第25話 沙羅 ー 試験
更木沙羅は、どこにでもいる普通の女の子として産まれた。少なくとも、中学生くらいまでは、あたしはそう思っていた。
他の人と違うことがあるとすれば、父が学校を経営していて、今思えば少し古い考えの持ち主だったことくらい。父は仕事が命の人間で、結婚したのも仕事を効率よく出来る環境をつくるため。子供を産ませたのも、自分の跡継ぎにするためだった。
「沙羅はいっぱいお勉強して、お父さんの学校に行くのよ。そしたら幸せになれるからね」
これは、あたしが幼稚園のころからの、母の口癖。
その頃にはもう、あたしが起きている時間に家に父がいることは滅多になくて、居たとしても会話をした記憶がない。だからこそ余計に、勉強をすることが、父に認めてもらえる唯一の手段だと思っていた。そして、その勉強をさせてくれる母を、とても優しい人だとも思った。
あたしは、幸せだった。
それからのあたしの記憶の大半は、人の顔じゃなくて文字で埋まっている。小学生の時の同級生の顔なんて、1人も覚えていない。
学校が終わったら真っ先に家に帰って、家庭教師と勉強する。その繰り返し。
勉強することが両親とのただ1つのコミュニケーションツールだったから、夢中になって勉強した。
中学に上がるとき。
その甲斐あって、あたしは無事に父が理事長を務める中高一貫校に合格した。
母は珍しく、あたしを抱きしめるほど喜んだけど、あたしは内心、当たり前だって思ってた。だって、あたし以上に努力した人はいないって自信があったから。
だから、あたしの合格を喜んで父に報告する母に、「そうか」という返事しか父がしなかったときも、すごく納得したのだ。
だってまだあたしはスタートに立っただけ。
もっともっと努力して、いつか父があたしを誇りに思ってくれたとき、その時に打ち明けよう。あたし、お父さんの跡を継ぎたいから頑張ったんだよ、って。
それからあたしは、今まで以上に勉強に時間を費やした。入学したあたしの次の目標は、高等部に上がる際のクラス分け試験だ。
父の学校は偏差値が高く、入学するのも難しいと言われていた。その上、中学までは横並びで教えているのだが、高等部に上がる際にもう1度入試に似た試験を受けさせ、高校からは、その成績順でクラスやカリキュラムが変わる仕組みだった。
入って終わり、という訳にはいかないのだ。
勿論、沙羅の目指すべき道は、1番上のクラスであるAクラスだ。
中学3年間、1秒たりとも無駄に出来ない。休み時間は図書室に引きこもり、そこでもまた勉強した。
勉強して、勉強して、勉強して。
家に帰っても、勉強して。
そして、
努力だけでは追いつけない壁があると知った。
中高一貫ゆえ、中学2年の終わりには、高校の内容まで先行して教えられていた。その時期からだ。
行き詰まりを、感じてきたのは。
高校のクラス決めテストまで1年を切って、周囲の人と自分を比べる癖がついてきたせいもあるかもしれない。
あたしがどんなに努力しても、あの人はあたしの半分の時間で正解に辿り着く。
こんなに時間を割いているのに、それなのにどうして全然頭に入ってきてくれないの。
初めて感じる焦燥感。
そして、恐怖。
今まで、勉強さえしていれば、あたしは認めてもらえるはずだったのに。もしもこのまま、成績が思うように伸びなくなってしまったら、あたしはどこに向かえばいいんだろう。
足元が崩れ去りそうな恐怖に怯えながら、より一層がむしゃらに、寝る間も惜しんで時間を捧げるようになった。
自分が天才ではないことに気づいてしまったショックは強かったけど、それでもまだ、誰よりも時間を費やしている自負は折れていなかったから。
その結果は、物語だとしたらあまりにチープな結末。
まさか、試験当日に高熱を出すなんて。
自分の体を顧みなかったツケにしたって、もう少しタイミングってもんがあるんじゃないの。
テストを受けた感触は、酷いという言葉に尽きる。
数学は苦手な数式が出た。得意だったはずの問題も、よほど熱で注意力が散漫だったのか、本題と全く関係ないところで数字を書き間違えていることに、終了のチャイムの後で気がつく体たらく。
英語や国語は、普段5分もかからずに読めるはずの文章が、どうしても
自己採点するまでもなく、結果は目に見えていた。
その日、どうやって家まで帰ったのか、あまり覚えていない。
なんで、絶望で目の前が真っ暗なときでも、家に帰れてしまうんだろう。
「お帰りなさい。沙羅、試験はどうだった?」
玄関を開けると、待ち構えていた母から靴を脱ぐ間もなく問い詰められる。そして、沙羅のひどい顔色を見て、期待に染まる頬が色を失い、上がっていた口角はそのまま歪に固まった。
「……………ごめんなさい」
午後から出始めた咳のせいで、声が掠れてきている。が、その声は母の耳にしっかりと届いたようだ。
その証拠に、
バシン!!
強い衝撃に襲われた後、目の前から母がいなくなる。いや、違う。あたしの顔が横を向いたのか。衝撃の反動で、込み上げてきた咳が止まらなくなってしまった。
遅れてやってきた左頬の痺れに、自分が母に
どうにか咳が収まり、顔を正面に戻すと、そこには般若のように険しい顔をした、自分の母親がいた。怒りで輪郭が震えている。
「おかあさ、」
「結果が出たら、自分でお父さんに報告しなさい。あなたがやったことなんだから」
今まで生きていて、母からこんな声が出るなんて知らなかった。拒絶を示す、温度のない声。
「は、い。ごめんなさい」
それから母はリビングに戻り、沙羅に関心をなくしたようだった。
沙羅はようやく靴を脱ぎ、体を引きずるようにして自分の部屋に向かった。途中、水が欲しくてキッチンに向かった際に、また咳がせり上がってきた。リビングでテレビの音量が上がるのが聞こえる。
部屋に辿り着き、無地のベッドに体を放り投げる。
「…………っく、……っ」
着替えなきゃ、制服に皺がつく。
頭では冷静にそう思いながらも、体は言うことを聞いてくれない。普段の倍くらい重たい体は持ち上がらないし、涙も勝手に溢れ出てくる。
勉強ができなくなったら。沙羅の存在理由がなくなってしまったら、一体どうなるのか。
怯えて、見ないふりをしてきた結果がこれだ。
母が優しかったのは、あたしがそれまでは自分のすべき義務をきちんとこなしていたから。
社会科の授業で、先生が言っていたことを思い出す。
『世の中にはまあ驚くことに、権利が〜権利が〜と権利だけ主張する人が沢山いるけど。そもそも権利っていうのは、義務をきちんと果たしている人しか正当に受け取ることはできないと、先生はそう思うんですよね』
勉強をきちんとするという義務を
どんなに勉強が苦しくても、辛いと思ったことはなかったし、当然泣くなんてこともない。
だけどこの日は、熱のせいか、どうしても涙が止まってくれなかった。
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