くと、沙羅の知らないお菓子が入っていた。
「クリーム…いや、クッキー?」
真っ白で、ワンピースに付いているボタンと同じくらいの大きさのそれは、ぱっと見ショートケーキの上に絞られたホイップクリームみたいだ。だが、紙に包んであっただけあり、触った感じはカサカサしている。日本でもあるお菓子なのかもしれないけど、勉強中のエネルギー摂取の為のチョコレートと誕生日のケーキくらいしか甘味との接点の無かった沙羅には、名前はおろかどんな味なのかも思い当たらなかった。
恐る恐る口に運ぶと、サクサクとした食感はつかの間で、すぐに口の中で溶けて無くなってしまった。舌の上にほのかに残る甘さに、名残惜しさを感じる。
「うん、おいし」
甘さが消え失せてしまう前に、続けざまに2つ、口に放りこむ。食べればサラの「体の記憶」が反応するのではないかと期待もあったが、そう都合良くはいかないのが現実だ。
この1ヶ月で確信を得たこととして、サラの体の記憶は、そんなに強くない。特に、沙羅がこの世界にいることに慣れ始めてからは、前以上に感知しにくくなってしまった。恋心のように元々強い感情はやはり残りやすいらしく、アルバムの例の王子たちの写真は、いつ見ても勝手に心臓が弾むけれど。
大丈夫。
何も分からなかったけど、それは後退ではない。ならそれで良しとしよう。
テストと違って、その1回きりで評価が決まるものじゃない。ここで立ち止まっても、今日半歩でも先に進めたらいい。最終的に前に進めてたら、こちらの勝ちだ。そう思うしかない。
肌をなぞる冷気に身をすくめながら窓に近づくと、そんなに天気は悪くなさそうだ。これなら、昼には日が出て暖かくなるに違いない。少しでも前進するためにも、今日は外の使用人たちにも会ってみようと決意した。
◆
今回はクレアが疾走することのないよう、朝の身支度の際に前もって話をつけておいた。朝食の間に話を通してもらえば、昨日ほどは急かさずに済むと思ったのだ。しかし、クレアは1枚上手で、
「そうおっしゃると思って、昨晩の内に他の使用人たちにも根回ししておきました!」
と言うものだから驚いた。有能だ。
今日は両親が在宅のため、2人ともサラについて来たがったけど、これはサラの冒険だからと丁重に断った。クレアはサラの事は根回ししているけど、両親のことまでは流石に想定外だろう。サラに2人がくっついて来たら、それこそ皆卒倒してしまう。
それでも渋る両親に、
「そういえば奥様。昨日のお茶会のお礼状を用意しなければなりませんわ。仲のよろしいお方だから、ご自分でお書きになるとおっしゃっていましたよね?」
「旦那様も、昨日の報告書を至急王宮に上げなければなりませんよ」
ヴァネッサとシュルツが、夫婦息の揃った援護射撃をしてくれる。父も母も恨めしそうに2人を見つめるが、意義は唱えないあたり、正論ではあったみたいだ。結果、元の予定通りサラとクレアの2人で行けることになった。めでたしめでたし。
という訳で、本日のお品書きは「ランドリーメイド、庭師、御者」の3点。クレアの勧めで、まずはまだ日が高くない午前中に、ランドリーメイドの所に行くことになった。
「ランドリーメイドって、お洗濯してる人でしょ?外でしてるの?」
「いえ、厳密に言うと全てが外ではないのです。彼女たちは専用の小屋で働いてますの。こちらですわ」
サラの知らない、厨房脇の裏口から屋敷の外に出ると、そこには確かに整備された道があり、庭や玄関とは違う方向に伸びている。そしてその終着点には、確かに家があった。小屋というより、普通の一軒家に近い、2階建ての建物だ。こんな所にまで使用人がいたなんて。
まるで、開かないと思っていた屋上の扉の鍵が壊れているのを知った時のような。住宅街のうねる細道をあてもなく歩いていたら、野良猫の溜まり場を見つけた時のような、そんな高揚感に支配される。前世でRPGのゲームに夢中になる人たちの気持ちが、やっと分かったかもしれない。
はやる気持ちを抑えて、大人しくクレアの後ろを付いて行くと、風に乗って声が聞こえてきた。
「女の人の声…歌?」
サラの独り言に、先を進んでいたクレアが大げさに振り返る。だけでなく、サラの目の前でしゃがむと、深刻な表情のままサラの両手を握りしめた。
「お嬢様。大切なことを申し伝え忘れておりました」
「な、なに…?」
「
「ふふっ」
「笑い事ではございませんわ!女性しかおりませんし、朝から晩までずっとあの小屋の周りで働いているので、他のどんな使用人よりも独立していて、独特な世界を持ってますの」
「へぇ、それは楽しみね」
「もぅ、お嬢様ったら。知りませんからね」
サラの笑いを含んだ軽い返事を聞くと、クレアはぷりぷりして先に進んでいってしまった。昨日だけでもかなり精神を摩耗してただろうクレアからしたら、余程とんでもない魔窟なのだろう。万が一サラに何かあったら、連れて行った自分のせいになりかねないのだ。
それでも彼女たちの存在を無かったことにせず、きちんと連れて行ってくれるクレアは、使用人の鏡である。
クレアの険しい顔の言わんとするところは、近づくにつれて明らかになった。建物に入るまでもなく聞こえてくる、女性たちの話し声、笑い声、歌声。歌声に至っては、鼻歌どころではない。ミュージカル俳優かと聞き紛うくらい、腹から声が出ている。
さて、2人分の初体験を捧げてくるとしようか。
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