第一章 好きなものを語ると早口になるような後輩 6

「んっ……んあぁ……」

 二の腕を枕にした感触が心地悪く、睡眠にとらわれた意識が戻ってくる。浅い眠りが人工の青白い光によって阻害され、小刻みに震えた瞼が上下に開いた。

 机に突っ伏してから、どれだけの時間がったのだろうか。眠る直前までまばゆかった夕焼けの太陽光ではなく、頭上から降り注ぐ電灯の発光が美術室を照らし出し、窓の向こうの夜闇に覆われるのを阻んでいた。日光が差し込む昼間とは真逆。教室側から光を放つ時間帯ということは、時計を確認しなくても夜だと断定できる。

 吹奏楽部の練習はもう聴こえず、代わりに紙と鉛筆が擦れる乾いた音だけが反響。自分の腕枕に突っ伏していた体勢から顔だけ起こすと、机の向かい側には人の存在感があった。

「……動かないでください」

 ぼそりとつぶやくのは、やはりわたで。

 開かれたスケッチブックに視線を落とし、右手に添えられた鉛筆を全方位にせわしなく揺らす。渡良瀬の命令によって身動きを禁じられた俺は、二の腕にほおを押し付けた居眠り体勢のまま、眼球のみを器用に動かして状況の把握に努めた。

「もしかして、デッサンしてる?」

「……もしかしなくてもデッサンしてます」

 とりあえずしやべってみたが、唇は動かしても怒られないらしい。

 会話が途切れるたび、鉛筆が紙を駆け回る音が耳に届き続け、気持ちが安らぐ。

「……センパイを起こそうと思ったんですけど、起こし方がよく分からなかったもので」

「起こし方? 肩を揺すったり軽くたたいてくれたら、たぶん起きたと思うけど」

「……わたしは慣れてないので、考えつきませんでした」

 律儀に待っていてくれたのだろうか。

 話の途中で寝落ちした失礼な先輩をモデルにして、ヒマ潰しのデッサンをしながら沈黙の部屋へとどまり……自然に目覚めるのを。

「……すみませんでした」

 デッサンの手を休めず、謝られる。

「……退屈で長い話に興味がなかったから、飽きてしまったんですよね。皆、最後まで聞いてくれないのは、わたしが悪いからなのでしょう」

「ごめん……」

 今度は俺のほうが、謝り返す。

「……センパイが謝る必要はないです。他人との付き合い方が、わたしには分からないというだけなので」

 自虐的に吐き捨てた渡良瀬は、これまで以上に孤独な一面をのぞかせてきた。

「……まあ、話の最中に眠りこけた人はセンパイが初めてでしたけどね」

「渡良瀬の声が子守唄に聞こえてさ、気持ち良かったんだよ。好きなことに対してはイキイキと語っていて、心なしか表情も明るく見えて、ずっと聞いていられるくらいだった」

「……それ、馬鹿にしてます?」

「いいや、褒めてるつもり。気持ち良くて寝ちゃった俺がバカなんですねぇ」

 眉をひそめて理解に苦しむ渡良瀬だが、怒っている素振りはない。

 程なくして渡良瀬の手が止まり、紙と鉛筆の芯が触れ合う音も同時に消失。スケッチブックの一ページを提示し、上半身のみ寝そべっていた俺のほうへ差し出す。

 その状態のまま、どちらの動きも静止した。

「……これを参考にしてほしいので、受け取ってくれないと困ります」

「……いや、お前が『動くな』って言ってたから」

 ほんの僅かに首をかしげたわただったが、

「……あっ」

 うっかりと言わんばかりの可愛かわいらしい声が漏れた。

「忘れてた?」

「……もう動いていいですよ」

「忘れてただろ?」

 俺の問いかけには目線をらされ、無表情でスルーされる。

 許可を得た俺は折り曲げていた上半身を起こし、渡良瀬が差し出していたB3サイズの用紙を受け取った。胸元から頭部までの人間らしきものが鉛筆のモノトーンで表現されているのだが、衣服を着ていない屈強な胸板とクセの強い渦巻く髪型、生気のない白目、そもそも日本人っぽくない西洋の風格……。

 いや、いよ。素人の俺でも一目で理解できる精巧な描写や陰影は圧巻を超え、ヒマ潰しの短時間で描いたとは到底思えない。しかし、渡良瀬にとっては落書きも同然。これまでに同じモチーフを何度も描きすぎたため、すでに身体からだや脳に染みついているのだろう。

 だが、心の中で叫ばせてくれ。

 寝ている俺がモデル…………じゃねぇ!!

