第一章 好きなものを語ると早口になるような後輩 5
いまいち意図を察せず、棒立ち状態の俺に対して、顔だけ振り返った渡良瀬が足元に視線を落としながら、言う。
「……わたしは絵に集中すると周りが見えません。わたしの鉛筆や紙を勝手に使用されようと、たぶん気付かないです」
淡々とした口調ながら、
「俺ってそんなに非常識に見えるか……? さすがに他人の道具を勝手に使わないし、絶対に触らないから安心してくれ」
「……むっ」
あれ、心なしか不機嫌になったような?
俺の苦笑がアホみたいで気に食わなかったのかもしれない……。
「部長として粋な心遣いをしたつもりでしたが、不慣れなもので不発に終わったようです」
「……と、言いますと?」
「……わたしの道具を自由に使っても良い、と伝えたつもりだったんですが」
「使って良いなんて言ってないじゃん!」
「……遠回しに格好つけようとしたわたしが悪かったです。忘れてください」
眉間に手を当てがった
表情をあまり変えない不愛想な堅物に見えたけど、厳格な態度や仕草の節々にはテンションの上昇も
「……失礼なことを考えてますよね」
すぐに不機嫌そうな語気になったけど。
「俺の考えていることが読めるの?」
「……なんとなく。浅はかな思考がだらしない顔にすぐ現れるので」
渡良瀬とは正反対で、喜怒哀楽が顔に出やすいんだろうなぁ。感情いっぱい人間なのだ。
「……留年の言い訳にされるのは
「意外と留年もありなのでは? もう一年くらい美術部を見学できるじゃん」
「……そうなってほしくないので補習をしてもらわないと困るんです。卒業してください」
いつの間にか攻守が逆転し、渡良瀬が補習の背中を押してくる構図になった!
「まあ、留年して年下のクラスにぶち込まれるのは嫌だしな……。とりあえず真面目にやるから、鉛筆削りを貸してもらえるとありがたい」
「……カッターナイフが机の上にありますので、ご自由にどうぞ」
「いや、自動の鉛筆削りを……」
「……自動の鉛筆削り? センパイは何を言っているんですか?」
渡良瀬のスイッチが切り替わった……そんな気がした。
「……いいですか、センパイ」
増大した威圧感を漂わせながら、渡良瀬は一歩ずつ歩み寄ってくる。
「……デッサンの鉛筆はカッターで削るのが原則です。鉛筆削りなんてナンセンスですよ」
「へぇ~、そうなの? ずっとシャープペンを使ってきたからなぁ~」
「……部長が真面目な話をしているときにニヤニヤしないでください」
「す、すみません!」
どうして、俺は謝っているのだろう?
非常に情けない話だが、初対面の後輩に説教をされているからである。
「……やはり、デッサンをする以前の問題でしたね。まずは鉛筆を手作業で削るところから教えなければいけないようです」
「とはいっても、鉛筆を一本だけ削ればいいんだろ?」
「……四本、すべてです」
「一本しか使わないのに!?」
「……四本使うに決まってるじゃないですか。硬さが異なる四種類の鉛筆を使い分けることで、濃淡の違いを繊細に演出していきます」
最初は四本とも同種の
二人の間に滞留する温度差に戸惑っている帰宅部へ、美術部の部長が言葉を
「……
「……熱意が感じられないものを、わたしが合格にするわけがないので」
自分が描く絵はもちろんのこと、他人に教える絵にも全力を注ぐ。愚直な後輩という表現が
俺が邪魔であるなら、やる気のない下手くそな絵でも合格を出してしまえばいい。
数十分ほど美術室の一角を貸し、補習を勝手にやらせて、横目で最終確認すれば邪魔者は消えるのに……渡良瀬の選択肢には存在しないのだ。
何もやらないで立ち去るか、補習とはいえ全力で取り組んでみるか。渡良瀬が純粋な瞳で訴えかけるのは、その二つの選択肢。
「ここに来たきっかけは補習だったけど、美術部を見学してみたいのは本当なんだよ」
「……それはヒマ潰しとして、ですか?」
渡良瀬の問いかけに、
「いや──」
俺は
「羨ましいんだ……好きなものに没頭したり夢中になれる愚直な渡良瀬が」
久しぶりだった。何もかもをヒマ潰しとして割り切り、インスタント食品みたいに安価で手頃な楽しさがマンネリ化していた退屈な人生において、時間を忘れるくらい没頭し、一つの光景から視線を
この感覚は数年ぶりで、たぶん二回目。
空白だった自分の器が満たされ、渡良瀬によって隙間なく埋められていく。
「無事に卒業もしてみせるし、
いつも緩んでいる顔を珍しく真顔に切り替え、望み薄ながらも頼んでみる。正直、補習なんかどうでも良くなっていて、美術室に来たいがための口実になりつつあった。
「……わたしは、センパイのほうが羨ましいです」
「えっ……?」
「……それでは、鉛筆を削りましょう。削りカスが散らばると掃除が大変ですから、ティッシュの上で削ってくださいね」
ほとんど視線を合わせてはくれなかったけど、机の上にティッシュを敷いてくれる渡良瀬。偏屈な頑固者かもしれないが、さりげない気配りは忘れず、なんだかんだで邪魔者に付き合ってくれる面倒見が良い後輩に
制服の上着を脱いだ俺はワイシャツの袖を
「まず、鉛筆のメーカーごとの特徴を説明しないといけません」
すぐには削らせてくれないらしく、鉛筆へ視線を向けるようジェスチャーで促されてしまう。まずい。話が長くなりそうな気配がする。
「……露骨に嫌そうな顔してませんか?」
この部長、やけに勘が鋭い。というより、俺の顔が正直すぎる。
「そんなことはないです! 部長のお話をもっと聞きたいです!」
「……わたしの鉛筆ベスト4はハイユニ、マルス・ルモグラフ、スタビロ・マイクロ8000番、カステル9000番です。普段はハイユニを愛用していますが、書き味のしなやかさと滑らかさが気に入っていて、海外メーカーに比べると木部も削りやすく──」
機嫌を直してくれたのか、ハイユニを片手に持った渡良瀬は
渡良瀬からの一方通行な話は様々な方向へ脱線。絵に関係する座学はいまいち共感しづらかったものの、ずっと聞き役に徹していても苦痛ではない。専門知識の学が足りなくても、得意げに語る渡良瀬を眺めているのが嫌いじゃないんだ。
ぼんやりと夕暮れに色づく美術室は眠気を誘い、渡良瀬の透き通った声音が子守唄となって……前傾姿勢となった俺の意識は次第に遠ざかっていく。視界に映るオレンジの情景が
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