第8話 急転直下
コンコンコン。
さっきよりも眠りが浅かったのか、今度はノックの音で目が覚めた。
反射で返事をしそうになるが、慌てて口を
もそもそと布団から這い出ていると、先程と同じ方の扉が開いて、カートを押したリックが入ってきた。
「お嬢様、起こしてしまいましたか」
上半身を起こしたサラを見て、柔らかな表情を作る。その通りではあったが、サラはふるふると首を横に振った。
「お加減はいかがですか。少しでも召し上がれそうですか」
近づいてきたリックのカートの上を見ると、湯気のたつ食器が並んでいる。正直あまりお腹は空いていないが、サラの体を見るに食べなければ元気になりそうもない。首を縦にふる。
「お嬢様?」
(え?)
喜んでくれると思っていたのに、返ってきたのは
(もしかして、この国では首を縦に振るのは肯定じゃないの?)
ジェスチャーについてなんて、考えてもいなかった。恐る恐るニックの表情を伺うと、険しい表情ではなく、キョトンとした、さも不思議そうな顔だった。そして、沙羅が予想していたのとは全く違う角度から、爆弾を投下してきた。
「どうして、何もおっしゃらないのです?今は私しかおりませんよ」
(なんで………)
リックが、サラの声が出ないことを知らないはずがない。遅くとも、給仕に来る前にはサラの容態について説明があるだろう。
それか、父親もリックのことを信頼していたようだったし、もっと前に両親から直接聞いているかもしれない。
(それにこの言い方…リックだけにだったら喋れるとでも言いたいの…?)
分からない、分からない、分からない。
こんなとき、「サラ」だったらどうしていたのか。
何も分からない沙羅は、せめて動揺した顔を見られないよう、俯くことしかできなかった。
数秒の沈黙が、とてつもなく痛い。
心臓の音が聞こえてしまうのではないかと不安になる。
しかし、何故だか分からないが、刃は落ちてこなかった。
リックは、顔を上げられないサラの頭上で軽く息を吐くと、脇に置いていたカートの方に戻っていった。そして、食事の準備をしながら、信じられないことに笑ってサラに話しかけてくる。
「久しぶりですね、お嬢様の仮病。最近では、仮病もなにも、ずっと臥せっていらっしゃいましたから」
喉の奥で低く笑いながら語る。
「腹痛とか気分が悪いとかですと、旦那様達を心配させてしまうからって、いっつも『声が出なくなった』を言い訳になさるんですから」
今度はこちらがキョトンとする番だった。
(仮病……?サラ、あんた仮病なんて使ってたの?)
それは流石に予想していなかった。先に言っておいてほしい。今ので寿命が何年縮まったことか。
こちらに来てから、沙羅の寿命は縮まっていく一方だ。もしも今寿命が光の強さで可視化できるなら、ここに来る前のLED級の輝きは既に失われているだろう。蛍光灯くらいになっているに違いない。
「ほら、お嬢様。お嬢様が食べやすいように、栄養がとれるように、シェフが野菜をトロトロになるまで煮込みましたから。せめてこのスープは召し上がって下さいね。」
差し出されたスープはまだ温かく、とてもいい匂いがする。スプーンで掬って、そぉっと口に運ぶ。
「美味しい……」
「そうでしょう。シェフの愛情がこもっておりますから」
仮病のことで呆気にとられて気が緩んでしまっていたのか、無意識のうちに言葉が出てしまった。しかしリックは満足気だ。仮病使っててくれてありがとう、サラ。あっという間に設定が破綻するところだった。
喋ってしまったついでに、いっそのこと、聞きたいことを聞いてしまおう。頭の中でサラの言葉遣いを思い出しながら、なぞるように口に出す。
「あの、リックはいつから気づいていたの?その…仮病だって」
「それはまあ、旦那様から『声が出なくなった』と伺った時には。そもそもお嬢様、思いっきり声を上げて泣いていらっしゃったじゃないですか」
……………そうでした。
サラの両親があっさりと信じてくれたから、忘れていた。思いっきりわんわん泣きましたとも。
そして察するに、サラの両親もこれが仮病であることに気がついて、知らないふりをしてくれている。道理で、やけに引き際があっさりしていると思った。
