六月十日「ザクロ」

 気がついたらそこはわたしの知らないところでした。


 夜、おかあさんに言われて十時前に布団に入ったのは覚えています。いつ眠ってしまったのかは覚えていません。気がつくとここにいました。


 周りは暗くてあまり見えません。わたしいる少し先には開いた大きな扉があります。炎がゆらゆらと扉の脇でゆらめいています。扉はとっても大きく、絵本に出てくる巨人さんが通れそうなくらい大きいです。その扉の向こうにどんどん人が入っていきます。人の列は、わたしのうしろの、暗くて先が見えない道の奥までつづいているようでした。


 道の途中に立っていては他の人の邪魔になってしまうので、わたしはみんなに付いて扉の方へと歩きました。すると、扉の向こう側に大きな犬が見えてきました。その犬は三つの頭を持っていました。どこかでそんな犬の名前を聞いたことがあるような気がしましたが思い出せません。

 それから列が進んで扉をくぐっても、あたりは外と変わらず薄暗いままでした。あるのは壁でゆらめく小さな炎だけです。


 そのとき、列に並んでいた人のひとりが、何かよく分からない言葉を口にしながら扉の外、わたしたちが来た方へと走っていきました。すると、それまでお行儀良くお座りしていた三つ首の犬がその人の前に立ち塞がりました。グルグルッと低いうなり声を上げています。三つあるうちの一つ頭からはヨダレがねっとりと垂れています。思わず鼻をつまんでしまいます。それから一つの頭が大きな口を開くと、その人はトボトボと列に戻って行きました。

 

 ――わたしたちはどこに向かうのでしょう。


 そう思っていると、列の先で女の人たちが並ぶ人に何かを渡しているのが見えました。しばらくしてわたしの番が来ると、女の人は赤くて丸い果物のようなものをくれました。綺麗な人です。


「これは……りんご?」

 たずねると、その女の人は教えてくれます。

「いいえ。それはザクロよ。とってもおいしいの――――ダメよ、皮を食べちゃ」

 りんごのようなものかと思いかじりつこうとするわたしを見て、女の人は言いました。

「皮には毒があるから。ザクロはその中の赤い粒のようなものを食べるのよ」


 危ないところでした。もう少しで皮ごと食べてしまうことでした。


 女の人に頭を下げるとわたしは先に進みます。

 少し歩くと大きな広場に出て、そこで列はなくなってみんなバラバラに歩いていきます。わたしも探検家になったつもりで、ひとりで歩き始めました。


「マナカちゃん!」


 すこしもしないうちに私を呼ぶ声が聞こえてきました。そうです。わたしの名前は愛花です。

 声のした方を向くと、そこにはわたしがよく知る人がいました。


「おばあちゃん!」


 わたしはおばあちゃんのところへ走りました。途中転びそうになりましたが、なんとかふんばりました。おばあちゃんの前で転んで心配をかけるわけにはいきません。わたしはもうそんな年ではありません。立派な小学三年生なんですから。


 おばあちゃんは昔と変わっていませんでした。記憶のなかで見るおばあちゃんとおんなじです。


「おばあちゃん、おばあちゃん!」


「マナカちゃんがどうしてここに……」


 おばあちゃんはなんだか悲しそうな顔をしています。どうしたのでしょうか。おばあちゃんの目から涙が流れはじめてしまいました。


「おばあちゃん? どうしたの、どこか痛いの?」

「ええ、あなたのことを思うと……」


 それからしばらくするとおばあちゃんの涙は止まりました。何があったのかわかりませんが、おばあちゃんが元気になって嬉しいです。


「あのねあのね、おばあちゃんに話したいことがたくさんあるんだ! まずね、この前ね。――」

「うんうん――」


 わたしが話し出すと、おばあちゃんは昔みたいに笑って話を聞いてくれました。話すのが楽しくて、わたしはずっとしゃべりつづけました。


「――それでね、昨日、学校でこんな話を聞いたんだ。テレビで言ってたらしいんだけど『眠るときに手を胸の上で組んで寝ると、死んだ人に会える』って。それでね、寝るときにやってみたんだ。最初は嘘だと思ってたんだけど、本当だったんだね! だってこうして、おばあちゃんとお話が出来てるんだもん!」

 

 わたしがそう言うと、これまでニコニコしていたおばあちゃんが怖い顔になりました。わたしが何か悪い事をしたときに見せるおばあちゃんの顔です。


「……おばあちゃん?」


 でもわたしはどうしておばあちゃんが怒っているのかわかりません。わたしはおばあちゃんを怒らせるようなことは何もしていません。


「マナカちゃん、ここに来てから何か食べ物を食べたりした?」

「ううん。入り口でザクロをもらったけど、皮に毒があるからって」

「そう、よかった」


 そう言うとおばあちゃんはわたしの持っていたザクロを取ると、遠くに投げ捨ててしまいました。地面に落ちたザクロは割れて、中には赤いつぶつぶが見えました。なんだかちょっと不気味です。


「いい? ここでは何も食べちゃダメ。誰になんと言われても絶対に」

「どうして?」

「どうしてもよ。おばあちゃんのことを信じて」


 おばあちゃんはとても真剣な顔をしていました。おばあちゃんがなんでそんなことを言うのかわかりませんが、わたしは「うん」と頷きました。おばあちゃんが嘘を言うはずがありません。


