第44話 ホットミルク

 「で?使用人に会ってみた感想は?」



 飲み物を注ぐリックが楽しそうに問いかける。リックは元々、色んな人との交流奨励派のため、沙羅があちこち動き回るのは嬉しいようだ。

 勝手に突っ走った無謀さを咎められると思ったのだが、夕食の際に両親に今日したことを話していた時から、ずっと上機嫌だ。少し気持ち悪いほど。


 表向きの感想は夕食の際に話しているので、沙羅としての感想を聞いているのだろう。なら、答えはすぐ出てくる。



 「いやー…、人が多くて、疲れた」


 「っはは。ま、そんなとこだろうとは思った」



 縫製室を出た直後、ばったりと出くわした化粧担当のナタリーに、完全にトドメを刺された。「可愛い」「肌がきれい」「お化粧できるようになるのが楽しみ」と散々人の顔をいじり倒してきたのだ。クレアも勿論引き止めてくれようとしたのだが、奉公の年数の差か、身分の差か。あまり強くは言えないようだった。

 どちらかというと、百波に似ているのはクレアではなくナタリーの方だったかもしれない。沙羅は脳内でこっそり情報を修整した。



 それにしても、なるほど。やけに楽しそうだと思ったら、リックは元々沙羅をいじって遊ぶ予定だったのか。それは楽しそうな顔にもなるだろう。意地が悪い。サラはリックに差し出されたホットミルクをぺろりと舐めた。…まだ熱い。



 「仕方ないでしょ。だって多分、今日1日で話した人数だけで、あたしの前世に交流したことがある人数の記録更新してると思う」



 ホットミルクに裏切られた気持ちも相まって、不貞腐れた声色を隠さずに言ってしまう。それを聞いてもリックは気分を害した様子もなく、納得したように何度も頷く。



 「あー、お前友達いないもんなぁ」



 喉奥で笑いを噛み殺すリックを、腹立たしいとすら思わない。全くの事実だからだ。ぐうの音も出ないとはこういうことか。言葉は出てこないし、口を塞いでくれるはずのミルクは熱い。仕方なく、ミルクを冷ますため、口をすぼめてふうふうと息を吹きかけるのに忙しい、ということにする。


 そんなサラを見て、リックは何も言わずにサラの隣に座る。自分用にとこっそり持ってきていたらしいマグカップには、サラと同じように熱々のミルクが入っている。

 リックはこともなげにマグカップを傾け一口飲むと、ようやくサラと向き合った。



 「んで、他の感想は?」


 「え?」


 「疲れたのは分かったけど、他にもあるだろ」



 はちみつの入った甘いミルクのせいか、執事モードがオフのせいか、表情はいつもより柔らかい。からかう笑みは、もうなくなっていた。しかし、よくよく見てみると、眉間にうっすらと皺の跡地が見える。…そういえば、今日は急なトラブルで呼び出されたとかいう話だったか。沙羅の知らない所で、随分と疲労が溜まっていることだろう。


 それなのに、いつも通りこうして夜に話す時間を作ってくれるところは、流石世話焼き代表だと感心してしまう。だからこそ沙羅も、下手な嘘をつけないのだ。



 「うーん…料理人たちを見ててさ…なんていうか、びっくりしたんだよね」



 頭の中のもやを払いながら言葉を探しているので、かなりたどたどしい話し方になってしまう。それでも、サラの言葉を、リックは遮らずに静かに聞いている。沙羅は雑多な記憶の中から、埋もれて光を放っているものを探っていく。



 「あんなに意見をぶつけ合ってる人たち…はは、本当に『ぶつける』って言葉が相応しいなぁ…うん、初めて見た。あたし、大声自体にあんまり良い記憶なくて、最初はちょっと怖かったんだけど。でも、ちゃんと見てたら、全然怖い人たちに見えなくて…」



 相手を責め立てる声というとつい、母親とか、前田とか、最期に見た百波を思い出してしまう。けど、それとは全く異質なものだった。あたしが知っていたのは、相手に受け取らせるつもりすらない、投げつけて終わりの、相手を斬りつけるための言葉だった。

 だけど、料理人たちの言葉の先にはきちんと相手がいて、その相手が受け止めて、投げ返してくれると分かっている言葉のぶつけ方だ。関係性が築かれているからこその、コミュニケーションの手段。これを信頼と言わずなんと言おう。



