第三章 お勧めのCDを貸してくるような後輩 1

 土曜日。昨夜は楽しみすぎて寝付けず、鉛を埋め込まれたようにまぶたが重い。

 いつもの休日ならアラームなど設定せず、ダメ高校生は昼過ぎまで惰眠を貪るだろうが、現時刻は午前八時。すでに目覚めているどころか、なぜか労働が始まろうとしていた。

 メニュー名に値段が添えられた手書きのボードを店先に出し、出入り口のドアに掛けられたCLOSEの札をOPENへ裏返す。

「いらっしゃいませ。二名様ですか? こちらのテーブル席へどうぞ」

 朝っぱらから仕事用のエプロンを掛け、年季の入った喫茶店に来訪した常連のお客さんをテーブル席へ案内。コップの水を提供したあとに注文を取り、ドリンクを作り、料理をテーブルまで運び、会計のレジを打つ。てきぱきとホールの仕事をこなす俺は店長の息子であり、店舗兼実家に住んではいるが従業員ではない。

 はあ、意外とせわしないな……。定番のブレンドとトーストサンドをたしなむ客が次々と訪れ、朝食の時間帯は小忙しく店内を動き回ったが、開店から二時間もった頃には客の影が少なくなり、ランチタイムまでは客足が落ち着く。食器がこすれる音や話し声が減ってくると、店内のアンプを震わす原子心母が存在感を主張して聴く者の心身をいやすのだ。

 洗った食器の水分を拭き取り一息いたところで、邪魔者の影がゆらりと近づく。

「うふふ~、お疲れさまでーす♪」

 居住スペースから店舗へ降りて来た母さんが、軽快なステップを踏みながら店内の様子をうかがう。だらしない寝ぐせと、生活感が漂うパジャマ姿。こだわりのアンティークな小物や大量のレコードで覆い尽くされた店内では異物として浮きまくっていた。

「ちょい待て、おい、あほか。パジャマで店舗に出てくるな」

「お客さん少ないし~良いじゃ~ん。この店で一番偉いのは母さんだぞう」

「二人しか働いてない職場でイキってんじゃねぇ」

 としもない猫なで声で『だぞう』とか抜かすのが……ウチの母さん。

「ふあぁあ……すみちゃーん、ブレンドぉ。サビ抜きでぇ」

 こら、寝起きでも小ボケをかましてくるな。伊澄さんが困っ……無表情だけども。

 大あくびをかました母さんがカウンター席に座り、伊澄さんへコーヒーをる。お客さんもいる営業時間内に寝起きパジャマの店長が何食わぬ顔で現れ、コーヒーを注文している光景……いちげんの客には非常識に映るかもしれない。

とうさんが店でぐーたらしてると、いつものはなびし珈琲コーヒーって感じがするねぇ」

「看板娘の伊澄ちゃんを雇ってから、私のぐーたらが止まりませぇん」

 でも、花菱珈琲にとっては平常。常連さんが笑顔で見守り、母さんがへらへらと応対するのも日常茶飯事だ。メニューの種類が豊富でもなく、値段が格安というわけでもない手狭な店に常連客が増えていく訳には、母さんの人柄による居心地の良さも少なからずある。

「──お待たせしました。ブレンドです」

「さんきゅ!」

 伊澄さんがれたてのブレンドを母さんのもとへ提供した。

 コーヒーカップは受け皿ソーサーに乗せられ、砂糖やミルクをかき混ぜる用のスプーンも添えられている。マンデリン、コロンビア、キリマンジャロ、ブラジル……四種の豆がブレンドされた甘い酸味とコク深い苦みが共演する香り。懐古が凝縮した店内の空気へ浸透し、お洒落しやれで気取った大人の芳香に酔ってしまいそうだ。

「うん、すみちゃんがれるコーヒーはしいなぁ~。ワタシのとはレベチ!」

 コーヒーカップに口を付けた母さんがこうこつの絶賛を漏らすと、常連の客も同調したりうなずいていた。レベチ、じゃなくてレベルが違うと略さず言いなさい。

「なんで誰も『とうさんのコーヒーもいよ』ってかばってくれないのぉ~!? お世辞が欲しい年ごろなんだよぉ~!」

 なんか騒ぎ始めた面倒な店長に向けられる常連さんの温かいまなしに笑う。

「伊澄ちゃーん、誰も気遣ってくれないよぉ~。店長は悲しいよぉ~」

「──店長が悲しむ理由が分かりません。私が淹れたコーヒーのほうが美味しいからといって、なぜ悲しいのでしょうか。気遣うとは、どのように振舞えばいいのでしょうか」

「ひーん! オブラートに包んでくれよぉ! 伊澄ちゃんには優しさがないのかぁ~!」

 ワザとらしいをしながら、冗談めかして伊澄さんを批判する母さん。

「──それに店長のコーヒーが最も美味しいのは、みんな理解していると思いますよ」

「うあぁん……伊澄ちゃんにマジでれる五秒前……」

 としもなくほおを赤らめる母親っていうのはきついな……。ここにいる大半が店長とパートの会話をあいあいとした掛け合いだと思い、自然な笑顔になっていた。

 俺もまた、伊澄さんが来てからの雰囲気は好きだった。

 伊澄さんは建前を言わない。というより感情の起伏に乏しく、こちらが露骨に表した感情もれず、思いついた言葉を取捨選択せずに淡々と紡ぎ出す。そんな伊澄さんを気味悪がる客もまれにいた。AIと会話しているような気分になるから、と。

 はなびし親子の能天気な人柄が覆い隠し、悪目立ちすることはなくなったのだが。

「僕もブレンド。それと……伊澄ライスも食べようかな」

 常連さんもまったりとした空間に浸り、おかわりのブレンドを頼む。小腹が空いたのだろうか、裏メニューの伊澄ライスも一緒に注文した。

 伊澄さんは眉の角度すら微動だにさせず、キッチンにて調理に取り掛かる。

「──私は……優しさを知りません」

 抑揚の欠片かけらもない独り言が、近くにいた俺にだけは聞こえた気がした。

 あの場で伊澄さんは、唯一笑っていなかった。

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