六月十四日「暗闇」

 それは雨の日のことだった。


 いつもだったら外を走り回り体を汗でぬらすのが好きな少年も、その日は家でおとなしくしていた。いや、そうでもなかった。家の中でも少年は体を動かしていた。


「いけーっ!」


 プルバック式の小さなトイカーを廊下で走らせ、少年はその後を走って追うという一人遊びをしていた。体を動かしていないと落ち着かない年頃だった。

 何度も何度も同じことを少年は繰り返す。さすがに疲れてきたのか、それとも飽きたのか少年は走るのを止め、ただ走っていく車を見るだけになっていた。

 やがて車を走らせるのも適当になり、車は壁の端にぶつかって進行方向を変えてあらぬ方向へと走っていってしまう。


「あっ」


 少年が声を上げたときにはもう遅かった。おもちゃの車は勝手に目的地を変え、廊下の曲がり角を曲がっていってしまう。少年は急いで車の後を追った。

 廊下を曲がった先、そこには扉が開いたままの部屋が一つ。部屋の中は暗い。車はその部屋の暗がりへと姿を消した。


「……どうしよう」


 その部屋は、少年が意図して近づかないようにしている場所だった。少年は生まれてからずっとこの家で暮らしているが、これまでその部屋に一人で入ったことはなかった。入るときはいつも両親と一緒だった。


 部屋の中に何かがあるわけではない。両親に「ひとりで入るな」と言われているわけでもない。ただ、少年はその部屋にひとりで入りたくなかった。

 部屋の前に立ち尽くす少年。目をこらして、耳を澄ます。けれど、何も見えず、何の物音も聞こえない。車も部屋の壁で動きを止めたのだろう。


「どうしよう……お母さんを呼んで取ってきてもらおうかな」


 少年の母親は居間で洗濯物を畳んでいた。少年が呼べば来てくれるだろう。

 が、少年はこれくらい自分でなんとかするんだ、と頭を振ってもう一度まじまじと暗い部屋の中を見る。

 少年は、部屋の中にナニカがいるのではないかと考えていた。家の中の一室で、何度も部屋の中に入って中を見たことがあるのに少年はそう思ってやまなかった。


「おーい」


 少年は暗闇の向こうへと呼びかけた。当然、答える声はない。

 ――やっぱり誰もいるわけがないんだ。

 自分自身にそう言い聞かせ、少年は真っ暗な部屋の中へ足を踏み入れた。

 妙に冷たい空気が少年の体を迎える。クーラーが効いているわけでもないのに、その部屋はいつもひんやりとしていた。少年の肌が粟立つ。

 少年は部屋の内側の壁のスイッチを押した。室内に明かりがともった。少年の思ったとおり、部屋にはただ物が置かれているだけで特別おかしいモノはなかった。ナニカがいるわけもない。

 さっさと車を回収して部屋を出ようと、少年はあたりを見回した。しかし、おもちゃの車は見えない。


「あれ? どこいったんだろう?」


 物陰に入ってしまったのだろうか。

 チカッチカッ。

 少年が物陰を捜そうと屈むと、部屋の電気が点滅した。


「うわっ」


 驚いて飛び上がる少年。素早く首を巡らすも部屋に変わった様子はない。電気も点滅をやめていた。なんだか怖くなり、少年は車を諦めて部屋を飛び出た。そのまま部屋を振り返ることなく曲がり角の向こうまで走り抜ける。


 元の廊下に戻ってきた少年は一息つく。少年はまだ鳥肌立っていた。

 そのとき、シャーッと何かが走る音が少年の耳に届いた。それからコツンと何かが壁に当たる音がした。見ると、曲がり角の壁に先ほどまでおもちゃの車がぶつかって止まっていた。

 少年はそれを恐る恐る手に取る。それは間違いなく少年の車だった。


「あれ、なんで?」


 曲がり角からソッと顔を出して少年は逃げてきた部屋を見る。部屋の扉は開かれたままその中に暗闇をたたえていた。


「……出るときに電気消したっけ?」


 少年がそう口にすると、部屋の扉が突然に閉まった。


「え!?」


 驚き、少年はしばらく扉を見つめていた。だが、それきり何も起こる様子はない。

 少年の中で恐怖と好奇心が葛藤していた。やがて、好奇心がわずかに勝り少年は扉へそろりそろりと足を動かし始めた。たっぷりと時間をかけて扉の前まで辿り着いた少年。ドアノブへ手を掛けようとした途端、自ずからドアノブが動いた。そしてドアが開いた。


「うわっ」


 少年は驚き、床に腰を打ち付けた。


「おお、悪い。大丈夫か?」


 少年の頭上から低い声がして、少年に向かって太い手が差しのばされる。

 ドアの向こうから現れたのは少年の父親だった。少年はホッとして父親の手を握り、起き上がった。父親の手は妙に冷たかった。


「酷いよ、お父さん」


 少年の父親がガハハと笑う。「何してたの」と、少年が聞くと「部屋の電気を交換しようと思ってたんだ」と答えた。


「なんだ、そうだったのか」


 少年も笑った。


「じゃあ、わたしは作業の続きをするから」


 そう言って少年の父親は部屋の中へと戻りドアを閉じた。少年もすっかり安心して再び曲がり角の向こうに戻った。すると、家の玄関が開き、少年の父親が帰ってきた。


「ただいまー」

「え?」


 少年は驚いて目を丸くした。少年の父親は曲がり角の向こうの部屋にいる筈だった。けれど、その父親が今玄関から家の中に入ってきた。


「なんだ、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして」

「どうしたって、お父さんこそどうしたの?!」


 少年が大きな声で訊ねると、父親は手に持った袋を持ち上げて言った。


「部屋の電気を交換しようと思ってな。ほら」


 父親の持つ袋の中には蛍光灯が入っていた。


「え、でもほらさっき替えてたじゃん!?」


 父親は「何を言っているんだ」と少年の脇を通って、曲がり角の向こうの部屋へと歩いて行く。少年はその後を追った。


「だって、さっきこの部屋からお父さんが出てくるのを見たんだよ!」


 父親は訝しげな顔をしながらドアノブに手をかけて扉を開いた。少年の父親の影から部屋の中をのぞき込む。部屋は真っ暗で中は見えない。父親は携帯のライトで部屋の中を照らした。


「ほら、誰もいないだろ?」


 父親の言うとおり、部屋の中には誰も居なかった。

 

 

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