第29話 沙羅 ー 避難場所
学校からの帰り道。
高等部に上がってから、あたしは前とは違う道を通って帰るようにしていた。
不幸中の幸いか、百波は部活に入ったらしく、放課後は付きまとわれることはなかった。ちなみに、Aクラスの中で部活に入っているのは、百波も合わせて3人程のはずだ。
百波に図書館を利用していたことがバレてから、あたしは学校の図書室も図書館も使わないようにしている。万が一会ってしまったら、どこまでついてくるのか分からないから。
結果、今まであたしがいた場所は、ほとんど使えなくなってしまった。かといって、早く家に帰る訳にもいかない。
実はというと、春休みは私を視界に入れないようにして心の平穏を保っていた母にも、少しずつ変化が出てきていた。
母は、あたしに期待をしなくなったくせに、勉強をしていないのが分かるとキツくあたるようになったのだ。
学校が終わってすぐに帰ろうものなら、「勉強しないの?」「いつも図書室でしてるんでしょう?」と問い詰められる。
きっと母は、諦めきれないんだ。
諦めつつも、あたしさえもっと頑張れば、何かが変わるのではないかと。未だに、どこかでそう願っている。
そんな母からも逃げるように、ただフラフラと帰り道を蛇行する日々だったが、1ヶ月も経つとそれなりの居場所を見つけることができた。
通学路から外れた、住宅街の脇にある河川敷。ベンチも何もないけど、草は短く刈り取られていて、ランニングする人以外は通行人もほとんどいない。100円ショップで買った、1畳にも満たない小さなレジャーシートをこっそり持っていけば、家の自室よりも快適だった。
期末試験が来週に近づいている今日も、気にせず真っ直ぐにここに来た。
Aクラスに入ってからというものの、授業中と宿題でしか勉強をしていない。自分でも分かるくらいに学力が落ちてきていたけど、焦りは一切なかった。母とは違い、努力が無駄だったと分かったあの日から、あたしは全部諦めている。
いつもの場所にレジャーシートを敷き、折り畳み式の日傘をさす。6月末ともなると、座っているだけでじんわりとするくらい暑い。
梅雨の激しい時は、座らずずっと土手を歩いて誤魔化していたけど、流石にこの暑さからは逃れられなさそうだ。
「ここもそろそろ、潮時かな…」
そう呟きながら、スマホを開く。
母の「どこにいるの」というメッセージに、「図書室で勉強してるよ」と返信し、メッセージアプリを閉じた。続けざまに、SNSアプリを開く。
SNSは、ここに来るようになってから始めたものだ。何もしないで時間を潰すにはあまりにも暇で、ダウンロードしたアプリ。これが、時間を溶かすには中々に便利だった。
勝手に情報が流れてきて、その流れに身を任せていると、それだけで作業をした気分になる。
調べると、色々な人がいて面白かった。やたらと誰かに突っかかる人、それを毎回批判する人、いつもやけにハイテンションな人。
中には、あたしと少し似た家庭環境の人もいた。
そのどれもが、見ている分には良いけど、受け止めるには少しずつ重たい。
だから、自分から誰かをフォローしたり、コメントを入れたりすることはしたことがない。誰かの発信をずっと追い続けることもなかった。
代わりに、あたしも自分の言葉をネットに発信するようになった。フォローしている人はいないし、されてもいない。ハッシュタグもつけないので、誰かの目にふれることは全くと言っていいほどない。
ただ、自分の中から小出しにしておかないと、何かの折に感情が爆発してしまうのではないかと、怖かった。
誰にも見られたくない。でも、自分でも抱えきれない。そんな感情を、目の前の、本当の川に流すわけにはいかない。だから、ネットの濁流にそっと放つ。
アカウントの名前は、特に思いつかなかったので「S.S」にした。1日にアップする回数は、2・3回くらい。
『いつもの場所。やっぱりここが1番落ち着く』
『もう少し周りのこと見たら?』
『期待したって、もう無理』
吐いて、吐いて、なるべく空っぽにして家に帰る。そしたら母が、空っぽになったあたしの体に、ずぶずぶと言葉を埋め込んでくる。その繰り返し。
それでも、なんとかやっていた。