 「うん…あたし、多分羨ましかったんだ」



 あたしは、誰ともぶつかってこなかったから。信頼していないからこそ、あたしからも何も言わないし、誰からも受け取らないことを選んできた。その結果はごらんのとおりだ。

 百波と、母と、前田と、きちんと向き合って、ぶつかろうとしていたら、何か変わっていたのだろうか。あたし、彼女たちの気持ちを、知りたいとすら思ったことがなかった。



 「過去は、変えられないぞ」



 沙羅の脳内を見透かしたかのように、リックが静かに呟く。羨ましいと口にしつつ、表情には後悔が滲み出てしまっていたのかも。


 「分かってるよ」


 苦い気持ちを誤魔化すために、湯気の収まってきたミルクに口をつける。ミルクは思っていたよりも甘くて、波立つ心に染み込んでいく。サラは今しがた飲み始めたところだというのに、リックは既に飲み終えたようで、マグカップを机の上に置くと、行儀悪く足を組んだ。そして、まるでセリフをそらんじるように、宙に向かって言葉を投げる。



 「過去に起きたことは変えられないけど、過去をどう捉えるかは、これからの自分の在り方で変わるんです。どう足掻いても好きにはなれない過去こともあるでしょう。それすらも『仕方ない』と思える時がいつか必ず来る。そうなるように、今の自分を磨かなければいけませんよ」


 「それは、」


 「俺が昔、シュルツさんに言われたことだ」


 視線を上げたサラの頭を、リックが思い切りかき回す。彼の癖だ。この1ヶ月でどれ程されたことか。これをする時は、決まって慰めようとしてくれている時だ。そして、沙羅が考え込みすぎている時でもある。思考を振り払うように、もみくちゃにするのだ。

 それは、たった今教えてくれたシュルツの繊細な言葉とは違い、雑で原始的な手段だったが、そのどちらもが沙羅の心にしっかりと届いた。

 

 それにしても、シュルツにそんなことを言われるリックの過去とは、何なのだろうか。とても気になるが、事のついでに聞くようなことではない。出そうになった言葉は、ミルクと一緒に体内に流し込んだ。


 実は、リックがこの家に来るよりも前のことは、未だに何も知らない。他のメイドには聞けるのに、リックに聞けないのは、沙羅がこの時間に救われている自覚があるからだ。リックが触れてほしくないものを勝手に暴いてしまったら、と思うと、下手なことは口に出せないのだった。







 その日の夜は、あまりにもメルヘンな夢を見た。



 ミルクの湖の上で、小さな手漕ぎボートに揺られている夢。膝には人形ではない、本物のコモッコが乗っていて、少し離れたところに、今日エマに貰って開けられないままでいる、お菓子の包みもある。


 よくよく目を凝らすと、左右にそれぞれ岸が見える。左岸では、サラの家の料理人たちが言い争いながら料理を作っていて、ケイトが大きなコモッコのぬいぐるみを作ろうとしている。

 そして右岸には、家でぼんやりとコーヒーを飲む母親と、在りし日の沙羅のように草むらにレジャーシートを敷いて、虚ろな顔でスマホをいじる百波。



 動こうとしてオールを掴むと、あまりにも抵抗がない。ミルクの中から引き抜いてみると、オールだと思っていたものはただの棒だった。これでは、どこにも進めない。



 あたしは、どっちに行こうとしたんだろう。



沙羅の知らないエマの思い出



使用人の話を、他人事のように分析する自分



変えられない過去



それでも、今に幸せを感じてしまう心




―いや、違う。

 苦しさから、幸せに逃げようとしたんじゃない。逆だ。

 幸せだからこそ、逃げたくなってしまったのだ。慣れ親しんだ、日の当たらない所へ。だって幸せって怖い。転落があるから。日の当たるところには、必ず影もできるから。あたしが幸せになることで、不幸せになっている使用人だれかがいるんじゃないかと、不安になる。

 だからあたしは、幸せだと感じる度に、過去を思い起こすことで帳尻をとろうとしていたのだ。でもそれだと、今も過去も報われない。あたしは過去を安全装置にしたいんじゃない。



 オールが無くて良かった。

自分に呆れて船に寝そべると、こんな時でも月は綺麗に見える。


 とても楽しいのに、心の中でだけ過去を思い起こして勝手にへこむ、変な1日だった。皆のことを知って前進したようで、沙羅自身は1歩も進めていない。

 この1ヶ月で成長できていた実感があっただけに、少し環境を変えようとしただけで、すぐに臆病な沙羅が顔を出すのはショックだった。



 ここから、ここからだ。



 「たまには、こうしてユラユラ揺れるだけっていうのも、いいんじゃない?」



 いつかのあたしは、そう言えるように。


 今はせめて、臆病な自分ごと受け止めなければ。

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