六月九日「星空」

 夜のとばりを下ろした駅前。行き交うサラリーマンを横目に、駅近の予備校の入り口前に設置されたU型の車止めポールに腰掛ける女がいた。女は手に二つの缶コーヒーを持ち、その一つを口に運びつつ誰かを待っている風だった。彼女の口から白い息がほわりと、夜の街に浮く。

 すると、予備校の自動ドアが開いた。中から男がひとり出てくる。

「よっ、おつかれさま」

 男を見ると、女はポールから降り開いてない方の缶コーヒーを手渡した。

「ありがと、優衣。……微妙にぬるい」

「うそっ、ちゃんと手で温めておいたのに。広也が遅いからだよ」

「手を温めてた、の間違いだろ。遅れたのはごめん。チューターに質問しててさ」

「頑張ってるんだね」

「まあな。そうでもしないと試験に通らないからな」

「そっか。じゃあ行こっか」

 二人は連れだって駅に向かう。駅に着くまでにコーヒーを飲み干し、ホームのゴミ箱に缶を捨てた。電車の座席に着くと広也は鞄から単語帳を取り出し開いた。隣に座る優衣はそれを静かに見守った。

 電車を降りてからも広也は単語帳を片手に持っていた。

「危ないよ」

「大丈夫、慣れた道だから」

 優衣は心配そうに広也を見る。

 ――歩きながらで頭に入るのかな。

 そう思ったが口にはしなかった。

 空を見上げると、満天の星空。雲ひとつなく、星々が輝いていた。

「ねえ、あれって何ていう星座か知ってる?」

 優衣が言うと、広也はそれを見もせずに答えた。

「星座の名前を答えろ、なんて問題は大学入試では出ないから。星なんかに回している時間はないよ」

「……つまんないの」

 それから少し歩くと懲りずに再び言った。

「じゃあ、あれは? あの三連星で有名なやつ」

 肩口を摘まんで空を指さ優衣に、仕方ないといった様子で広也は顔を上げる。

「……オリオン座だろ」

「正解。じゃあ、オリオン座にまつわる話は知ってる?」

「あれでしょ、オリオンがサソリに、ってやつ。だからオリオン座とさそり座は真反対の季節にしか見えないっていう」

「うん。でも、本当は別の話があって――」

 優衣は語り始める。

「月の女神アルテミスっていう神がいてね、彼女はオリオンという狩人に恋をするの。でも、アルテミスの双子の兄妹のアポロンは二人がつき合うことを良く思ってなくて、あるときオリオンが海を泳いでいる時にアルテミスにこう言ったの。『海を泳ぐあの獣を弓で射ってみろ」って。アルテミスは弓の名手でもあったからその挑発に乗って、遠くの海を泳ぐオリオンの頭を、そうと知らずに弓で打ち抜いてしまう。それから海岸に打ち上げられたオリオンの亡骸を見てアルテミスは悲しんだ。アルテミスは父であるゼウスに頼んでオリオンを星座にしてもらった。それで出来たのがオリオン座」

「……詳しいな」

 顔は手元の単語帳に向けたまま広也は言った。

「このお話が好きなんだ。星座になったおかげで、月の女神のアルテミスは夜になればオリオンに会うことが出来る」

 隣を歩く広也に視線を合わせて言う。

「それって素敵じゃない?」

「そうかもね」

 広也は顔を上げない。

「来月にはもう入試か……なんだかあっという間の三年間だった気がするな。特に今年は。ずっと勉強ばっかりだった。でもそれももうすぐ終わっちゃう。……ちょっと寂しいかも」

 足元に転がる石を蹴飛ばすと、石は乾いた音を立てて転がっていく。

「広也が私と同じ大学を受けるって聞いたときはびっくりした。思わず『その成績で?』って言っちゃったもんね」

「……だからいまもこうして勉強してる」

 優衣が笑いながら言うと、少しすねた調子の声が答える。それが面白く、また笑ってしまう。

「はい、こっちこっち」

 街路樹にぶつかりそうになる広也を、優衣笑いながら道の中央に連れ戻す。

「でも、嬉しかったよ」

「嬉し”かった”じゃない。嬉しい、でいいんだよ。来年は同じ大学に通うんだから」

「そうだね。私はもう推薦で決まっちゃったから……あとは応援するだけ」

「見てろよ。世紀の大逆転を起こして、お前のことも、親も先生も友達も、みんな驚かせてやるからな!」

 広也は開いた手で握りこぶしを作った。

「ふふっ、そうだね」

 つい熱くなってしまったのを照れたのか、広也は単語帳に顔を埋める。

「でも、もし違う大学に行くことになっても――」

 優衣は夜空を見上げた。

「――変わらないからね」

 白い息が空に昇って消えた。

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