六月十一日「アイカ」

「アイカ、ただいまー」


 男がそう言って自宅の玄関を開けると、中からアイカの声が返ってくる。


「おかえりなさーい」


 優しい声だった。男は玄関の横に置いてある室内用のメガネをかける。

 アイカの姿が現れると、男は仕事で疲れ切った表情を一変させた。彼女の前では疲れた顔を見せたくなかった。靴を脱いで食卓に向かう。男は右手に提げた牛丼をテーブルの上に置いた。


「今日は牛丼を買ってきたんだ」


 男がそう言うと、アイカは頬を膨らませた。


「もう、またそんなのばっかり食べて。栄養とかしっかり考えてないでしょう。ダメだよ、身体は大事にしないと」


 頬に餌を詰め込んだ小動物のようで可愛らしい姿だった。男は牛丼を袋から取り出す。


「ごめんよ、アイカ。明日はちゃんとするから」


「約束だよー」


 アイカは男の向かいに座り、牛丼を頬張る男の姿をニコニコと眺めていた。ゆらゆら、と揺れるアイカに合わせて頭の後ろで括ったポニーテールが左右に揺れていた。アイカは頬杖をつく。


「お風呂できてるから、食べ終わったら入っちゃってね」


「ああ、いつもありがとう」


「これくらい、なんてことないよ。いつもお仕事頑張ってくれてるんだもん。これくらいしてあげないと」


 食事を終えると男はアイカが涌かしてくれた風呂に入った。湯加減は男の好みに合わせられていて、熱すぎずぬるすぎずの絶妙な塩梅。身体の疲れが抜けていくようで、湯船に浸かった男は息とともに声を洩らした。


「ふうぃ~~」


*********


 男がアイカと出会ったのは一月前のことだった。


 仕事が休みの週末。特に目当てのものがあるわけでもなく、街の電気屋をブラブラと歩いていると男に声がかかった。


「こんにちは。お一人なんですか」


 それがアイカとの初めての出会いだった。

 男は最初、とつぜん声を掛けられて驚き警戒していたが話していくうちに次第と彼女尾に惹かれていった。そして二人は今に至る。


*********



「湯加減だいじょうぶー? 熱くない?」


「うん、大丈夫だよ」


 浴室の外から聞こえたアイカの声に男が答える。

 充分に身体が温まってから風呂を出ると、仕事の疲れもあり男はすぐに寝てしまった。


「ふふっ、おやすみ」


 アイカは男が眠る部屋の電気を消した。





 翌日。会社にて。


「最近なんだか機嫌が良いですよね、先輩」


 男がオフィスで仕事をしていると、後ろを通りがかった後輩からそんなことを言われた。男は調子良く答えた。


「まあな。でも、そういうお前だった最近仕事が終って帰るとき、前と比べてずいぶんと足どりが軽い気がするぞ」


「あ、バレちゃいました?」


 後輩は「バレちゃったらしょうがないな~」と嬉しそうな顔をしながら頭を?いた。誰かに話したくて堪らないという顔をしていた。


「実は、最近彼女ができたんですよ」


「へぇ、そりゃめでたいな」


「本当にかわいいんですよ。僕に色々とつくしてくれて。あ、アイカっていうんですけどね――」


「――アイカ?」


 アイカと聞いて書類をめくる男の手が止まった。男は椅子に座ったまま後輩の顔を見上げた。

 後輩は男の表情の変化に気づかず惚気話を続けた。


「それがもう、めちゃくちゃにかわいくって。ぼくは家に帰ると『おかえりー』って、毎回出迎えてくれるんですよ。それから風呂の用意までしてくれて。もうその場にいてくれるだけで幸せになっちゃいますよね」


