六月十九日「人違い」
「あっ、お久しぶりです!」
ある昼下がりのこと。駅を出て街の通りを歩いていると、見知らぬ男が私の方を見ながら手を上げて近づいてきた。
私の後ろに知り合いでもいるのだろう。そう思い男の脇を通り過ぎようとすると、今度は間違いなく私に向かって男が言った。
「どこかにお出かけですか?」
私の横にくっついて歩きそんなことを言われたら無視することは出来なかった。私は人の邪魔にならないよう歩道の端に寄ると男に言葉を返した。
「……どちら様でしょうか?」
言いながら男をしっかりと見る。もしかすると私が覚えていないだけで、どこかで会ったことがあるのかもしれない。だが、いくら見ても目の前の男は思い出す事が出来なかった。
しかし、男の方はそうじゃないようで、まるで知り合いかの様になれなれしく話しかけてくる。
「アレ? 覚えてませんか?」
男は私のことを知り合いと確信しているようで、「ちょっとショックだなぁ」とか「そんなに印象薄いかなぁ」と肩を落としている。その様子を見るとなんだか不憫に思えてくる。それに、もし会社のお得意先の人だとしたらまずいかもしれない。
私は男に話を合わせることにした。
「あっ! 思い出しました。あのときの方ですよね! ちょっとド忘れしてしまっていました。いやはや、歳は取りたくないものですね。お恥ずかしい」
どうだろうか。思ってもいないことを口にして冷や汗が背を伝う。
「いやっ、良かった。思い出していただけましたか!」
大丈夫なようだ。男は嬉しそうな顔をしている。次に男はこう言った。
「それにしてもあそこは良いお店でしたね。また行きたいものです」
「ええ、そうですね。また今度是非にも」
「それで、お訊きしたいことがあるのですが……あのお店の名前って何でしたっけ? どうしても思い出せなくてちょうど困っていたんです。今度会社の後輩を連れてってやろうと思っていまして……」
さて困った。この男のことも知らなければ、男の言う店など知るよしもない。適当に茶を濁そう。
「……さて、なんでしたっけ? 喉元まで出かかっているんですが、どうも上手く出てきませんな。申し訳ない」
「いえいえ……たしか、お通しのキュウリの漬物がおいしかったという記憶はあるんですが……」
お通しのキュウリの漬物。それを聞き、私の中に一つの店の名前が思い浮かんだ。良く行く店に思い当たる節があった。
「もしかして――」
私はその店の名前を口にした。すると、男は記憶のもやが取れたようだった。
「ああ、そうだ! 確かにそんな名前でしたね」
「良かったです」
「いやぁ、あの節は助かりましたよ。そういえば初めてお会いしたのもあそこでしたよね」
「ああ…………ああ! そうでしたね!」
男を話をしているうちに、私の記憶も蘇りつつあった。
そういえば確かにこんな顔の男とあの店で会った気がする。いや、間違いない。この男だ。お互い酒を飲みできあがった状態で色々な話をした。
そういえばあのとき男は確か――
「――それで話は変わりますが、あの後彼女さんとはどうなったんですか? 上手くいきましたか?」
私がそう話を持ちかけると、男はこれまで顔に貼り付けていた笑顔を引っ込めた。
しまった、触れてはいけない話題だったか。話を振ったことを後悔したが、男はすぐに笑顔を見せ、言った。
「……おかげさまで。今は仲良くやってますよ」
「ああ、それは良かった! それじゃあ今度ご結婚なさるんですね! いやぁうらやましいものですな。私はいまだに相手が見つかりませんよ」
そう言うと、男もハハッと笑った。
しかし、私は男のその笑顔に違和感を覚えた。先ほどまでの男の笑顔とは明らかになにかが違っていた。
「……大丈夫ですか?」
もしや、本当は彼女と上手くいっていないのかもしれない。私の手前、プロポーズを断れれたとは言い出せず嘘を言っているのかもしれない。
そう思い私が訊くと、男はこう返した。
「あの…………自分から話しかけた手前、申し上げづらいことのなのですが……」
やはりそうなのか。そう思ったが、続く男の言葉は違っていた。
「……人違いでした。あなたを知り合いと勘違いしてしまいました」
「……えっ!?」
――すみません。
男はそう言って頭を下げると、そそくさと私の前から去って行った。
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