さらさらサラミ

舞山いたる

第1話

 トンツートトトントンツートントンと夕食の用意をしていると、気づけば夜だった。気づけば。そうして夜の訪れを自覚したとたん、さらさらと冬の気配のようなものが即座にやってきて、その気配が深まるにつれて私は無性に悲しい気持ちになる。昼間はまだいいが、夜というのは、一日の中でももっとも季節感をはっきりと感じさせるような気がする。季節の変わり目だからだろうか、なんとなく体が重い。毎年のことで慣れっこではあるのだけれど、やはりつらいものはつらい。


 そのつらさから身を守るかのように、私はぎゅっとギャツビーを抱きしめる。ギャツビーというのは私の飼っている猫の名前で、オスの三毛猫で、思い返せばもう十年ほどの付き合いになる。


 十年。


 長いような短いような、なんてありきたりな表現が脳裏に浮かび、私は苦笑した。でも、実際のところそうなのだから仕方がない。そうでしょう? と、同調を求めるかのようにギャツビーと向き合うと、にゃお、とギャツビーは鳴き、そのいじらしさに私の全身には庇護欲のようなものが走る。


 本当に、いじらしい猫だ。私は幾度目かの感情を覚え、彼をよりいっそう強く抱きしめた。彼は――ギャツビーは、今にも消えそうな、例えるならば新雪のはかなさのような印象を持っていた。晩秋の木枯らしのような、気が付いたら過ぎ去っている台風のような、そういった印象だ。


「おまえは本当にかわいいねえ」


 私はひとりごち、ギャツビーの頭を撫でまわした。手のひらほどしかない、小さな頭。守らなければならない、小さな命。思えば自分の人生は彼とともにあった、と私はニンジンを短冊切りにしながらふと考える。


 ギャツビー。


 この子を買ったとき、そうだ、私はフィッツジェラルドの小説を読んでいたのだ。グレートギャツビー。晩秋に吹く木枯らしみたいな小説だった。気が付いたら過ぎ去っているような、あとに何か判然としないもどかしさのようなものを残す、そういった小説だった。


 リリリ、と電話が鳴る。


 いまとなっては時代遅れのガラケーを手に取り、私はそれを耳元にあてた。


「深雪?」と声が電話越しに聞こえてくる。電話主の呼ぶ「深雪」というのは私の名前だ。


「どうしたの」と私は電話の発信主である千歳に応じた。


 深夜にもかかわらず躊躇のないコールをかますこの女、千歳とは長い付き合いである。思い返せば小学生、いや、幼稚園児だった頃からだろうか? 記憶が定かでない。とにかく、旧友であるのだ。同性同士、それなりに仲良くしてきたつもりではある。向こうがどう思っているかは定かではないけれど、こうして電話をかけてくれ、時々ふたりで遊びにも行くのだから、悪い印象は持っていないのだと思う。


「どうってわけでもないけど」と千歳は返事を返す。


「じゃあ、どうして」


「なんとなく声が聞きたくて?」


「カップルじゃあるまいし……」


「あーひどい。幼なじみに対してなんたるすげない対応」と、ここまで聞いて私はこれが千歳の悪癖である用のない電話であることを察し、切断ボタンに手を伸ばしかけた。


 私はあまり、暇ではない。


「あー待って待って。用なら無いこともなくはない。というか今できた」


「今できた……って、なにそれ」


「ナウなう。千歳さんは今をナウで生きているわけですよ」


「あ、そ」


 すげない対応。まあ、彼女が相手だから問題はない。


「ね、今から深雪の家行ってもいい」


「まあいいけど……こんな夜中に?」


「むしろ、夜中だからっていうか」


「はいはい。じゃあ鍵開けて待ってるから」


「そんな不用心な」


「だいじょうぶ、だいじょうぶ」


 千歳の家は私の家から徒歩三分ほどのところにある。防犯意識が低いと言われればそれまでだが、ものの三分の間に押し入り強盗に遭遇するほどの運の悪さであったなら、どちらにせよ何らかの不運には見舞われていることだろう。


