第三章 お勧めのCDを貸してくるような後輩 3

 夕方の五時には仕事をあがらせてもらい、いかにもなカフェの仕事服からカジュアルな私服へ着替える。伊澄さんが言った非現実的な台詞せりふの真意は読めず、難解な比喩だろうと思うほかない。感情を知らないということを知る。ややこしい展開を処理しきれない脳が熱暴走しそうなので、まずは目先のデートに集中しなければ。

 すでに日没を迎えた街並みには街灯が点灯し、通り掛かる車両はヘッドライトで進行方向を照らす。地元の風景は夜の訪れに身を預けていた。

 適量のワックス。両手で練り上げたら髪全体を持ち上げながら空気を含ませ、無造作にませる。サイドから襟足にかけて毛束をじり、ヘアスプレーを振りかけて髪型を仕上げた。片耳には安価なピアスをるし、ひと吹きの香水を手首に潜らせる。登校時や男友達と遊ぶときは、ここまで念入りな準備はしない。

 好意を寄せる女の子と休日に会う……青少年にとって特別なイベントが控えていれば、できる限りのを張りたいとくのが健全な心理だ。

「よしっ!」

 往生際の悪さを自室の姿見で確認し、往復のガソリン代や免許証の入った財布だけは忘れないように携帯したのち、伊澄さんに一声かけていくため店舗へ降りる。

「それじゃあ、出掛けてきます。そろそろ母さんも帰ってくると思いますけど、それまでは店をお願いしますね」

「──はい。いってらっしゃい」

 店を任せられた伊澄さんが、俺を店舗の出入り口まで見送ってくれた。

「伊澄さん、さっきのことですけど……」

「──待ち合わせに遅れますよ。女性を待たせてはいけません」

 先ほどの真意を深掘りしようとしたが、すみさんは店の壁掛け時計を指差し、うやむやにされてしまう。すでに五時半を過ぎており、店先での立ち話を楽しむ猶予はない。

 店舗の横に駐車していたクロスカントリー車の運転席に乗り、白い吐息がこもる車内で震えながらエンジンをかけ、暖房が効き始めるのを待たずにアクセルを踏み込んだ。

 店舗の前を左折する初心者マークのランクル。わたはどんな私服で来るのだろう……とか、くだらない妄想ばかりを巡らせ、はやる気持ちを加速させた。早く会いたい。前のめりになっていく恋心は、制限速度の五十キロをやたらと遅く感じさせたのだった。


 学校近くの駐車場に車をめ、週末の閑散とした校門前に立つ。

 敷地内には教師の車が数台ほど駐車されているものの登下校する生徒の姿はなく、大半の窓に照明がともっていないまなが不気味な圧迫感の胡坐あぐらをかいていた。

 待ち合わせの五分前。いくらアウターを着込んでも、深まりゆく冬季の低温がやわはだに染み渡る。だが……寒冷な待ち時間が全く苦にならないのは、好きな相手を待っているから。

 渡良瀬よしを待ち焦がれる気持ちが膨張し、下降していく外気温と反比例するように体温をじわじわと上昇させていった。

 ポケットからスマホを取り出し、ロック画面の時計を確認する。待ち合わせの五分前に到着していたのだが、今は待ち合わせの五分後。つまり渡良瀬の遅刻だ。

 美術室には渡良瀬のほうがいつも先にいるんだけどな。

 心の中で笑い飛ばしつつ、地図アプリで目的地への経路を再確認したりしながら、宵闇に浸る寒空の下であいつを待ち続ける。

 結構……いや、かなり後悔した。お互いの連絡先を交換していなかったことに気付き、いきいて頭を抱えた。行き違いになっていたり、あるいは急用で遅れたり来られない場合でも、電話や通信アプリで連絡ができれば円滑に対応できる。

