第35話 沙羅の決断

 リックは昼食の載ったカートを押しながら、自分の足取りがいつもよりも重たいことに気がついた。別に慎重に運ばなければいけないものが載っている訳ではない。今日の昼食は、サラが回復してきているので、サンドイッチを用意してもらった。果物も食べやすい大きさに切ってある。



 では何故こうも前に進みがたいのか。その理由には心当たりがあった。



 (気まずい………)



 午前中、沙羅の話を聞いたとき。

リックはサラを抱きしめて、暫くしてから、急に我に返った。自分の言動が信じられず動揺で目が泳ぐが、胸の中で泣きじゃくるサラにはバレなかったみたいだった。


 最初は全くその違和感に気がつかなかった。リックはサラの相談役兼兄代わりのようなものだった。主人ではあるがまだ幼いこともあり、涙を零すサラを、先程のように抱きしめて宥めることもあったのだ。


 だが、さっきのはそれとは違う。


 リックは確かにあの時、サラを沙羅だと認識した上で、抱きしめていた。

 それに気がついてしまったので、ついサラを引き剥がしたくなったのだが、依然として涙の収まりそうもない彼女を急に突き放すのは気が引けた。


 泣き止むのを待つ間、誰に言うでもない言い訳を必死に頭の中で考えていた。下心や、甘やかな気持ちはなかった。でも、サラを宥める時とも違う。


 ただ、恵まれているのとは程遠い環境にあって、懸命に生きた沙羅を、いじらしいと思った。サラに幸せになってほしいと思うのと同じくらい、沙羅が幸せに生きるところを見てみたい。それは、リックの中にあの時初めて芽生えた感情だった。


 

 (…ん?)



 そういえば、サラの声が聞こえないような。しゃくりあげて上下していた肩も、静かになっている。


 「……落ち着いたか?」


 囁き声で確認するも、返事はない。仕方ないので、そっと体を離そうとしたが、ずるりとサラの体まで傾いてしまう。そこでようやく、サラが寝息を立てていることに気がついた。

 顔をずっと手で覆っていたせいで、顔中が涙と鼻水でぐちゃぐちゃではあるものの、その寝顔は昨日とは違い、とても穏やかだった。


 そっと顔を拭っても起きる気配のないサラを、ベッドに寝かせて部屋を出た。





 サラが寝ているのに気づいた時には、少しホッとしてしまった。その皺寄せが今、昼食を運ぶ自分に降りかかっている。



 沙羅は頭の良い女だ。

リックの言動から、サラを沙羅として抱きしめたことに至ってもおかしくない。サラに対してならともかく、自分と歳の近い女の子を抱きしめるなぞ、自分らしくない。気まずいことこの上ない。



 それに、もう1つ。

これには自分でも呆れたが、リックはいつの間にか、沙羅とのやり取りを気に入っていたようなのだ。それこそ、沙羅を消してサラに近づくのを、寂しく思う位には。

 沙羅は友人がいないと言っていたが、リックも友人と呼べる人は全くと言って差支えないほどいない。第一、側にいる人たちはサラや旦那様、シュルツなど、歳の離れた人ばかりなのだ。リックにとっては全員とても大事な人たちだが、そこには歳の差と同時に上下関係も存在している。

 3つ年下で、立場を気にせずに話せる沙羅は、もしかしたら友達と名前をつけるのに1番近いかもしれない。


 そんな関係が心地よかったからこそ、リックの言動の意味に気づいた沙羅が、どんな目でこっちを見るのか。想像したくなかった。



 しかし、どれだけリックの頭の中がごちゃごちゃだろうと、執事は執事だ。仕事はしなくてはいけない。

 僅かな抵抗で歩幅を狭めてみたものの、前に進んでいる以上、目的地にはついてしまう。目の前のドアを忌々しく睨みつける。



 (いっそのこと寝てるといいんだが)



 リックの願いに反して、ノックの音に反応する声が奥から聞こえる。やはり、そんな都合良くはいかないみたいだ。努めて平静を装い、入室する。




 「リック。おはよう」



 あっけらかんと言い放つサラ。その言葉の裏には、緊張も後悔も恥じらう気持ちも何も感じない。小春日和のように、からっとして晴れやかな声だ。

 あまりに予想と違う態度に、思わず拍子抜けしてしまう。探るように見ていたのに気づいたのか、サラはこちらを見て微笑む。



 「さっきは、話を聞いてくれてありがとう」


 そう言うサラの表情は憑き物が落ちたように穏やかで、サラというよりは、サラの母親の表情によく似ていた。いつもどこかにかげりのあった沙羅とも違う、大人びた印象になる。



