第37話 大丈夫

 「つまり、実地訓練だな。奥様に実の子として甘え、クレアと一緒に外に出る。部屋に籠って勉強よりも、そっちの方が今のお前には必要だ」



 サラは、満足げに笑うリックを、探るように見つめる。リックの話は、あたしにとって願ってもない申し出だった。何の不満もない。感謝しかない。

 ただ、あまりにも理想的すぎて、臆病なあたしはつい予防線を張りたくなってしまうのだ。顔色を窺わないことが子供らしさの第一歩であるなら、なんと大きな一歩なのだろう。どうしても、1個1個の疑問を塗りつぶしていくような、慎重な選択肢を沙羅は選んでしまう。



 「リックのことも…その、お兄ちゃんだと思っていいの…?」


 

 恐る恐る聞くと、リックは先程吹き出したのなんか目じゃないくらい、大げさにむせた。反動で、咳が止まらなくなっている。



 「えっ、ご、ごめん」



 露骨なまでの拒否反応に、先手を打って謝る。やっぱり、図々しい願いだったのか。

 沙羅自身、無理なお願いだとは分かっていた。もう、彼の「可愛いサラ」ではないのだ。


 今までなら、そもそもこんな事絶対に聞かなかった。なのに思わず口から出てしまったのは、沙羅の本性まで知ったのに、リックがあまりにも優しくあり続けてくれるからだ。彼なら、沙羅の我儘も受け止めてくれるのではないかと、期待してしまった。


 そもそも、リックでなければ、お兄ちゃんが欲しいとすら思わなかったはずだ。沙羅にとって兄弟は競争相手にしかなり得ず、だからこそひとりっ子で良かったとしか思ったことが無かったのだから。

 それなのに、沙羅を叱って、赦して、認めてくれるリックを見ていると、サラのことがとても羨ましく感じてしまった。



 「ごめん、もう言わないから」



 ようやく咳の鎮まってきたリックに、再度謝罪する。努めて明るくしたつもりが、自分でも分かるほど平坦で嘘っぽくなってしまった。



 「違う。悪い、今のは俺が悪かった。その、お前の口から『お兄ちゃん』って単語が出てくると思ってなくてびっくりしただけだ」


 先程サラの頭を撫でた手で、今度はリック自身の髪を気まずそうにかき回す。その表情からは、動揺は見えるものの、拒絶や嫌悪は感じられない…と思う。



 「嫌じゃ、ない?」


 「嫌じゃない。ただ、1つ条件はある」


 「なに?」


 「俺と2人だけの時は、サラキサラとしていること。その上で、お前が俺をその…兄、だと感じるなら、それは良い」


 「そんな…いいの?」



 そんなの、あたしにだけいい条件じゃないのか。自分のままでいられて、沙羅としてリックと関係性を築けるなんて。

 沙羅の過去を聞いて、同情する気持ちがあるのかもしれない。それにしたって、沙羅自身のことを尊重してくれることが身に沁みて伝わってくる。それが嬉しくて、ただ、今まで受け取ったことのない量の優しさを、どう抱えれば良いのか分からなくなってしまうのだ。



 自分を好きになりたい。そう思っていても、やはりマイナス思考の癖は根付いてしまっている。改めて、痛感した。

 折角チャンスをもらえるんだ。変えていかなきゃ。そんなことをグルグルと考えていたら、リックが真面目な顔でこちらを見つめていた。


 何を考えているのかと思ったら、



 「いいも何も…俺はずっと、お前のことを沙羅として扱ってるのに、お前はお嬢様として俺と接するとか、なんかズルいだろ…」



そう言って、ソファの背もたれに肘をつき、そっぽを向いた。リックの不機嫌レベルを示す眉間の皺はあるものの、尖った薄い唇や少し膨らんだ頰から、怒っているというよりは、不貞腐れているように見える。



 「かっ、」



 (可愛い………)



 頭の中のごちゃごちゃした思考が全て吹き飛び、残ったのはその1つの単語のみ。年上の男性に対して言ってはいけないだろうそれが、うっかり出てきそうになり、慌てて口をつぐんだ。


 「か?」


 「んふっふ」


 むくれた表情のまま、視線だけをこちらにやるリックに、耐えきれず笑いが漏れてしまう。可愛いとは言わずに済んだ代わりに、暫く笑いを引きずってしまう。止まらない。




 (ああ、きっと、こういうことなんだ)




 小さい子や美人な人に対してじゃない「可愛い」という感情も、笑いが止まらなくなるのも、初めての感覚。胸の奥底がむず痒い。楽しい。なんだこれ。



 ああでも、大丈夫だ。

やっと分かった。ぐるぐる考えなくても大丈夫。リック達といたら、あたしは自分を好きになれる。そんな予感がする。延々と自分の中だけで考えているのが馬鹿らしくなる程に、ちゃんと沙羅を見てくれる人がいるんだから。

 思考の癖は変えにくくても、その度に掬い上げてくれる人がいる。ならもう、大丈夫。




 「んで?『か』って、何?」



 サラの笑いが収まるのを待って、リックが低い声で問い詰める。恐る恐る見ると、眉間の皺はさっきより増えている。サラが変なタイミングで笑い出したので、馬鹿にされたと感じ取ったのだろうか。確実に怒りゲージが上がっている。



 「あーごめん、えっと…『か』っていうのは……そう!『髪の毛』、はねてるよ?」



 もっと上手い誤魔化し方が出来なかったのかとは思うが、思いついたのはこれしか無かった。慌てて、リックの頭頂部を指差す。少し前に頭をかき回していたせいで、あらぬ所から毛の束が飛び出していた。

 リックは仏頂面のまま、サラの指した辺りを手で大雑把に撫でつける。途中、跳ねている部分が触っていて分かったのか、苦虫をかみ潰したような顔になった。



 「気づいてたなら、もっと早く言ってくれたら良かっただろ」


 「ごめんごめん。今…じゃない。さっき、気づいたから」


 「はぁ…。お前の笑いのツボはよく分からないな。というか、ちゃんと話聞いてたのか?」


 「それは勿論!ちゃんと聞いてたよ。その…ありがとう。サラだけじゃなくて、あたしのことまで尊重してくれて」



 そうだ。真面目な話をしていたのだった。やっと、ちゃんとリックにお礼を言うことができた。

 リックはありがとうが返ってくるとは思っていなかったようで、少し目をみはったが、真っ直ぐこちらを見て微笑んだ。吊り目がちの目尻が下がって、柔らかい印象になる。



 「分かったのなら、それでいい」




 その後、沙羅とリックはポットの中の紅茶が無くなるまで、ゆっくり話をした。サラを勉強するための話ではなく、ただ時間を共にするための、とりとめのない話。

 サンドイッチは沙羅の世界にもあるのかとか、元の世界では何を食べていたのかとか。リックはいつご飯を食べているのかとか。勿論サラの話も。

 そんな役に立ちそうで実は何の意味もない話を、飽きずにずっとしていた。

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