 あれこれ不測の事態を考えず、余計な心配をしなくても済むのに。

 待ち合わせをしているので渡良瀬を探しにも行けず、俺は校門前にくぎけになっていたのだが、とある人影がこちらへ近づいてくる。

 テンションは上がらなかった。どう見ても背格好が男性であり、ポケットに手を突っ込んでいるふてぶてしい歩き姿なんて渡良瀬とは似ても似つかない。

「待たせてごめんね。どうも、渡良瀬佳乃です」

 俺の前で立ち止まったアラサー男が、女性とは程遠い低音ボイスで話しかけてくる。

「冗談はオヤジ顔と寝ぐせ頭だけにしてください。あいつはそんなしやべかたしないっすよ」

「佳乃、タバコ吸いたいな。はなびしセンパイ、ライター持ってます?」

「高校生が堂々とライター持ってるわけないでしょ」

「ちっ、可愛かわいくねー教え子だな。教師にタメ口きくんじゃねーよ」

 渡良瀬の名を語るおっさんに理不尽な舌打ちをされる。

 もしかしなくても、この男はさか

 登校日には顔を合わせる担任教師がわたとの待ち合わせ場所に現れた状況を容易にはめないものの、それなりの思惑があるのだろう。たぶん、渡良瀬に関係する用件だ。

よしは来ねえ。それを伝えにきたんだ」

 ……登坂が現れた時点で予測はしていたが、露骨に落胆はする。夜の屋上で約束を交わした瞬間から心待ちにしていた反動に襲われ、しの恋心を摩耗させられた。

「待ち合わせするなら連絡先くらい交換しとけ。オレは佳乃のでんしよばとじゃねーんだぞ」

 登坂のボヤキなど、放心の耳には入らない。

「渡良瀬はどうして来ないんですか……?」

「お前のことが嫌いだってよ。能天気でアホだからキモいって文句言ってたなぁ」

 渡良瀬にそこまで軽蔑されていたなんて……もう、立ち直れない。

「なーんてな、佳乃もそこまで鬼じゃねえ。お前のガチへこみ、まじウケるわ~」

「てめぇ! 純粋な教え子の恋路を弄ぶんじゃねぇよ!」

「辛気臭せぇツラしてるアホな教え子を励ましてやったんだろうが! 感謝しろや!」

「給料泥棒の不良教師に感謝する要素がないだろ!」

 静まり返っていた校門前に、幼稚な男二人のアホくさい口論が響く。

 時間の無駄だとお互いに察し、ほぼ同時に反論をやめたことで神妙な空気が張り詰めた。

「……佳乃は体調を崩したんだよ。本人はここに来るつもりだったらしいが、大事を取ってオレが休ませたってわけだ。すまんな、お互いに楽しみにしてたっぽいのに」

「……それなら仕方ないです。俺が登坂先生の立場でも、渡良瀬を休ませると思います」

 ふざけたたくらみはいだせず、普段は冗談好きな目も笑っていない。

 そんな登坂の選択を納得して受け入れたが、ここでさいな疑問が生じた。

「渡良瀬の叔父なのは分かりますけど、たまに親みたいな距離感で接しますよね」

「まあ……今は親みたいなもんだからな」

 しきりにのぞかせる親のような顔。叔父であり、保護者に近い立場だというのは分かるが、渡良瀬を前にした登坂の言動には親としての責任感すらにじている。

 元を辿たどれば……友人がいない渡良瀬にヒマ人の俺を引き合わせたのも、この人なりのお節介だった。登坂はとぼけるだろうが、美術の補習を渡良瀬に面倒見させるなんて不自然極まりない提案もそういう目的があったのならうなずける。

「もしかして、渡良瀬と一緒に住んでるんですか?」

「ああ……ちょっと訳ありでな。オレが保護者として面倒見てる現状だ」

 登坂はそうささやくと、来客用駐車場のほうへ足を踏み出す。

「星空スポットに行こうとしてたってことは、どうせ親の車を借りてきたんだろ。寒いからオレのアパートまで乗せてってくれ」

「歩いて帰ってくださいよ……!」

「佳乃に会わせてやらんこともないが、どうする?」

 そのエサはきようだろ。物足りなさと会いたい欲求がまった今の俺が、無下に断れないのを見越したうえでの誘い文句なのだから。

「……わたのお見舞いに行きたいです」

「それじゃ、決まりだな」

 なぜかさかを家まで送り届ける羽目になったが、魅惑の交換条件があるため悪い気はせず、むしろ役得かもしれないと期待が膨らむ。渡良瀬の体調や気分次第にはなるけど、好きな後輩の私生活という未知の一面に触れられたら……それだけでも満足なのだ。

「うわっ、初心者マークのランクル! ダサっ!」

 うざっ! 駐車場で馬鹿笑いするクソ教師をき殺してもいい法律を制定してくれ。

 物騒な冗談を思い浮かべながら、当初の目的地とは異なる方角へ出発。

 不機嫌な曇り空の下に敷かれたアスファルトを初心者マーク付きの車で快走し、住処すみかに取り残された渡良瀬のもとへ今すぐ行こう。

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