第一章 好きなものを語ると早口になるような後輩 7

じゆんぁ、今日はどこをほっつき歩いてたのぉ?」

 帰り慣れた自分の家。薄暗い玄関側ではなく、街灯が一定の間隔に並ぶ商店街の路地裏に面した店舗のドアから帰宅するや否や、気の抜けそうな軽い声で気安く話しかけられる。

 シンプルなワイシャツは清潔感にあふれ、紺色のエプロンを掛ける立ち姿がカフェ店員のかんろくを一目で示す。普通の民家であれば違和感を覚える服装だが、深くんでいるのは一階部分が喫茶店になっているから。

 はなびし珈琲コーヒー。単純な店名である。八年前まで暮らしていた実家だが父親の転勤により一時的に離れ、高校入学を機に母親と戻ってきた。元々経営していた母さんの親が高齢のために近所へ隠居し店を畳むつもりだったらしいけど、常連の惜しむ声をんだ母さんが二年前に引き継いだのである。父親だけは仕事の関係でやむを得ず単身赴任として別居しているというのが、俺や母さんの事情を考慮してくれた現在の形だ。

 こぢんまりな面積に押し込められたカウンター席が五席ほど並び、窓際には四人用のテーブル席が三卓。外から見た印象よりも、さらに狭い。

 母方の祖父が収集していたレコードや洋楽CDが壁一面に収納され、週刊少年誌や文庫本の領域もある趣味丸出しの空間は個人経営ならではの隠れ家的な内装になっており、創業時から使い続ける木製の椅子やテーブルの経年劣化も昭和の匂いを醸す。

 店内にひっそりと流れる原子心母Atom Heart Mother。全く世代じゃない俺でも鼓膜によどみなく浸透する花菱珈琲のヘビロテBGMは、隙あらばリピート再生される。

 壁に飾られた牛のLPジャケットが見守るカウンター席に堂々と腰掛け、営業時間内にもかかわらずコーヒーブレイクをたしなみ、俺の帰りを出迎えてくれたのがウチの母さんだ。

「いつもよりは帰りが早いだろ? 今日は寄り道してないんだよ」

「ホントだねぇ。七時過ぎに帰ってくるなんて珍しいなぁ」

 いつものだるそうな表情ながら、一応は驚いてくれているらしい。

 午後七時に帰ってきても驚かれるほど、高校入学以降の息子はだらだらと遊んで放課後の大半を怠惰に潰していたのだ。本当にやりたいことが、何もなかったから。

 食欲をそそる濃厚な匂いが換気扇をくぐけ、冷たい夜風にさらわれて店舗周辺に飛散していたため、入口を潜る前にはもう唾液が口内を溺れさせていた。

 母さんに夕飯を食べるかどうかを尋ねられ、空腹の俺は食い気味にうなずく。平日の閉店間際はお客さんが一人もいないことも多く、れいに磨かれた木製テーブルはメニューと紙ナプキンが悠々とくつろぐ休憩スペースと化していた。

 閉店は夜七時半。すでにラストオーダーは終わっているため、夕飯のまかないを食したりひと休みする母さんがいる。いつも通りの店内だ。カウンター席に引き寄せられた俺が着席したのを合図にカウンター奥の手狭なキッチンスペースからもう一人、母さんとおそろいのエプロンを着用した女性が閉店作業の手を休め、こちらへ近づく。

「久しぶりに〝すみライス〟が食べたいです」

 カウンター越しに相対した俺と女性。身内と常連のみが知る裏メニュー〝伊澄ライス〟を頼んでみると、女性は「──はい」という淡白な言葉を返し、キッチンへ戻った……と思いきや、コップにいだ冷たい水を提供してくれた。店長の息子なので客ではないけど、パート従業員のすみさんは接客のような対応が癖づいているのだ。

 年齢は二十六歳。容姿は端麗で大人びており、細身ながら身長はすらりと高い。しなやかで長い髪だが、飲食店で働きやすいように襟首のあたりで華麗にまとめている。

「閉店作業中にすみません」

「──いえ、大丈夫です。すぐに作ります」

 表情を一切変えることなく、抑揚がない台詞せりふささやいた伊澄さんはキッチンへ戻り、冷蔵庫の材料を物色し始めた。やがて聞こえてくるのは、具材をいためる音。バターを溶かしたフライパンの舞台で牛肉や玉ねぎでも踊らせれば、空腹の高校生がもだえする甘美な香りに様変わりしていく。そう、これだよ。音と匂いを浴びて待つのもひそかな幸せだ。