 パキリ。男が握るペンにひびが入る音がした。


「……もしよかったら、そのアイカ……さんも一緒に三人で食事でもどうだい? それだけ言う人がどんななのかちょっと見てみたくなってね」


 後輩は少し悩んで言った。


「いいですよ。今週末なんてどうです」


「いいね。じゃあ場所と時間は明日までに決めておくよ」


「わかりました。おねがいしますね~」


 後輩はそう言って男のデスクから離れていった。


「まさか、そんなわけはないよな……」


 男は誰にも聞こえない声でひとりごちた。


 その日、男が家に帰るとアイカはいつも通りに男を迎えた。


「おかえりー」


「ああ、ただいま……」


 答える男の声は元気がなかった。男の不調に気づくとアイカは気遣う声をかけた。


「どうしたの? 仕事でなにかあったの」


「いや、そういうわけじゃないんだけど……」


 ゆっくりとした足どりで男は風呂場へ向かった。


「あれ、ご飯は?」


「いや、今日は食欲がなくて」


 風呂を出ると、入る前と変わらず心配そうにアイカは男を見ていた。


「……明日、朝早いからもう寝るよ。おやすみ」


 男は逃げるように寝室へ入ると、バタンとドアを閉じてしまった。アイカは閉じられたドアをしばらく見つめていた。





 その週末、後輩との約束の日。


 男は先に居酒屋に入って待つと、少し遅れて後輩がやって来た。「すみません。ちょっと忘れ物しちゃって」と悪びれた様子もなく後輩は席についた。

 それから店員を呼び適当に酒とつまみを注文すると、二人は乾杯した。グラスが空になりかけても後輩の彼女が姿を見せる気配がなかった。男が訊く。


「それで、お前の彼女はいつになったら来るんだ?」


「ああ、すみません。すっかりわすれていました」


 そう言って後輩は鞄から掌に載るサイズの箱のような機械を取り出した。そして、それをテーブルの上に置くと、


「驚かないでくださいね」


 言いながらスイッチを押して機械を作動させた。機械からは光が放たれ、ホログラムの女性の姿が映し出された。


「紹介します、この子が俺の彼女の――」


「アイカ! アイカじゃないか!」


 男は血相を変えて立ち上がった。その勢いでテーブルの皿が音を立てた。それを見て、後輩は「落ち着いてください」と男を座らせた。


「……そうです、俺の彼女のアイカですけど。それがどうかしたんですか」


 テーブルの上では空気中に投影されたアイカが微笑んでいる。


「ああ、そんな……」


 男は頭を抱えた。それを横目に、投影された小さなアイカは、

「―……マサヨシくん、やっぱり外は、恥ずかしいよ……」

 と、周りの目を気にする様子で恥じらっている。


「ごめん、ごめん。でも先輩にアイカのことを自慢したくってさ。――わかったわかった、続きは家でな」


 後輩が機械のスイッチをオフにすると、投影されたアイカの姿はかき消えた。


「……ふざけ……な」


「え?」


 男の肩がわなわなと震える。後輩が男が何を言ったか聞き取ろうと耳を近づけると、男は後輩の胸ぐらを掴んで怒鳴った。


「アイカは俺の女だ! 俺だけの女なんだよ!」


 男は後輩を投げ飛ばすと走って居酒屋を出た。投げ飛ばされた後輩も、居酒屋にいた他の客も皆、男の突然の大声と行動に虚をつかれたように固まっていた。





「アイカ! ただいま!」


 男は自宅の扉を蹴破る勢いで開くと、玄関脇においてある室内用ARメガネを装着した。すると、それまで何もなかった空間に愛しいアイカの姿が浮かび上がった。


「おかえりなさい。どうしたの、そんなに慌てて? そんなにわたしに会いたかった?」


 アイカの声が部屋に設置されたサラウンドスピーカーから聞こえた。


「なあ、アイカは俺だけのアイカだよな? そうだよな?」


 必死の形相で訴えかける男。アイカは困ったような表情を見せた。が、すぐに笑顔に戻り両手を包み込むように広げて言った。


「ええ、もちろん。わたしはあなただけのAICA(アイカArtificial Intelligence Characterized Automatically)です」


「ああ、よかったよかった。アイカ、俺だけのアイカ……」


 男は安心のあまりその場にくずおれた。アイカはそれ見ると、


「ほら、そんな汗をかいたままでいたら風邪を引いてしまいますよ。お風呂はできているので汗を流してきて下さい」


 と、男を風呂場へと向かわせた。男が浴室へ入り扉を閉めたのを確認すると、アイカは大きな息を吐いた。


「はぁ、まさか他の人の前でわたしのことを見せびらかそうとする人がいるなんて。説明書にちゃんと注意書きまでしてあるのに。――ああ、うん大丈夫。こっちはなんとかなったから。そっちもちゃんとしてよね、次からこういうことが起こらないように。もう絶対外には連れてかないように言っといてよね。わたしの担当顧客みたいに、他のアイカを見ると拒絶反応を起こしちゃう人がいるんだから。――ああ、はいはい。今回のケースはちゃんと報告書にまとめて共有サーバーに上げとくから。あとでみんなちゃんと確認しといてよね」

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