第一章 好きなものを語ると早口になるような後輩 6
「んっ……んあぁ……」
二の腕を枕にした感触が心地悪く、睡眠に
机に突っ伏してから、どれだけの時間が
吹奏楽部の練習はもう聴こえず、代わりに紙と鉛筆が擦れる乾いた音だけが反響。自分の腕枕に突っ伏していた体勢から顔だけ起こすと、机の向かい側には人の存在感があった。
「……動かないでください」
ぼそりと
開かれたスケッチブックに視線を落とし、右手に添えられた鉛筆を全方位に
「もしかして、デッサンしてる?」
「……もしかしなくてもデッサンしてます」
とりあえず
会話が途切れるたび、鉛筆が紙を駆け回る音が耳に届き続け、気持ちが安らぐ。
「……センパイを起こそうと思ったんですけど、起こし方がよく分からなかったもので」
「起こし方? 肩を揺すったり軽く
「……わたしは慣れてないので、考えつきませんでした」
律儀に待っていてくれたのだろうか。
話の途中で寝落ちした失礼な先輩をモデルにして、ヒマ潰しのデッサンをしながら沈黙の部屋へ
「……すみませんでした」
デッサンの手を休めず、謝られる。
「……退屈で長い話に興味がなかったから、飽きてしまったんですよね。皆、最後まで聞いてくれないのは、わたしが悪いからなのでしょう」
「ごめん……」
今度は俺のほうが、謝り返す。
「……センパイが謝る必要はないです。他人との付き合い方が、わたしには分からないというだけなので」
自虐的に吐き捨てた渡良瀬は、これまで以上に孤独な一面を
「……まあ、話の最中に眠りこけた人はセンパイが初めてでしたけどね」
「渡良瀬の声が子守唄に聞こえてさ、気持ち良かったんだよ。好きなことに対してはイキイキと語っていて、心なしか表情も明るく見えて、ずっと聞いていられるくらいだった」
「……それ、馬鹿にしてます?」
「いいや、褒めてるつもり。気持ち良くて寝ちゃった俺がバカなんですねぇ」
眉をひそめて理解に苦しむ渡良瀬だが、怒っている素振りはない。
程なくして渡良瀬の手が止まり、紙と鉛筆の芯が触れ合う音も同時に消失。スケッチブックの一ページを提示し、上半身のみ寝そべっていた俺のほうへ差し出す。
その状態のまま、どちらの動きも静止した。
「……これを参考にしてほしいので、受け取ってくれないと困ります」
「……いや、お前が『動くな』って言ってたから」
ほんの僅かに首を
「……あっ」
うっかりと言わんばかりの
「忘れてた?」
「……もう動いていいですよ」
「忘れてただろ?」
俺の問いかけには目線を
許可を得た俺は折り曲げていた上半身を起こし、渡良瀬が差し出していたB3サイズの用紙を受け取った。胸元から頭部までの人間らしきものが鉛筆のモノトーンで表現されているのだが、衣服を着ていない屈強な胸板とクセの強い渦巻く髪型、生気のない白目、そもそも日本人っぽくない西洋の風格……。
いや、
だが、心の中で叫ばせてくれ。
寝ている俺がモデル…………じゃねぇ!!
「渡良瀬には、俺がこういうふうに見えてるのか……?」
「……いいえ、それは
思わず脱力してしまう。
モデル気取りだった男の背後にある棚には、石膏像が並べられているけども!
「俺が動かなかった意味は?」
「……でも、初心者がいきなり石膏像を描くのは難しいかもしれません」
「俺が動かなかった意味」
「……明日、描きやすそうな野菜や果実でも用意しましょう」
純粋な先輩を弄び、反論は澄まし顔で受け流す小悪魔後輩の図太い態度、嫌いじゃない。
「……今日は自分の絵をほとんど描けませんでしたから、センパイには一日でも早く補習を終わらせてもらわないと困りますね」
起立した渡良瀬は画材一式をリュックに詰め、苦言を交えながらそれを肩にかけた。帰り支度とも思える行動につられ、俺も帰るために立ち上がろうとすると、手で制される。
「……部活終了の時刻なので、わたしは一足先に帰らせてもらいます」
「……と、言いますと?」
「……センパイは明日の補習で使うぶんの鉛筆を削ってから帰ってください」
机の上には新品の鉛筆とカッターナイフが、手付かずのまま転がっていた。
「……お疲れさまでした。それでは……また来週」
口が半開きになり、おそらく間抜け面を
また来週ではなく、また明日の言い間違いだとは思うけど……渡良瀬なりのお
渡良瀬が退室してから完全下校時刻までは一時間ほど猶予があり、絵を描く時間に
思い返してみると、渡良瀬は絵の具や鉛筆の粉が付着した手を洗わずに帰った。自宅でもすぐに絵を描き、部活動では足りない分の時間を補うのかもしれない。
明日もまた美術室に行くはずの俺に、明日の渡良瀬は言うだろう。
ご勝手にどうぞ……と。
帰宅部の俺が美術室の戸締りをした。鉛筆を削っていたときは
渡良瀬の口ぶりは『明日も美術室に来ていい』と言っているようなもので……多少なりとも受け入れられたのかな、とポジティブに捉えられるからだ。
いつもは時間を潰すために
乾いていた日常は久しぶりの魅了に包まれ、夢中になるという感情をふつふつと
……渡良瀬に満たされていた感情が、ふいに別の対象へと
頭上に巨大な照明が
三枚の白い花びらが開く小さな花は、お辞儀するように咲いていた。
路肩の名も知らぬ花なんて普段なら無視するのに、あまり見かけない造形と一輪の
後輩を指導しに来ていた三年生の友人に遠目から名前を呼ばれ、我に返った俺は美麗な純白の花を素通りし、友人と立ち話をしているうちに関心も薄れていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます