六月十五日「人魚」

 空が赤い夜のことだった。


 暑い夜で、寝床についてもなかなか寝つけずにた少年は、夜風にあたろうと寝静まった家をそっと出た。少年は十六でまさに育ち盛りといった様子で、筋肉がほどよく発達し、肌は浅黒く焼けていた。

 外に出、少年が住む高台から海へと続くつづら折りのアスファルト道を下っていくと潮の気配を孕んだ空気が少年を迎えた。


 太陽活動が活発になり、南極の氷床が溶け始めたのが数十年前。一度融解がはじまると、さまざな条件が重なりその速度は増す一方だった。今は融解のペースは落ち着いたが、かつての大都市は今やその多くが海の下にある。


 少年は水面下の文明に思いを馳せながら、アスファルトと砂の混じった海岸線を歩いていた。空を走る赤いオーロラの下にある海は鈍い光をたたえ、うち捨てられ表面にフジツボを貼り付けた高層建築物が海面のいたるところで顔を出していた。


 それからしばらくの間、止めどなく波が打ち付ける海岸線を歩いていると、波打ち際に倒れる人影を見た。体の半分を海に沈め、上半身をぐったりと地に横たえている。少年は人影へ駆け寄った。


「大丈夫ですか!?」


 倒れているのはどうやら若い女性のようだった。長い髪が海水で濡れて彼女の肌背に張り付いている。どうしたことか、女性は服を纏っていなかった。


「乗っていた船が転覆でもしたのか? いや、でもこんな夜中に……?」


 少年が何度声を掛けても反応がない。口もとに耳を近づける。女性は呼吸をしていないようだった。誰か人を呼びに行っている暇はないと、少年は人工呼吸を行った。一連の手順は高校で教えられていた。このときばかりは、少年はつまらない保健の授業に感謝した。


 何度か繰り返していると女性は目を覚ました。人工呼吸を行うため顔を近づけていたせいで、少年は女性と至近距離で目を合わせることとなった。目を瞑っていると大人びた女性といった雰囲気だったが、瞼を開けるとつぶらな瞳で少女といった方が適切な年頃だと判った。


「あっ、ごめん!」


 少年は慌てて少女から飛びすさる。一方、少女は惜しげもなくその女らしい身体を晒しつつ、物珍しそうにあたりを見渡していた。少年は少女から顔を背けるも、その目はチラチラと彼女の裸体を盗み見ている。無駄な肉のない美しい身体だった。


「……あー、俺はユウマ。君はどこから来たの? どうしてこんな夜中に?」


 顔を背けたまま、頬を赤らめて少年――ユウマは訊いた。

 それを聞いてか、少女はハッとした表情を見せ、口をパクパクと動かした。

 少女が何と言ったか聞き取れず、ユウマは彼女に近づいた。


 しかし、少女の口もとまで耳を近づけても、少女の声はユウマの耳に届かなかった。


「――もしかして、しゃべれないのか?」

 

 少女は海とユウマを見くらべて、懸命に口を動かすのみだった。


 どうしたものか、とユウマは頭を悩ませる。

 このままここに放っておくわけにもいかない。両親に事情を説明すれば今夜彼女を家に泊まらせるくらいは許してくれるだろうか。とりあえず、身体が濡れたままじゃ風邪を引いてしまう。


 少年は羽織っていくと上着を脱ぐと、少女に渡した。少女はそれを受け取るとぎこちなく袖を通した。サイズが合っていないせいか不格好だった。


「とりあえず海から上がった方がいい」


 そう言って、ユウマは少女の腕を取り海から引き上げようとする。が、少女はどうしてかそれに抵抗を示した。

 けれど、ユウマが少し力を込めると少女の抵抗も虚しく彼女の身体は陸に引き上げられた。そして、海の下に隠れていた彼女の半身が露わになるとユウマは言葉を失った。


 彼女の下半身は、人間の持つそれとは異なっていた。彼女のへその下、鼠径部のあたりからは人の身体ではなく魚の尾のようなものが繋がっていた。ユウマに腕から吊されるような形になり、少女の尾鰭が水面を叩いた。


 驚きのあまり少年が手を離すと少女は海へと慌てて戻り、海面から頭を覗かせてユウマを視界に捉えた。



 人魚の噂は、世界の大部分が海に沈んでからまことしやかにささやかれるようになった。 

 大半の海洋生物学者は「そんな生物はこの世に存在していない。酔っ払いがジュゴンやらなにかと見間違えたのだろう」と一笑に付したが、一部の学者は「南極の氷が溶けて海が広がり、それに伴って生息地域が人間の手が届く場所まで伸びたのかもしれない」ともっともらしく言った。大抵の人は前者を信じたが、それでも一定数の人は後者を支持した。そうした人々は、人魚の血肉で不老不死になりたがったり、金銭目当ての不埒な輩が主だった。



 そのように巷で物議を醸す存在が、今ユウマの目の前にいた。人魚の少女は、海の中からユウマに向かって、ただならない様相で何やら口を動かしている。だがその声は聞こえない。


 幻の生物を見つけたらから捕まえたり、まさか食べてしまおうなど、そんな考えはユウマになかった。ユウマはただ、信じられないといった様子で海面に漂う少女を呆然と見つめていた。


 そのとき、不意にサイレンが鳴り響いた。


 波浪警報だ。


 しかも悪い事に、それは波が間もなくユウマたちのいるこの場所に来ることを知らせた。ユウマたちヒトの家がある高台までは波が届くことはないが、二人がいる場所は波に呑まれる。少女はユウマに何かを伝えようとしていた。


 ユウマはこのときになって気がついた。

 彼女はこのことを伝えようとしていたのだ、と。


 ユウマは高台に向かって走り出した。走りながら後ろを振り返ると、地平線の彼方に異常に隆起する海が見える。海面から少女の姿は消えていた。彼女も逃げたのだろう。


 数十メートルの高さがある壁の足元に辿り着くと、そこから上まで続くつづら折り状に整備されたアスファルトの坂を駆け上る。

 波はもうすぐそこにまで迫っていた。それほどにまで波は早く、そして巨大だった。まだ半分も登っていない。


 ――間に合わない!


 ユウマは走るのを止め、手近な手すりにしがみつき身を丸くした。そして大きく息を吸い込む。

 瞬間、強烈な衝撃がユウマの身体に遅いかかった。あまりの衝撃に、あえなくユウマの身体は手すりから剥がされた。海水に呑まれたユウマの身体はめぐるましくまわり、天地が分からなくなる。


 ふいに、ユウマの身体を熱い衝撃が貫き、口から気泡が漏れ出た。見れば、先の尖った鉄パイプが右脇から斜めに身体を貫いていた。ユウマの視界を血が染める。それから、身体も意識も深い闇に呑まれていった……



************



 再びユウマが目を覚ますと、そこは海の上だった。

 海上にはみ出した、海藻とフジツボの住居と化しているビルの上に、ユウマは横たえられていた。


「さっきのは夢、だったのか……?」


 そんなはずはないと、赤塗れたビルの屋上とユウマの横に転がる先端から中腹までを同じく赤くした鉄パイプが雄弁に物語っていた。

 上体を起こそうとして、身体に湿った布のようなものがかけられていることに気づいた。手に取ると、それはユウマが人魚の少女に着させた上着だと判った。


 海は、いつもの静けさを取り戻していた。そして、彼女が再び姿を見せることはなかった。






 それからというものの。ユウマは夜な夜な不思議な声を聴くようになった。


 それは不明瞭な声ではっきりとは聞こえないものの、誰かが自分のことを呼んでいる。そんな気を起こさせる声だった。


 ある夜、ユウマは聞こえてくる声に誘われるまま再び夜の海へ赴いた。ユウマが海に近づくのはあの日以来のことだった。

 海に近づくほど、声は次第にはっきりとしていった。そして、ユウマの足に波が触れるほどまで行くとその声ははっきりとこう言った。


 ――やっと来てくれた。


 何かが海から飛び出す音がした。

 ユウマは海を見る。


 海上に浮かぶ満月を背に、半人半漁のシルエットが宙空に浮かび上がる。数瞬後、彼女はちゃぽんと音を立てて再び海に潜った。それからユウマの立つ波打ち際へ泳いでくるのが見えた。距離にして一〇〇メートルほどあったのだが、彼女はそれをわずか数秒で泳いだ。


「――君が僕を呼んだのかい?」


 ユウマがそう訊くと、彼女はうなずく。


「それじゃあ、これも君が?」


 ユウマは言いながらシャツをめくる。そこには星形の傷痕あるのみで鉄パイプ穿った孔は完全に塞がっていた。


 ――ええ。あなたに私の血を飲ませたの。


 ユウマは驚いた。

 人魚である彼女の血を飲んで傷が治ったこともだが、以前は聞こえなかった彼女の声が聞こえたことも彼にとって驚きだった。

 人魚の血液を体内に取り込んだことで、ユウマの身体になんらかの変化が起きたことは確かだった。


 ――それじゃあ、行きましょう。


 そう言って、人魚の少女はユウマの手を取った。

「行くって、どこに」ユウマが訊ねると、少女は口もとに笑みをたたえた。


 ――とっても楽しいところ。


 少女はユウマの腕をつかみ、海の方へと引っ張る。ユウマは状況が飲み込めず、脚に力を込めてその場に留まろうとする。


 すると、不意に、少女の口から美しい歌声が聞こえ始めた。

 その旋律を耳にしたユウマは、突然におとなしくなり少女に手を引かれるまま、真っ暗闇の海へと身体を沈めていった。


 ――これでずっと一緒……

 




 

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