 「よく寝られたか?」


 「うん。丁度さっき起きたとこ。久しぶりに、何も考えないでぐっすり寝ちゃった。お腹空いた」


 「そうか。多めに持ってきているから、沢山食べるといい」



 ベッドから抜け出してソファに座ったサラに、サンドイッチの載った皿を差し出すと、サラの琥珀色の瞳が宝石のように煌めいた。どうやら、サンドイッチは沙羅のいた世界にもあるようだ。

 小さな口いっぱいに頬張る姿は、貴族としては相応しくないが、これ程美味しそうに食べ物にかぶりつくサラを本当に久々に見たので、嬉しくて、注意する気が失せてしまった。



 暫くの間、サラはリックに見守られながら、エネルギーを全身に循環させるように、黙々とサンドイッチを食べていたのだが、2つ目のサンドイッチに手を伸ばしたかとおもうと、急に動きを止めた。



 「…?どうしたんだ、喉に詰まったのか?」


 「いや…あたし今まで、お腹が全然空かないのは、サラになったからだと思ってたんだよね。でも、中にいるあたしが「生きよう」って思ってなかったからだったんだなぁって。現金だよね、今めちゃくちゃお腹空いてるもん」



 しみじみと言うと、野菜と卵の挟まったサンドイッチに口をつけるサラ。本当にお腹が空いてるらしく、食べるスピードは遅いものの、その手は止まらない。何気ない言葉だが、今までとは明らかに違う。



 「ということは、お嬢様の中で生きる自分を、認められたってことか」


 果物を机の上に置きながらサラの顔を覗き込むと、彼女は眉尻を下げ、気恥しそうに笑った。


 「本当はね、やっぱりまだ分からないんだよね。価値なんて環境で変わるっていっても、あたしはどうしたって自分のことが嫌いだし、百波をいじめたって過去も消えるわけじゃない」


 「違う!やったのはマエダだろ」


 「いいや、あたしだよ。いじめかどうか決めるのは、いじめられた側だから。本当に何もやってなくてそう決められたんなら冤罪だけど、あたしは百波が嫌いだったし見ないフリもしたから。これはあたしが背負わなきゃいけないものなの」


 「そんな…」


 どうして沙羅はこんなにも律儀なんだ。逃げてくれたらいいのに、と百波を知らないリックは思ってしまう。これではいつまでも沙羅が救われないんじゃないのか。

 やきもきするリックを見て、サラは凪いだ笑みを浮かべる。


 「眉間の皺、また出来ちゃってるよ」


 「…お前が作らせてるんだ」


 グイグイと手で強制的に皺を伸ばすリックを見て、嫌味を言われたサラは変わらずに笑っている。楽しそうなのは良いが、リックは置いてきぼりをくらった気分だ。



 「ごめん。ちゃんと分かってるよ。あたしがこの世界でどう生きたって、百波に対しての償いはできないって。でも、だからこそ、忘れたくはないの」


 「忘れないために、生きるのか」


 「前だったら、それだけだったかもね」


 3つ目のサンドイッチを頬張るサラ。食欲は止まらないらしい。味わうようにゆっくり噛み締め、嚥下する。その姿と陰のない表情が、昨日までとは違う何よりの証拠だ。



 「リック、言ってくれたでしょ。あたしがどんな人間か、って」



 サラが言っているのは、リックが抱きしめながら話した内容を言っているのだろう。思い出しついでに、沙羅を抱きしめたことまでよみがえってきてしまった。気まずさに目を反らしたくなるが、サラは至って真面目な顔である。



 「不思議だった。リックの口から出てくるのは、全く知らない人の話みたいで、でもあたしの話で…。本当にそうなれたらいいのに、そう思えたらいいのにって、心底思った」


 「嘘はついてないからな」


 気恥ずかしくはあるけど、これは本当だ。そうじゃないとあんなこと出来ない。それは沙羅も分かっているのか、否定や謙遜はせず、柔らかく微笑んだ。そしてまた口を開く。



 「あたし、1度でいいから、自分を好きになってみたい。だからお願いします。サラとして生きてサラを幸せにするから、その奥で、あたしが自分を認めるために生きることを、許してくれませんか」



 鼻の奥が、つんとする。

涙腺が弛みそうになるのを察知し、顔を引き締め直す。今朝まで、沙羅の存在を消したほうがいいかどうかなんて、ずっと悩んでいた自分が馬鹿みたいだ。

 結論は、誰よりも自分の体が知っていた。



 「お前が言わなかったら、俺が言っていた」



 俺も、まだ沙羅を見ていたい。


 リックの言葉を聞いて笑うサラは今朝までとは別人で、さなぎが蝶へと羽化したみたいだ。

 その変化を、とても美しいと思った。

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