「渡良瀬には、俺がこういうふうに見えてるのか……?」

「……いいえ、それはせつこう像です。デッサンといえばヘルメスですよ」

 思わず脱力してしまう。

 モデル気取りだった男の背後にある棚には、石膏像が並べられているけども!

「俺が動かなかった意味は?」

「……でも、初心者がいきなり石膏像を描くのは難しいかもしれません」

「俺が動かなかった意味」

「……明日、描きやすそうな野菜や果実でも用意しましょう」

 純粋な先輩を弄び、反論は澄まし顔で受け流す小悪魔後輩の図太い態度、嫌いじゃない。

「……今日は自分の絵をほとんど描けませんでしたから、センパイには一日でも早く補習を終わらせてもらわないと困りますね」

 起立した渡良瀬は画材一式をリュックに詰め、苦言を交えながらそれを肩にかけた。帰り支度とも思える行動につられ、俺も帰るために立ち上がろうとすると、手で制される。

「……部活終了の時刻なので、わたしは一足先に帰らせてもらいます」

「……と、言いますと?」

「……センパイは明日の補習で使うぶんの鉛筆を削ってから帰ってください」

 机の上には新品の鉛筆とカッターナイフが、手付かずのまま転がっていた。

「……お疲れさまでした。それでは……また来週」

 口が半開きになり、おそらく間抜け面をさらしている俺を置き去りして、わたがドアから退室していく。鬼部長がいなくなり、閑散とした夜の校舎で一人寂しく鉛筆を削るむなしい音が、しばらく響いていた。

 また来週ではなく、また明日の言い間違いだとは思うけど……渡良瀬なりのおちやな言動は、身も心も堕落してしまう心地良さがある。明日も来たい、と思わせてくれるのだ。

 渡良瀬が退室してから完全下校時刻までは一時間ほど猶予があり、絵を描く時間にこだわる性分にしては部活を早めに切り上げたのが『少しもつたいないのでは?』と感じたものの、そんなさいな疑問は今日に置き忘れていこう。窓の向こうには果てのない夜空。女子は遅くならないうちに帰ったほうが安心安全だから。

 思い返してみると、渡良瀬は絵の具や鉛筆の粉が付着した手を洗わずに帰った。自宅でもすぐに絵を描き、部活動では足りない分の時間を補うのかもしれない。

 明日もまた美術室に行くはずの俺に、明日の渡良瀬は言うだろう。

 ご勝手にどうぞ……と。


 帰宅部の俺が美術室の戸締りをした。鉛筆を削っていたときはおつくうだったが、昇降口で上履きからローファーに履き替えた帰路のあたりから気分が高揚する。

 渡良瀬の口ぶりは『明日も美術室に来ていい』と言っているようなもので……多少なりとも受け入れられたのかな、とポジティブに捉えられるからだ。

 いつもは時間を潰すために彷徨さまよっていた足取りが、今日はやけに軽い。明日もやるべきことがあって、会うべき後輩の女の子もいて、そいつの絵も特等席で堪能できる。

 乾いていた日常は久しぶりの魅了に包まれ、夢中になるという感情をふつふつとよみがえらせた。高校三年の二月。もう、青春と呼べる時期は終わろうとしているのに。

 ……渡良瀬に満たされていた感情が、ふいに別の対象へとさらわれた。

 頭上に巨大な照明がともり、運動部の後輩どもが練習後のクールダウンをこなすグラウンド付近の枯れ草にまぎれた一輪の花に目を奪われ……思わず静止させられてしまう。

 三枚の白い花びらが開く小さな花は、お辞儀するように咲いていた。

 路肩の名も知らぬ花なんて普段なら無視するのに、あまり見かけない造形と一輪のはかなさも相まってか、寒空の下に棒立ちのまま見入ってしまい、靴底が地面に縛られる。

 後輩を指導しに来ていた三年生の友人に遠目から名前を呼ばれ、我に返った俺は美麗な純白の花を素通りし、友人と立ち話をしているうちに関心も薄れていた。

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