第19話 自己愛

 その晩、リックは自室の机に向かい、密かな日課である、日記をしたためていた。



 リックの自室は、当然サラの部屋よりも大分小さいが、ベッドや机といった必要な物は揃っているし、窓もある。その上一人部屋だ。

 使用人の中では、かなり良い思いをさせてもらっている自覚がある。



 サラの信頼を一身に受けた結果、この年で旦那様の執事まで登りつめたリックのことを、よく思っていない使用人もいることは、重々承知している。かといって、直接手出しをされたり、嫌味を言われることはないのは、ひとえにこの家の使用人への教育が行き届いているお陰だろう。



 だからこそ、リックはこうして日記をつけることで、日々文字の練習を怠らないようにしている。領地のことについても、この家のことについても、誰よりも勉強しなければいけない。




 しかし今日は、思うようにペンが進まない。



 「…………はぁ、まただ」



 さっきから、書こうとして、気がついたら10分近く時間が経過してしまうのを繰り返している。

 いつもなら、その日の仕事の内容のうち、極秘ではないものと、主人の様子を書き記すだけなので、15分もしないで書き終わるのに。


 今日はほとんどサラに付きっきりだったので、特に書けることがない。その内容のほとんどが、沙羅の存在に触れないと書けないことだからだ。

 日記をつけていることは誰にも言っていないが、万が一にでも人の目に触れることがあるかもしれない。そう思うと、当たり障りのないこと以外書けなくなるのだった。




 「……ふぅ」


 なんとか絞り出して、書き終わった文章を見返す。




〔 今日は体調の思わしくないお嬢様に付く為、執事としての仕事をシュルツさんに代わっていただいた。お嬢様の経過は良好。朝はスープ1杯、パン1個。昼は燻製肉の入ったスープを2杯、満腹になりつつも完食。夜は、昼に食べすぎたせいか、スープ1杯で手を止められた。固形物はまだ喉を通りにくいようだが、このままいけば数日で声は出るようになるだろう。 〕



 「なぁにが、『経過は良好』なんだか…」



 自分の眉にぎゅっと力が入るのを感じる。

何故これっぽっちのことを書くのに、これほど時間がかかったのか、自分の中で何が引っかかっているのかは、明白だった。






 (夕食のときのあいつ………やっぱり変だった)





 使用人についての説明を聞きながら寝てしまったサラは、夕食を持っていった時も、眠りについたままだった。

 流石に疲れたのだろう。昼食後もいつもなら昼寝をするのに、部屋に戻ったら食い入るようにアルバムを見ていたので驚いてしまった。沙羅が時折見せる、異常なほどの集中力は、見ていて不安になるほどだ。



 サラを起こさないように、なるべく静かにカートをベッドの横まで押していく。

 そして、ベッド脇で夕食の準備をしようとしたところで、リックはふと、変な音が聞こえてくることに気がついた。



 サラは、体をすっぽりと覆うように布団を被っていて、音はその下から漏れ聞こえていた。サラの声だ。



 (寝言か…?)


 布団越しでは内容までは聞こえず、近づいて聞き耳を立てる。

 ……リックは、聞こえた内容に、背筋を凍らせた。





 「…さぃ、…んなさい、ごめんなさい…」





 サラは……いや、沙羅は、ずっと謝罪の言葉を繰り返していた。

 あまりの異常さにぞっとし、慌てて布団をくりあげると、サラは自分の身体にしがみつくように丸まって寝ていた。



 謝罪の言葉は止まらない。まるで呪詛のようだ。

 布団を被っていたにしても多すぎる汗の量に、頬に張り付いた髪の毛を避けようとすると、あまりの冷たさにおののいた。

 よく見ると、唇の色も悪すぎる。



 「おい、大丈夫か!?」



 不安が込み上げてきて、細い体を強く揺さぶると、びくりと体を震わせて目を覚ました。



 「あ…………リック?」



 焦点の合わない目でリックを見るサラに、堪らず手を強く握りしめる。

 このまま、どこかへ行ってしまうのではないかと思うほど、不安げな瞳だ。



 「あー…、はは、ごめん。寝ぼけてた…。わ、何これすっごい汗…」



 すぐにいつもの沙羅の軽い口調に戻ったものの、白々しいほどに下手くそな笑い方だった。さっきの光景を見ているから尚更。



 その後も、沙羅は誤魔化しているつもりのようだったが、ずっと心ここにあらずといった感じだった。





 (ついつい沙羅の芝居にのっかって、あのまま退室してしまったが……やっぱり、聞いたほうが良かったか)




