揺れるは環

 正直、高橋さんとの旅行は楽しみだ、入社してからずっと僕の教育係として寄り添っていてくれたのだ。そして、今に至るまで自分の中に蠢く感情を育て続けてしまっている。彼女はもう32なのだ、配偶者は当然いるのだろう。それ故ただの旅行なのにも関わらず、とても誘いづらい。

「すまん猫田。あとで俺のこといくらでも罵ってくれて構わないから、高橋さんのこと誘っておいてくれ。」

「・・・いいですよ。」

 自分の長くなってしまった前髪のせいで猫田の顔が見れなかった。

 小さく「ヘタレ」と言って、彼は聖者の如く行進を始めた。

 仕方ないじゃないか、この年齢になるまで、自分は一度も感情のやり場など見つけたことがないのだ。

「まーた俯いてる。」

「佐々木・・・」

「はよ仕事しろ。」

 そういうと彼は自分の持ち場に戻っていった。

 少しだけ俯いて、コーヒーと共に仕事に着手した。


 8時間後・・・


 今日は、ミルク多めのコーヒーにしっかりとお世話になってしまった。

 たまにはこういうのもいいかなと思った。

 時刻は10時を回っていた。残業し過ぎた気もするが、会議の資料はいろいろめんどくさいのだ。本当。つくづく。

「やっと終わったぁ~。」

 デスクで伸びていると、高橋さんが寄ってきた。

「終わった?早く飲みいこっ!!」

 目を見ることはできなかった。

「本当すいません。待たせちゃって。」

 気づけばオフィスの中は、もう二人しかいなかった。

「ううん。いいのいいの、今は環山くんの力量を図ってる時期だから、ちょっと辛いと思うし。」

 初耳だ。これはいいことを聞いた。

「そんな話あったんですか・・・」

「さ、行こ行こ!」


「どこの居酒屋行くんですか?」

「私の家の近くの居酒屋さんでさ、そこのスルメがおいしくって~。でもいつも一人で寂しかったから一緒に誰か食べてくれればいいんじゃないっかってね。」

 海底火山は、内に入り込んだ海水が蒸発し、一気に体積が増すのが蓄積した結果、小さなきっかけで噴火する。

「高橋さんって・・・」

 その海には高橋さんの乗ったボートがあったのを忘れていた。

「ん?」

「ごめんなさい。何でもないです。」

「いいけど、すぐ謝るのはやめようね?」

「ごめ・・はい。」

 そう彼女が小さく笑ったすぐ後に、駅で降りる。

「もうすぐだよ。」

 彼女に連れられて商店街を歩き、少し外れたところに黄色い灯りを見つけた。

「あれですか?」

「そうだよ。『居酒屋鱗』」

 ウロコ・・・?

「魚系統がおいしいのかな?」

「基本おいしいよ!!」

 彼女も疲れているのだろう。お淑やかな女性らしさがなくなってきている。

 社会は悪いところだ。

「えっと、スルメとキムチとビールで、環山くんは?」

「あじゃあ僕もそれで。」

 彼女はメニューをしまい、遠い目をして僕を見つめた。

 魅入ってしまいそうな黒い瞳だ。

「ん。なんです?高橋さん。」

「仕事終わったんだし、下の名前で呼んでほしいなぁ。」

 彼女の名は高橋 優江。ゆえちゃん・・・?いや優江さんだな。

「じゃあ、ゆえさんで。」

「なんかまだ距離感感じちゃうなぁ。」

 露骨に頬を膨らませる姿は、若い子供を彷彿とさせる。

「ご注文の品は以上ですか?」

 ビールとスルメとキムチが二つずつ、そして・・・大豆?

「大豆はおまけだよ、環山くん。」

「あ、じゃあもう全部ですね。ありがとうございました。」

「そんなに長く飲んでると電車無くなっちゃうし、おかわりもしないほうがいいな。」

 ため息をつく。

 彼女はきょとんとして、

「うち泊まってく?」

 一瞬脳が石化した。彼女はを言うものだ。しようがない。

「い、いやぁ男性を家に泊まらせるのは良くないですよ、別にそういう関係でもないんですし、誤解されちゃいますよ。ゆえさんお綺麗なんですし、彼氏もいると思いますし、僕のせいで息苦し・・・」

「居ないよ。」

 食って言われた。

「え。」

「彼氏何て、できたことないよ。」

「いやでもお綺麗なんですし・・」

「家で・・・確かめてみる・・・?」

 多分、お互いに酒も回れば疲れもひどく、理性的でなかったんだと思う。


 そのあと2杯も酒を飲み、スルメのうまさを実感した。彼女は、何もしゃべってくれなくなっていた。

「帰り・・・ましょうか。」

「うん。」

 顔に熱が迸るのを感じる。酒で顔は赤くなっているので、見た目では測らないだろう。

 彼女の家は、なんと一軒家だった。

「言ってなかったっけ?親の敷いた道で生きるのが嫌で逃げてきたけど、親はそれを応援してくれたって。」

 酔いと疲れと緊張でいろいろとおかしくなってきており、だんだんとそれが馴染んでいている。

「お嬢様・・・だったんですか。」

 女性の家に入るのは初めてだ。白とピンクを基調とした”女の子”らしい家だ。

「大学の時からずっと住んでてね、大人っぽくないでしょ?」

「動けなくなってしまいそうです。」

「そか。じゃあついて来て、」

 手を握られる。とても細くて、とても白くて、とても・・・指輪が付いている。

「高橋さん。指輪・・・」

 弄ばれたのか、自分は。

「これね、おそろいのがあるんだ。」

「は?」

「私を好きになってくれた人にあげろって、お父さんが。」

「本当ですか。」

「怒らないで、誤解を生んでしまったのは分かってる。」

「・・・」

 頭の中に極彩色の旋風が佇む。

「貰ってくれない?」

 彼女は指輪の片割れを持ってこちらを見ている。その瞳は、不安と緊張で濁っていた。

 僕は、高橋さんの首を絞めた。両手で。

 高橋さんは抵抗しない。

 必死にこちらを見つめてきている。

「・・・ごめんなさい」

 手を放した。

「っ帰ります。」

「まって。」

 抱き着かれてしまった。

「僕はいま理性的じゃないんです。たぶん、高橋さんも。ダメです。こんな状態で・・・」

 彼女は両腕の力を強めた。

「・・・ごめんなさい。」

「謝らないで。」

「・・・」

「私を・・・見てよ。」

 少しだけ落ち着いてきたかもしれない。

 高橋さんは、泣いていた。

「泣かせて、首絞めて、逃げる人ですよ。」

「でも私は、君が…。」

 再び熱が灯る。彼女を今まで、天上の蜃気楼だと思っていた。

 だが違った。人間だった。二面性を持ち、自分と他人の感情に流され、もみくちゃにされる。心を持っていた。


「僕は、あなたが好きです。」

「ありがと。私も好きだよ。」

 彼女は、細い腕を僕の首の後ろにまわした。

 キスをせがまれているのだろうか。こういった経験がないので全くわからない。

 僕はしたいのですることにした。

「ファーストキスは、お互い酒とイカの味だね。」

「ロマンないなぁ僕らの初めて。」

 そこから後のことは、疲れが酷かったからか、よく覚えていない。


 暖かいものが瞼越しに目に訴えてくる。

「起きた?」

「ゆえさん・・・?」

「覚えてた!!」

「昨日のこと・・・覚えてる?」

「昨日・・・?」

 僕は自分が何をしでかしたのか思い出した。

「あ。」

「忘れてたんだ~あんなこと私にしたのにぃ。」

「あれは、そのなんというか・・・」

「後悔してる?」

 後悔か。

「人生初がイカと酒臭かったこと以外は後悔してないです。」

「そっか。」

「仕事に関しては、猫田くんに頼んで二人そろって腹痛で寝込んでることになってるから、安心して今日は背徳感におびえていられるよ。」

 猫田に頼んだのか・・・あいつのことだ、こうなることくらい想定のうちだろう。

 いい先輩と後輩を持ったものだと、心底思った。

 彼女の家で朝食を作ってもらい、家に帰ることにした。


「ただいまー。」

 挨拶だけは言うようにしてる。言わないと家と外での切り替えができないのだ。

「おかえりー。」

 は?

 そこには、鰹に四肢を生やしたような雑な生物が雑魚寝しながらテレビ(大画面)を見ていた。

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