第二章 気が付けばいつも一人になっているような後輩 12

 俺と最初に会ったときの言動が、本来の渡良瀬なのだろう。

 見ず知らずの他人を恐れ、どう対応していいのか混乱し、積極的に接触することを無意識に拒否していた。それでも、好きなものは語りたい。唯一、自分の好きなものを言葉で堂々と伝えられるコミュニケーションの方法だから。

 渡良瀬は他人を嫌いなのではなく……適応することができていなかった。いや、他人との付き合い方をまるで知らなかった。わたが育ってきた過去の環境を推測するのは難しいけれど、恐ろしいほどに生きるのが下手で、不器用で、寂しがりや。

 渡良瀬よしは──そういう女の子。それを知ることができたから。

 他のやつらが面倒臭がって離れたとしても、放っておけないんだよ……俺は。

「ダメな部長ですね……わたしは……」

 きっと、泣いている。

 大粒の涙がほおを伝ってもなお、未完成の星空を描いている。時折、現実の星空を仰ぎ見るふりをしながら、制服の袖で目元を拭い去っていた。

 もう、居ても立ってもいられない。

 背後に立つ俺は渡良瀬の両肩に左右の手をそっと置く。後ろから抱き締める資格や度胸はもちろんないので、中途半端な格好になったとしても。

「俺が入部してもいいかな」

 怠惰で持て余していた時間を、残り僅かな青春を、俺は美術部で過ごしたい。

 いや、渡良瀬のために使いたいと願った。そうしたいと思った。

「……冗談……ですよね?」

 耳を疑う渡良瀬に対し、俺は首を横に振る。

「絵はほとんど描けないけどさ、話し相手くらいにはなれると思う」

「……わたしと一緒にいても、つまらないですよ」

「お前と出会う前までは、充実してるようで物足りない日々を過ごしてた。高校三年になって同級生が慌ただしくなっても、だらだらとヒマ潰しをしてたんだ……」

 ふいに、思い返す。進路も決まらず、明確な目標もなく、ちっぽけな心残りを亡霊のように探して、ひたすら町を彷徨さまよっていた怠惰な自分を。

「でも、渡良瀬と会うようになってから学校が待ち遠しくなったんだよ。いつの間にか、毎日が楽しくて仕方なくなって……美術部に入り浸るようになってしまった」

「……帰宅部なのに帰ってくれなくて……迷惑でしたが、意外と悪くない時間でした……」

 渡良瀬の潤んだ苦言を受け、苦笑いをしてしまう。

 何かに夢中になっている渡良瀬が羨ましかった。

 けれども、今は……渡良瀬との日々に夢中になっている。言葉にするとクサいと笑われそうだから、キザな台詞せりふは心の中にとどめておくけど……これだけは直接伝えさせてくれ。

「これからも渡良瀬の話し相手になりたい。渡良瀬の絵を最初に見せてもらいたい。それが入部志望の動機です」

「……迷惑な人……ですね。あと半月もてば卒業しちゃうくせに……」

「もしかしたら、美術部の居心地が良すぎて留年するかもしれない」

「……ダメです。ちゃんと頑張って……卒業してください」

「もうすぐ卒業しちゃうような先輩はお断り……か?」

 押し黙ったわただったが、おもむろに立ち上がり、きびすを返す。


「……わたしの話し相手でもよければ、喜んで」


 雨のあとは晴れ。

 泣きじゃくっていた後輩は一転して晴れやかに様変わり、満面の笑みを涙の破片が伝う。

 初めて目の当たりにした表情の不意打ちに感情が激しく揺れ動き、体内に響く鼓動の音がうるさまない。この表情を記憶に何枚でも複写して焼き付けたいのに、しきりに蔓延はびこる照れ臭さからか直視し続けられない。