「じゃ」と短く一声があって電話が切れる。


 さて。


 彼女の来るまでの間、私は私で作りかけのきんぴらごぼうの調理にでも勤しむこととしよう。


 物も言わずニンジンを短冊切りにする。トンツートトトントンツートントンと。




◇ ◆ ◇




「おじゃましまーす」とチャイムもなく声が響いたので、私はひとまず押し入り強盗が詰めかけてきたわけではないと知ってホッと一安心する。そこまで心配していたわけでもないけれど。


「お、なに、夜食でも作ってるの」


「うん。きんぴらごぼう」


「……それは夜食っていうよりおつまみって感じだね」


「もちろんそれも用意してるよ」


 コタツに足を差し入れた千歳を尻目に、私は冷蔵庫からキンキンに冷えたビールをとりだす。


「おお、なんか悪いね」


「いいよ。一人酒もさびしかったところだし」


「今度、ウチにも来なよ」


「いやそれは遠慮しておく」


 なんたって、千歳の作る料理はまずい。微妙とかじゃない。おいしくない、という意を表す表現でもない。本当にまずいのだ。


 それから、彼女の部屋はなんというか非常に汚い。衛生的に薄汚れているというわけでもないけれど、足を踏み入れるのを躊躇させる乱雑具合というか、とにかく潔癖症のきらいのある私には受け入れがたいものがある。


「え、なんで」


 このまま話を流してしまおうと思ったのに、千歳はなおも私が彼女の部屋を踏み入れたくない理由について追及してくる。


「いや、なんでというかなんというか」


 ううん。そのまま本人にゴミ屋敷には行きたくない、と告げるのは簡単なのだけれど、それをするには私の肝っ玉はいささか打たれ弱い。


「ところで大学の調子はどう?」私は話を横にそらせた。


「あー、大学?」


「うん」


「まあ、ぼちぼちって感じ?」


「なんで。合格したときは、さんざん張り切ってたのに」


「そうだったかなあ」


「そうだったよ。夢のキャンパスライフわっしょーい。みたいな」


「いや、そこまでは喜んでなかった」


「えー。割かし間違ってないと思うけどなあ」


「いやさ」千歳はひとつ咳ばらいをする。「なんとなくで入ってみたら、なんというかさ、やりたいことと出来ることの……なんていうか理想と現実が合致しなかったっていうか。興味も関心もない学部になんとなくで出願した私が悪いってのは分かってるんだけどね」


「どんな学部だっけ?」


「なんていったっけな。グローバルあーだこーだ、みたいな」


「あー……」私は二の句を探してしばし黙り込む。「それは、確かに千歳は興味なさそう」


「でしょ? 私もそうは思ったんだけどさ……なんというか、あの時はなにも考えてなかったんだよなー。とりあえずどっかしら大学に入れればいいや、みたいな」


「ふうん」


「で、どうよ、浪人二年目の調子は」


「わ、私?」とつぜん話題をふられて私はうろたえる。正直、あまり触れてほしい話題ではない。「あーまー、エンジョイしてるよ。割かし」


「いやいや。エンジョイしちゃダメでしょ。血尿だしながら机に向かいなさいな」


「私の膀胱はそんなにナイーブじゃないし、そう思ってるなら深夜に家へ押しかけるのはやめてほしいんだけど」


「なに、じゃあ帰ったほうがいい?」


「朝までいても一向にかまいません」


「ダメじゃん」


「あははー」


 気の抜けた笑い声を私はあげる。中身のない笑い。


「あははーて。将来のこととかちゃんと考えなよ。私が言えた義理じゃないけどさ。ちゃんと勉強とかした?」


「今日は……うん、ばっちり勉強したよ。もう勉強以外頭にないって感じ」


「なんの教科?」


「現代文」


「どんな勉強?」


「……本を読みました」


「いやそれ意味ないから!」と千歳は一喝する。


「いやいやいや。語彙力や読解力や読書スピードをですね、あげることで現代文の点数に直結するわけです」


「それはそうだけどさー。本の虫のあんたが、今さら本読んだところで大して意味はないと思うんだけど。直近の現代文の模試、点数いくつだった?」


「……九割」


「そんだけ取れてれば十分だって! それより英語とか数学とかさ、なんとかしなって」


「いや、まあ、はい。そう思ってはいます」


「じゃあやりなって」


「うーん」


 とは言っても、やる気がでないものはでないのだから仕方がない。無理やり机に向かおうとも、その『無理やり』を引き起こすための気力がないのだから。


「ま、私はこうしていつでもダラっと遊びにこれて気楽でいいけどね」


「大学の友達とかと遊びなよ」


「うーん。なんていうか、みんな悪い人じゃないんだけどさ……会えば挨拶ぐらいはするし、世間話もするし。でもこうやって自然体でくつろげるのは、やっぱり高校時代の友達しかいないんだよね。特にあんたは楽でいいわー。実家にいるみたいな感覚でさ」