 リックが後悔しているのは明らかで、あれから、食器を下げ、旦那様に1日の報告をし、こうして自室に下がってからも、ずっと脳裏であの時の沙羅の声を再生してしまっている。




 (あいつが時折見せる、自己肯定感の低さと関係があるのだろうか)



 気になってはいたのだ。

 認めるのは癪だが、まあ、沙羅は良くやっているとは思う。急に置かれた状況にも関わらず、たまに弱音は吐いているものの、めげずにこの世界に馴染もうと努力している。事実、物覚えもかなり良い方だろう。



 それなのに、沙羅は自分が褒められても、それを認めようとはしない。「これくらいは出来て当たり前」「まだ足りない」と言わんばかりだ。



 (そういえば、)


 沙羅の存在に気がついて詰問した時も、あいつは確か「あたしはどうなっても良い」と言っていた。あいつ、自分を大事にするって機能が備わってないんじゃないか。



 そこまで考えて、ふとあることにも気がつく。



 『いいか。お前がサラお嬢様として生きたいというのなら、「お前」を捨てて生きる覚悟くらい決めろ。少しでもお前としてお嬢様の人生を歩もうものなら、俺はお前を許さない』



 「あーーー、不味いこと言ったなぁ、俺…」



 シャワーを浴びた後の下ろした髪の毛を、思い切り掻きむしる。


 あの時は、沙羅が他人の体を借りてでも生き抜こうとしている、自己愛の強い人間かもしれないと思ったからこそ、そう釘をさしたのだ。


 自己愛もへったくれも無いのではないかと気づいた今となっては、完璧に蛇足だ。

 自分のことが好きじゃない人間が、他人になろうと言うのであれば、そこに自分を欠片でも残そうとは、端から思ってないんじゃないか。それどころかリックの言葉は、沙羅自身に対する評価を余計に低くすることになっただろう。



 「あーーーーーくそっ」



 この家に来てからは使わないようにしていた、汚い言葉がつい出てきてしまう。


 なんでこう、ままならないんだ。




 収まらない苛つきを、自身の髪の毛にぶつけていると、ふと、この時間には珍しい、ノックの音が聞こえた。




 「リック、まだ起きていますか」



 聞き馴染みのある、低く落ち着いた、柔らかい声。その人の人柄をそのまま音に変えたような声だ。


 急いでドアを開けると、リックの思い描いていた通りの人物が立っていた。



 「おや、酷い顔をしていますね、リック。執事失格ですよ」


 「シュルツさん…すみません」



 皺の刻まれた眉間を、思わず手で隠す。

元々目つきが悪くて怖い印象を持たれるため、表情だけでも柔らかくするように気をつけていたのだが、ここ2日で皺がすっかり癖になってしまっているみたいだ。



 穏やかな顔で微笑む初老の男性は、旦那様よりも年老いているが、リックの親代わりのような人だ。

 リックがこの家に来てから、何も教養のないリックに仕事を教え、常識を教えてくれた。今でも、執事長として、リックを教育し続けてくれている、サラや旦那様にも引けをとらない恩人だ。



 「そういえば、今日は私の分の仕事まで引き受けていただいて、ありがとうございました」



 旦那様の命とはいえど、こうしてサラに付きっきりになれたのは、シュルツの手腕によるところが大きい。いつも助けられてばかりだ。



 「いえいえ、それは良いんですよ。今日は旦那様もそれ程お忙しくなかったですしね。それよりも、少しばかり問題がありましてね…」



 珍しく、少し困ったように眉を下げるシュルツに、なにか嫌な予感がする。




 リックは、シュルツの言葉を聞いて、心の中で絶句した。

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