 ご勝手にどうぞ、ではなく『喜んで』受け入れてくれるのが、そこはかとなく感慨深くて。

 このとき、はっきりと自覚した。

 自分の素直な本心にうそはつけなかった。


 友情ではなく恋愛感情として好きになったんだ。

 はなびしじゆんは、渡良瀬よしを──


「渡良瀬の笑った顔、初めて見た」

「……笑ってないです」

 言及した瞬間に不機嫌面で覆い隠してしまったけど、うれなみだにじんだ愛らしい笑顔を俺は生涯忘れることはないだろう。何年っても、何度も思い返すだろう。

「……センパイ。美術部の……花菱センパイ」

 心底嬉しそうに、俺の名を呼んでくれる。


「……ようやく、小さな夢がかないました」


 ぼろぼろと泣き止まない渡良瀬。

 瞳が水没した洪水状態の表情を見られたくないのか、俺の胸に顔をうずめた。

 ヘタレな俺の右手がぎこちなく稼働し、渡良瀬の髪をかすようにでる。思いっきり抱き締めてやれる関係性ではないけど、いつか──このおもいを伝えられる日が来たら。

 俺自身は大したことをしていないものの、渡良瀬にとっては大きな一歩。

 美術部に入ってくれた部員とおしやべりがしたい……渡良瀬がずっと憧れていた小さな夢を叶えた瞬間に、俺がこれ以上を望むのはぜいたくすぎだ。

 もっと喋りたい欲がある。渡良瀬の絵を眺めながら、どうでもいい話を語り掛けていたい。渡良瀬が早口で語り掛けてくる得意げな顔を、苦笑いで受け止めていたい。

 しかし、充実した気持ちは体感時間を速めてしまう。

【完全下校時刻の十分前になりました。学校に残っている生徒は速やかに電気を消し、忘れ物がないかを確認したあと、安全に気を付けて帰りましょう】

 無情なアナウンスが学校中に流れ、物足りなさに包まれる。

 以前は無駄に長く感じていた一日が、あっという間に終わろうとしている現実に焦燥があふれ、浅はかな悪知恵を搾り出した。

「……後片付けをして帰りましょうか」

 目元のしずくを指で拭ったわたは、すがすがしい顔つきで俺の胸元から離れ、絵皿や筆を撤収し始める。明日は土曜日。渡良瀬に会えないのがもどかしく、たった二日間の週末が煩わしくさえ感じた。重い物の運搬を手伝いながら、恋愛的に押すか引くかで青少年はもんもんと悩む。

 閑散とした屋上に戻す後片付けを済ませ、校内へのドアに歩み寄っていく渡良瀬。

 棒立ちで取り残されそうな俺は満天の星というムードに後押しされ、意を決した。

「渡良瀬の家は狭いうえに星空があまり見えないんだろ。週末だと校舎が夕方には閉まるし、昼間に部活動をしたとしても作業が進まないんじゃないのか?」

「……そうですね。実際、星空の絵は平日の僅かな時間しか描き進められません」

「だったら──」

 渡良瀬を振り向かせるための一撃を、おもいに託して言い放とう。

「週末の夜、星を見に行こう」

 不意を突かれた渡良瀬は帰路へ傾いていた足を止め、思わず屋上側へ振り向く。

「……週末の夜は学校が施錠されていますし、忍び込もうとすれば警備会社が駆け付けると思いますよ」

 顔色一つ変えない渡良瀬には、いまいち真意が伝わっていないらしい。

 昔と違ってセキュリティが万全な現代の学校は、夜に忍び込む定番のシチュを容易には許してはくれないから、俺は遠くへ連れ出したいのだ。

「星空がれいなどこかの場所へ行ってさ、渡良瀬が絵を描いているところを眺めていたい。そして、たまにあいもないおしやべりがしたい」

 部活動ではなく、プライベートな交流として。

 会えない休日に渡良瀬が過ごすはずだった未知の時間を、奪い去ってしまいたい。

「……それは休日の部活動として、ですか?」

「そう、休日の部活動としてね」

 はい、肝心な場面ではヘタレ。

 部活動を強調することで、個人的な好意は関係ないという建前を守ってしまった。

「……ちなみに、どこへ連れて行ってくれるんですか、センパイ」

「それは当日のお楽しみ。俺が車を運転するから、絵や画材の運搬も心配しないでくれ」

 本当は未定なんだけど、格好つけてを張る。

 帰宅後に最寄りの星空観賞スポットをネットで検索している自分が想像できるね。

「……早く完成させるには、週末にも描く必要がありますね。でも、学校の屋上以外の場所では雑音が多そうだし、一人ぼっちでは怖いです。あまり人がいない静かな場所で、見知った人が近くにいてくれたら絵を描けるかもしれません」

 絶妙に回りくどい言い草を披露するのがわたらしかった。

「そんなに早く完成させたい絵なの?」

「……させたいです」

 渡良瀬は、はっきりとした口調で断言した。

「……生命の時間には限りがあり、いつ命が尽きるかは予測できません。一週間後にはもう消えてなくなってるかもしれない。確証もなく末長い未来があると思い込むより、明日なんて来ないと言い聞かせながら、好きなことを今この瞬間にやり尽くしたいですね」

 俺とは正反対の生き様。だらだらと先延ばしにし、今を怠惰に生きていた者とは有限の時間に対する価値観が大きく異なっていた。渡良瀬と出会い、俺は気付かされたんだよ。


「今やりたいことは、今しかやれないことなんです」


 その一言が身体からだの中で反響し、気持ちのぜいじやくな部分をくすぐられた。

「だったらなおさら、時間を有効に使おう。週末、俺と星空を見に行ってくれる?」

「……新入部員がそこまでお願いしてくるのなら、部長として仕方なく付き添います」

 俺がしつように誘ったみたいな印象操作はさておき、テンションを急上昇させてくれる返事をもらい、表面上は平静を気取りながらも内心は浮かれ放題になってしまう。

 表情筋がだらしなく緩まないよう、ほおに無理やりな力を込めた。

「明日の夜六時、学校前で待ち合わせ。これでいい?」

「……はい。それで」

 夜の屋上で二人は細やかな約束を交わす。

 俺はデートのつもりだけど、渡良瀬にとっては週末の部活動。お互いに意識は異なるものの目的は共通しており、星を眺めながら星空を描くこと。それには変わりない。

「二人で見られたらいいな、スノードロップすいせい

「……はい」

 高校三年も終盤に差し掛かってきた冬の終幕、ようやく俺にも甘酸っぱい青春の足音が聞こえてきた。あれだけ卒業したかった数週間前の自分はどこへやら、今は留年してもいいとさえ思ってしまうし、空っぽに過ぎ去った膨大な日々を返してほしいと後悔する。

 願わくば、この感情をもっと早く知りたかったのに。

 そう嘆くのは、充実を味わっている故のぜいたくなんだろうか。

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