「たまにはお家で食べる夕飯も良いでしょ~?」

 隣に居座る母さんが口元を緩ませながら、こつこつと肘でつついてくる。

「母さんも閉店作業を手伝いなさい。伊澄さんに頼りっきりじゃん」

「ぐあぁ! こ、腰が悲鳴をあげておるぅ~っ! 安静にせねば……」

 うめごえ混じりでわめく母さんだが、おおなウソなのがバレバレなんだよなぁ。

「──私は問題ありません。ホールの接客やコーヒー豆の仕入れ、事務作業などは店長が担当しているので、料理やお掃除くらいは私がやります」

「伊澄ちゃんは働きもんやなぁ……店長は感動した! 昇給! 時給百円アップ!」

「──店長よりも私のほうがはるかに若いので、そのぶん仕事もしないといけません」

「あん? 若いのも今のうちだけやぞ? 客に口説かれた数、教えたろか? ん?」

 フライパンを振る伊澄さんのフォローに喜んだりキレたり忙しい店長だが、恥ずかしいからエセ関西弁はやめなさい。あと、客に口説かれた数なら伊澄さんも負けてねぇよ。

じゆん、なにか良いことでもあったぁ?」

「どして?」

「ワタシにはお見通しだぞぉ。いつもよりうれしそうな顔してるからさぁ」

 母さんは声色に陽気を含ませ、悪戯いたずら微笑ほほえみながら俺の視界に入り込んでくる。

 めちゃくちゃ邪魔くさ……ウザさの極みに達したお調子者め。

 素直な性格というのも困りもので、喜怒哀楽を容易に見抜かれてしまうことも多い。

 誰かと遊んだわけでもないのに、充実に満ちた感覚の残骸がまだ残っており、中身が詰まった一日だった……と誇ったまま、上機嫌の明日を迎えられそうだ。

うまそうな匂いでテンションが上がってるだけだよ」

 親に話すのは照れ臭いから、頭の悪そうな返答でお茶を濁す。

「ん~? 女の子かなぁ? ん~?」

「伊澄さんの料理まだかな……」

「女の子か! 女の子だな! 女の子の話題かな~っ!」

 いや~、やまかしい母親だ。遺伝子を継いでいると思いたくないぜ。

 息子の色恋沙汰を妄想しては勝手に盛り上がる母親がとんでもなくウザいし、肘での小突きが止まらねぇ。客がいないのににぎやかすぎる店内なのはさておき、ジャンクフードや安価な牛丼チェーンの味に染まり切った舌でも、特製のすみライスが無性に恋しくなる。

「──どうぞ」

 静かに一言だけを添えて、伊澄さんがカウンターに皿を置く。

 野菜や果物の果肉が溶け込んだ特濃デミグラスソース。ほうじゆんな風味が白米に添えられ、シェリー酒でフランベされた牛肉と玉ねぎの香りが湯気と入り混じり、過度に分泌される生唾をごくりと飲み込まざるを得ない。

 カレーよりも黒々として深みがかったソース……これは、伊澄さん流のハヤシライスだ。

 きらびやかなソースが絡んだ白米をスプーンですくい、食欲が渦巻く口内へ運ぶ。ほのかな酸味と甘さが団結した焦げ茶色の米がほろほろとほどけ、あまみした牛肉からこぼれるうまと肉汁が貧乏な舌を壮絶に歓喜させた。たまらない。米を拾うスプーンの昇降を止められない。

「伊澄さん、めちゃくちゃしいです……いや、マジで」

 完食の直後に率直な感想を伝えると、伊澄さんは眉一つ震わせる素振りも見せず、

「──ありがとうございます」

 そっけなく、冷ややかな声音と共に会釈するのだ。

「あ~っ! ついにがきたのねぇ~」

 閉店作業中は店のテレビが垂れ流されているのだが、民放のとあるニュース特集に反応した母さんが好奇を凝縮させた声をあげると、声につられた俺と伊澄さんもテレビ画面を注視してしまう。

 スノードロップすいせい。大抵の人は聞き慣れた通称がテロップに表示され、アナウンサーや専門家がフリップとCG映像を交えながら解説していた。

 うるうどしの二月に観測できるらしい流れ星だが、なぜか写真や動画には映らないらしく、肉眼で遭遇できる人も世界中でまれという不可思議な現象。

 前回、彗星が流れたとされるのは四年前で、俺は中学生の頃だったが……星が見えたかどうかは自己申告でしか証明できないため、大抵は自称扱いで信じてもらえず、仲間内やSNSで気を引くための虚偽申告も横行していた気がする。しんぴようせいがない都市伝説の類に過ぎないのに、四年の周期を迎えると人間の視線を夜空に集める理由はただ一つ。

 彗星に託した願いがかなう……どもだましの迷信がささやかれているからだ。

 第一志望の学校に合格、恋愛の成就、宝くじの高額当選、難病の治癒など、例として紹介されている体験談や再現VTRはさんくささの極みとしか思えない。

 少なくとも真っ当な感性の俺には、雑誌の片隅に載っている開運グッズ以下の事柄だ。

 迷信なんてどうでもいいけど、胡散臭い彗星の名前を聞くと……小学生の頃を思い出す。

「母さんはねぇ、彗星を見たら大金持ちになりたいって願うかなぁ。働きたくねえェ~」

「いいから閉店作業やれよ。いつも真面目な伊澄さんを見習え」

じゆんノリわるっ! 四年に一度のお祭りなのに~! やればいいんでしょやればぁ!」

 仕事の効率を下げるテレビを消すと、ほおを膨らませた母さんが店内の掃除をのろのろと始めた。すみさんは黙々と作業を……やっていたはずだが、真っ黒に塗り替えられたテレビ画面をぼうぜんと見詰め、蛇口の水を流し続けたまま皿を洗う手が止まっている。

「伊澄さん……大丈夫ですか? 母さんのせいでお疲れでしょうから休んでください」

「伊澄ちゃんには甘いな! 息子よ、母親にこそ優しくしなさい!」

 ぶーぶーと不満を叫ぶ愉快な母親は放置し、伊澄さんを気に掛けた。

「──いえ、大丈夫です。お気遣いなく」

 声をかけられた伊澄さんは平常に戻り、皿洗いを再開させる。


 正直、伊澄さんのことはよく知らない。母さんがこの店を引き継いだときに人手不足解消のために雇い、いつの間にか言葉を交わす機会が増えた間柄でしかない。

 それでも、伊澄さんの作るハヤシライスは様々な表情を見せてくれて、こんなにも温かいのに、彼女の表情はずっと──時間が止まったかのように凍り付いたままだった。

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