ギリギリで保っていたバランスは、思いもよらない所から崩されることになる。
期末試験は呆気なく終わって、結果もすぐに返ってきた。
点数は、言うまでもない。平均的な高校生と比べたら随分と良いかもしれないけど、Aクラスの水準にはギリギリ足りるか危ういくらいだ。
どの教科の先生も、返却するときに露骨に気まずそうな顔をしていた。
(あたしから顔を反らしたって、そんな顔してたら、他の人にバレちゃうよ。あたしが本当は落第生だって)
1つ、驚いたことがあるとすれば、それは百波の成績だ。
編入生なのにAクラスに入った時点で優秀なことは知っていたが、なんとこの期末試験では、クラス内順位が1番だったらしい。
テストが返却された日の、帰りのクラスルームで担任にそれを知らされたとき、百波はいつものように心から喜んだ。
「本当ですか!?うわ〜嬉しい。部活が楽しくて勉強少し減らしちゃってたから、今回は無理だと思ってました!」
百波の天真爛漫なその言葉に、あたし以外のクラス全体が凍りつくのが肌でわかった。
ああ、ついにやっちゃった。こんだけシビアに勉強してる人たちに、それ言ったらやばいでしょ。
先生もまずいと思ったのか、
「ま、まあ、皆も次は清水以上に頑張れよー」
と付け足したが、明らかに蛇足である。頑張った分だけ等分で成果が出るなら、どれほどマシだったか。
この日はあまりの冷えついた空気に、いつも以上に早足で河川敷に向かうことになった。
夕方、家に帰ると、珍しく母が玄関まで出てくる。その時点で、まずい予感しかしない。思い出すのは、クラス分けの試験が終わったあの日。
「沙羅、おかえり。テストは?返ってきたでしょ?」
声は穏やかなのに、平坦すぎて怖い。顔は見れない。見なくても、視線が痛い。
「あー、帰ってきたよ。まあまあだった」
「見せなさい」
誤魔化して、靴を脱いで横切ろうとしたあたしの目の前に、右手を突き出してくる。
…これはもう、逃げられないな。こういうときの母が、折れたことを見たことがない。
観念して、カバンから回答用紙を出すと、母はひったくるように紙束を掴んだ。ペラペラと、紙をめくる音だけが鳴っている。
「……あんた、本当に勉強したの」
「したよ」
これは嘘だけど、いい加減母にも現実を見てもらわねば。
顔を上げないまま、でもはっきりした口調で答えると、目の前から、紙を思い切り破る音が聞こえてきた。次いで、床に回答用紙だったものが散り積もる。
(あ、やばい)
あの日の、左頬の強烈な痛みを思いだして、反射的に強く目を瞑る。
しかし、待っていたのは平手でも拳でもなかった。
「ほんと、期待はずれな子。せめて男だったら、救いようがあったのに」
拳を待つあたしに振りかかったのは、低く冷たい言葉だけ。でも、的確にあたしの心臓を抉った。
言葉を突き刺された心臓は、血を失ってどんどんと冷めていくのに、脳みそはぐらぐらと煮えたぎる。壊れたカセットテープのように、ひたすら母の声が再生される。
これ以上、母の前にいるのは危険だ。あたしが母を壊してしまう。
「…疲れたから、もう寝る」
かろうじて言葉を吐き出し、バラバラになった回答をかき集めると、早足で部屋に飛び込んだ。
そのまま、紙を全てゴミ箱に突っ込む。
SNSのアプリを開く。
帰り道でアップした、『予想通りの結果』という呟きを無視して、新しいメッセージ欄を開く。
『それ、わざわざ言う必要ある?この年にもなって、言われた人のことも考えられないんだ。馬鹿みたい。わざわざ言わなくても、知ってるよバーカ』
一気に書いて、投稿して、ベッドにスマホを投げ出した。マットで跳ね返って、壁にぶつかる音がする。
「…………っ、なんで消えてくれないの…」
自分の醜い気持ちを、母にぶつけそうになった感情を、全部吐き出したはずなのに、全然空っぽになってくれない。
まだ脳は不快なほど煮えたぎっていて、無意識に握った拳でベッドを攻撃してしまう。不思議と、涙は出ない。春休み前のあの日から、出なくなった。
結局、もやもやは全く無くならないまま、次の日を迎えた。
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