 それからわたしはおばあちゃんの言葉を信じて進みました。おばあちゃんは「この先の道をまっすぐ進むの。そうすると、ここの入り口にあったような大きくて綺麗な扉が見えてくる。そこにいる人とお話するの。大丈夫、とても優しい方々だから」と言いました。


 歩いているといろんな人が「お一ついかが?」とおいしそうなお菓子を手に持って話しかけてきました。ちょうどおなかが空いてきたわたしはそれを食べようとしますが、おばあちゃんの言葉を思い出して断りました。あぶないところでした。


 そうしてお菓子を断りつづけていると、大きな扉が見えて来ました。おばあちゃんが言っていた通り、綺麗でピカピカに輝いています。扉は閉まっていましたが、わたしが近づくと勝手に開き始めました。扉が開くにつれて、その隙間からまぶしい光が飛び出してきます。


 扉が開ききると、金で作られた椅子や像やグラス、そして椅子に座る二人の人影が見えました。


「ほお、生きた身体を持つ者がここに来るとはなんとも久しい」

「ええ、いつぶりのことでしょうね。お嬢さん、こちらにいらっしゃい」


 わたしは呼ばれるまま部屋のなかへと進んで行きます。なかへはいると椅子に座る二人のとても大きいことがわかりました。きっとここはこの人達の家なのだ。だから扉があんなに大きいのだと思いました。


「人間の童よ。ここに何しに来た」


 男の人の声がわたしに聞きます。低くてとても響く声です。わたしは校長先生と話す時のように、背筋を伸ばして答えました。


「あの、おばあちゃんに言われて……」

「そうではない、どうして私が支配するこの世界に来たのか、と訊いたんだ」


 とても緊張します。けれど、男の人の声は怒っているようではありませんでした。


「その、おばあちゃんに会いに……」

「そうか。それで、会えたのか?」

「はい」


 わたしがうなずくと、男の声が言いました。


「ならば、疾く立ち去るがよい。ここはお前の来る場所ではない。ここは死者が訪れる国なのだ」


 男の人はそう言います。けれど、せっかくおばあちゃんに会えたのに帰ることはできません。だから私は言いました。


「それじゃあ、おばあちゃんもいっしょに……」

「それはできないわ」


 こんどは女の人の声が言いました。


「あなたはここへひとりで来て、そしてひとりで帰るの」

「でも……」

「お前がどうしても祖母と共にいたいというのならそれを許そう」


 男の人が言いました。


「お前がザクロの実を食べればお前はこの冥界に迎えられる。そうすれば、お前は永遠に祖母と共にいられるだろう。だが、その場合はもう元の世界に戻ることはできない。すべてはお前の自由だ、人間の童よ」

「ふふっ、よく考えることね。チャンスは一度だけよ。次は無いからね」


 そして二人は消えてしまいました。声も何も聞こえません。本当にいなくなってしまいました。それからわたしはおばあちゃんのところへ戻りました。


「――……そう。ならすぐに帰りなさい。お母さんたちが待っているわ」


 扉の向こうで話したことを伝えると、おばあちゃんはそう言いました。わたしは、おばあちゃんがもっと寂しそうにして「ここにもっといてくれ」と言ってくれると思っていたから驚いてこんなことを言ってしまいました。


「……おばあちゃんはわたしといっしょにいたくないんだ! わたしのこと嫌いなんだ!」


 おばあちゃんの手が、わたしの頬めがけて飛んできました。けれど、その手はわたしの頬をすり抜けて空気を動かしただけでした。


 わたしがいまよりもっと小さい頃。台所でおばあちゃんが包丁を持って料理する姿を後ろで見ていました。おばあちゃんが台所から離れたのを見て、わたしは包丁を持っておばあちゃんの真似をしようとしました。すると、台所に戻ってきたおばあちゃんはわたしから包丁を取り上げると頬をはたきました。「ケガをしたらどうするの!」と。それからおばあちゃんは、赤くなったわたしの頬をやさしく撫でると「ごめんね。痛かったでしょう。でもケガをしたらもっと痛いんだよ。だからもうやっちゃだめ。指力げんまんね」といって、小指を立てました。


 わたしの目からは涙が溢れました。おばあちゃんはわたしの身体をそっと抱き寄せました。身体に触ることはできなくても、おばあちゃんの暖かさは伝わってくる気がしました。


「おばあちゃん、ごめんね」

「いいのよ。私の方こそごめんね、ぶったりなんかして」

 

 それからしばらくそうしていました。涙が止まるとわたしたちは離れました。おばあちゃんの目は赤く腫れていました。見えないけれど、わたしの目も同じように腫れているはずです。


「きっとまた会えるわ。それまでずっと、私はここでマナカちゃんのことを待っているから。だから、その時はもっといろんなお話を聞かせてね」


「うん!」


 そうして、わたしはおばちゃんに見送られながら最初に来た扉をくぐりました。三つ首の犬――おばあちゃんはケルベロスと言っていました――は、わたしのことを見ていましたが、わたしの邪魔をすることはありませんでした。

 それから振り返っておばあちゃんに手を振ると、わたしはぐねぐねとどこまでもつづいていそうな道を、列の流れに逆らって進んで行きました。


 目が覚めると、わたしは自分の家の布団のなかでした。起きて、わたしがこれまで見ていたのは夢かと思いましたが、そうではありませんでした。わたしの左手には赤い果実が、冥土の土産として持ち帰ったザクロが握られていました。


「おかあさーん、これ剥いてー」


 はじめて食べたザクロは、甘くて、それでいてどこか苦みのある大人の味でした。

 

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