(……あ、そういえば)
『いつも通り紅茶に蜂蜜でも混ぜてやれば勝手に治りますよ』
そう言って、つまらなさそうにしていた医者を思い出す。彼も、仮病だと知っていたのだ。
なんだこの一人相撲感。
でも、少し気が楽になった。
仮病に気付いていて、両親共それに乗っかってくれるということは、サラが仮病を続ける間は、話せないということにしておいてくれるだろう。
沙羅には、今あの2人にかける言葉は見つからない。
かといって、全く誰とも話さないままでは、情報を得ようもない。リックとだけでも話せるのは、嬉しい誤算だった。
幸いにも、沙羅はサラと少しだが会話した。幼い子供らしくない、丁寧な話し方。単純なコミュニケーションくらいなら、サラの話し方を真似出来そうだ。
「ねえ、リック」
「はい、どうなさいましたか」
「さっきは、無視するつもりは無かったんです。寝起きで上手く頭が回らなくて…ごめんなさい」
おずおずと、眉尻を下げてリックの顔を見上げると、驚いた表情で固まっている。
「リック?」
何故喋らないのか、と聞かれた時のことを言ったのだが、分からなかったのだろうか。名前を呼ばれたリックは、ハッとし、慌てて顔を笑顔に戻した。
「いえ、失礼いたしました。全く気にしておりませんでしたので、反応が遅れてしまいました。それよりお嬢様、飲めそうなら、もう少しスープをいかがですか。おかわりもございます」
そう言って、リックはカートの上の鉄製の壺を横目に見た。先程スープを注いでくれたやつだ。
どうしようか。野菜は溶けて液体のため口通りはいいのだが、沢山の食材が溶け込んでいるからか、サラの胃が小さいせいか、実は1杯でも結構満腹に近づいてきている。
……でも、
「ありがとう。折角ですし、もう少しだけもらおうかしら」
美味しいと言った時の、リックの嬉しそうな顔を思い出す。それに、シェフもこれほど具材が溶けるまで煮詰めるのは、大変だったに違いない。
「…かしこまりました。お注ぎしますね」
そう言ってリックは、まだ温かいスープを注いでくれた。
それから、沙羅はなるべく急いで2杯目のスープを飲んだ。
どうしても口が小さいのでゆっくりになってしまうのだが、あまりゆっくりしていると、満腹になってしまうからだ。
それに、無自覚かもしれないが、リックがたまに宙を見て何か考える素振りをしているのに気がついたのだ。「今晩は冷えるみたいですよ」などの会話をしながら、時々ふとスイッチが切れたみたいになる。
きっと、執事の仕事はこれだけではないのだろう。他にやる事がある人を、ただの食事に付き合わせてしまうのは申し訳ない。
数分すると、努力の甲斐あってか、やっと器の底が見えてきた。
リックは、ベッド脇の花瓶の花を取り替え、古いものをカートの下の段にしまっている。
(ん…?)
しゃがみ込んだ姿勢のまま、立ち上がらない。また何か考え事をしているのかもしれない。
「そうだ、お嬢様」
「はい…?」
急に立ち上がって名前を呼ばれたので、心臓が跳ね上がる。
「お薬を飲まなきゃいけませんね。後で飲み物と一緒にお持ちしますが…今日は紅茶ではなくハーブティーにいたしましょうか。良いハーブティーを入手したと、メイド長が喜んでいたのですよ」
そろそろサラの食事が終わるのを察してか、壺に挿しっぱなしだった杓子を取り出し、後片付けしている。こちらに背を向けているので表情は分からないが、作業をしながらも、サラを気遣う優しい声は変わらない。
「あら、そうなの。それは楽し…み……」
だから、ふり返ったリックを見て言葉を失ってしまった。
先程まであれ程穏やかな声だったのに、こちらをふり返ったその顔が、あまりに辛そうだったから。
「お嬢様…、いえ。お前は、誰だ…?」
泣きそうな、絞りあげるような声に、沙羅は今度こそ凍りついた。
ああ、どうして。
どうしてもう、終わったつもりになっていたんだろう。
あたしはまだ、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます