第三章 お勧めのCDを貸してくるような後輩 2

「今日は息子が店を手伝ってくれたから、いつもより遅く起きられたなぁ」

 カウンター席でコーヒーを味わう母さん。

 息子が開店からホールの仕事に入ったこともあり、今朝の母さんはゆっくりと遅い時間に起きることができたため、感謝の意を表しているのだろう。

「あの約束を忘れてないだろうな」

「なんだっけぇ~? 寝ぼけて忘れちゃったぁ~あいたぁ!?」

 あからさまにとぼける母親の脳天へ軽いチョップの制裁を加えた。

「バイト代として、ランクルのガソリンを満タンにしてくれるって話だよ」

「忘れてないってぇ。夕方まで働いてくれたら、車のガソリン代を差し上げますよぉ」

「さすがに朝八時から夕方五時までは長くない? 昼休憩入れても八時間労働じゃん……」

「ハイオク満タンなんだから当たり前じゃーん! ウチのランクルはリッター七キロも走らんのじゃあ~っ!」

 昨晩、帰宅後の俺は『家の車を貸してほしい』と母さんに頼んだ。

 友人から仕入れた星空スポットのいずみたけスキー場は、車でも片道一時間以上の登り。絵を描くからには画材の運搬も必要になってくるので、車移動が最善の選択肢となったのだ。

 身分証明や就活にも使えるからと周囲に勧められ、免許も夏休みに取得済み。

 母さんやすみさんを助手席に乗せて店の買い出しに行く日も珍しくはないため、運転が不安という気持ちはじんもなかった。

 それに……カッコいいじゃん。好きな女の子を隣に乗せてさ、大型クロスカントリー車を運転するのは。それが時代遅れな感性で、親の車を借りただけの高校生だろうとね。

「どこの誰と行くのか、正直に話してほしいなぁ~。なぁ~。なぁ~」

 セルフでエコーをかけてくる圧巻のウザさよ。

「クラスの男友達と遊ぶって言ったじゃん」

「母さんの色恋センサーが働くんですよぉ~。相手は女の子である……と」

 黙秘権を発動させる。妖怪パジャマ女め、息子の仕事を妨害してくるな。

「大型車に女の子を乗せるとカッコいいとか思ってそうな時代遅れの顔してるぅ~っ!」

「そんなに器用な顔じゃないって!」

 詳細に煩悩が浮き出る顔面ではないんだが……母親がたまに発揮する鋭い色恋の勘は、薄皮のしなど突き破って本音をえぐってくる。

じゆんが正直に話せばぁ……」

「話せば……?」

「バイト代、二倍にしますけどぉ!」

「後輩の女の子と星を見に行きます!」

 まんまと金の誘惑に釣られて白状するアホ息子がよお。

「マジ? マジ? マジぃ? いやぁ~、准汰くんの青春やーん。素敵やーん。レジの金、どんどん持って行っていいからねぇ!」

「いや! 店潰れるって! ガソリン代とジュース代くらいで充分だから!」

 レジを開けてぽんぽんと現金を取り出し始めたクレイジーな母さんをなだめ、俺はホールの仕事に戻り、たての伊澄ライスをお客さんへ提供した。

 最も混み合うランチタイムもせわしなく動き回り、体感時間はあっという間の日暮れ。ここからディナータイムまでは閑古鳥が鳴き、俺とすみさんにも気を休める余裕ができる。

 ちなみに母さんは友人と日帰り温泉へ行ったから、夜までは帰ってこない。

「──じゆんさん、夕方には出掛けるんですよね。晩ごはんはどうしますか?」

 カウンター内で伊澄さんと隣り合わせになると、そう尋ねられる。

「今日は食べずに出掛けます。その代わり、夜食として伊澄さんのサンドイッチを持っていきたいんですけど、もしよければ作ってくれませんか?」

「──サンドイッチで良いのなら大丈夫です。二人分を作りましょう」

「ありがとうございます! 伊澄さんがウチに来てから、飯の時間が楽しみになりました」

 伊澄さんはディナーで使うための野菜を包丁で切り、俺が純粋に垂れ流すめ言葉を聞こえていないかのように聞き流した。

「一緒に星を見に行く相手が、伊澄さんのサンドイッチをしそうに食べてくれたんです。だから、また持っていけば喜んだ顔が見られるかもって……」

 野菜を切る手元を注視していた伊澄さんが、ふいに俺のほうへ顔だけを向ける。包丁がまな板をたたくリズミカルな音も同時に止まり、伊澄さんと見詰め合うような体勢になった。

「──准汰さん」

「な、なんでしょうか?」

 想像以上のきようじんな目力に硬直させられ、全身が直立不動で縛られる。

「──お相手の方が好きそうな具材を、挟んでおきますね」

 静かなる声音でそう言い残し、俺のもとから離れていった伊澄さんは冷蔵庫をあさり始めた。地味に緊張させられ、こわっていた眼球の筋肉もほぐれる。

 なんだろう。冷酷に氷結した表情は変わらないのに、間近で感じた伊澄さんは確固たる意志を身に宿し、瞳の奥は祝福の色が咲いているような……く言い表せないけれど、伊澄さんなりに喜んでくれたのだろうか。

 この人を何も知らない。わたのときみたいに、伊澄さんと正面からちゃんと向き合うことができたなら、少しずつでも知っていけるのかな。

「伊澄さんも、誰かを好きになったことはありますか?」

 恋愛の話題に便乗し、近寄りがたかった心の壁に踏み込んでみる。

 調理台に食材を並べた伊澄さんは口をつぐみかけたが、

「──あります……が、どうして好きになったのか、自分でも分かりません」

 過去の映像を脳裏によみがえらせたようだったが、不鮮明であることを断言した。

「その人と一緒にいて楽しいとか、少しでも会えないと寂しいとか……そんなおもいを抱いたからじゃないんですか?」

「──分かりません。自分自身のあらゆる感情も、誰しもが一度は抱くであろう〝愛情〟すらも……私は知らない」

 伊澄さんは首を振り、抽象的な言及にとどめた。

「伊澄さんがウチに来てくれてから、自宅で夕飯を食べる機会が増えました。母さんも大げさにはしゃいでいるのは、すみさんとお話しできてうれしいからなんだと思います」

「──そうですか」

 伊澄さんの表情は一切の変化を生じさせない。

「──私はアナタたちと一緒にいても楽しくはないし、嬉しくもないです」

 人間として持ち合わせるべき喜怒哀楽が、伊澄さんの声には含まれていない。

 プログラムされたように揺るがない発声は〝不快〟や〝無関心〟すら透けて見えず、俺が自虐で言う『中身が空っぽ』とは似て非なるものであり、魂のない人形と同等の『内面的な空白地帯』が存在していた。

 俺と同じ人間なのに、違う。本来あるべきものが、欠落している。

「──何も、思いません」

 続けざまに紡がれる言葉は、よわい十八の若造には到底理解しかねるものだった。


「──〝に願いを託し、全ての感情を手放しましたから」

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