「あ、そう」自然に返答がぶっきらぼうになる。


「なに、照れてる?」


「照れてない」


「あはは」と千歳は笑う。腕を前に放り出し、上半身をテーブルに預けきった気楽な姿勢で、くったくのない笑みを浮かべる。


「じゃ、ま、乾杯」


 ぷしゅこと音をたてて缶ビールを開け、私たちはたがいに缶を打ち付け合う。二人そろって四十五度くらいの角度に缶を持ち上げ、中身を一気に三分の一ほど飲み干す。


「だー」「あー」と二人して情けない声。


「なんていうか、気が抜けるわー。この最初の一口は」だらしなく表情を弛緩させて千歳は言う。


「うん……もはやこの一口のために飲んでいるといっても過言ではない……気がしなくもない」


「それは過言かなー」


「過言かな」


「過言だねー」


「そっか」


 まあ、どちらでもいいことだ。私は一口、二口と次々缶に口をつけて中身を減らしていく。炭酸が食道ではじける感覚が言いようもなく心地いい。


「あー……ダメになる」私はさっそく回ってきた酔いに意識をぼんやりとさせながら、ぽつりとつぶやく。


「なっちゃえなっちゃえ」


「ううー……。悪魔がささやく」


「おいおい勘違いしちゃ困るな。天使だよ私は」頬を紅潮させ、体をゆらゆらと横に揺らしながら千歳が言う。


「こんなへべれけな天使がいてたまるか」


「多様性は大事だよ、きみ」


「はいはい……」


 話しているうちに、酔いが急速に回ってきたようだ。抗いがたい眠気が私をおそった。私はコタツに足を突っ込んだまま、横になって床に転がった。


「おねむ?」と千歳が幼児をあやすように言う。


「別に……眠くない」


「そんな、うつらうつらしながら言われても」


「ねーむーくーなーいー」


 と言いつつ、正直なところ私は眠かった。それこそ今ならぶっ続けで一日中眠れるんじゃ? ってくらいには。しかしそれを千歳に悟られるのも恥ずかしいので、私は虚勢をはって追及をごまかした。


「じゃ、ま、私は帰ろっかな」


「だから、眠くないったら……ふぁ」私はあくびを漏らす。不覚である。


「はいはい、そういうことにしておくから」


 千歳はリビングのドアを開け、玄関へと向かう。


 ドアノブに手をかけ、彼女はこちらに向き直った。


「おなか出しながら寝て、風邪ひかないようにねー」


「うるさいバカはやく帰れ」


「はいはい」と千歳は投げやりに返答を返す。


 ありがた迷惑な忠告である。子供じゃあるまいし。


 それ以上会話を続ける気はないようだった。千歳は素直にドアノブに手をかけ、玄関ドアを開ける。


「それじゃ、また」閉じかけたドアから半身をのぞかせ千歳は言った。


「うん」


 バタン、と音がしてドアが閉じる。室内を閑散とした空気が支配した。


「ん……」


 ひとつ、大きくのびをする。床に寝転がったまま、天井をぼうっと眺めるまま。


 ごろにゃん、と形容しがたい鳴き声をあげながらギャツビーは寝転がった私の首元にやってくる。


「ああ……」


 もう誰も見ていないのだ。唯一の目撃者といえば、人語を解さないこの子猫だけ。雑魚寝にはうってつけのシチュエーションである。


 私は目を閉じると、深い深い闇の中にまどろみを沈み込ませていった。


「世界が平和でありますように」




 そして、ここまでがありふれた日常の話。始めるのは、それからの話。

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さらさらサラミ 舞山いたる @Nanashi0415

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