第5話 考えなくてもいい事

翌日、放課後。

僕とキリは予定通り駅の近くにあるファミレスに足を運んでいた。ドリンクバーで各々好きなジュースをコップに注いでから、勉強を始める。僕の正面に座って参考書と戦うキリの姿は、真っ当な高校生の姿だった。

けれどそこに紅里の姿はない。昨日、あの後に紅里と連絡先を交換した。メールを開くと、宛先に『九重紅里』と書かれたメールが一通。要件は先にファミレスへ行っていて欲しいというものだった。

彼女なりに何か考えているのだろうと、僕はキリと二人で先にファミレスで席をとる。

二人で勉強をしてから約三十分。ローファーの硬い足音がこちらに近付いてきた。机との睨み合いから顔を上げ、後ろを見てみると見覚えのある黒髪がゆらゆらと揺れていた。

「おやおや、一紗先輩ではありませんか。奇遇ですね。テスト勉強ですか? 」

見え透いた嘘を軽々と口にしながら、僕の前で足を止める。

成程、そういう意図か。

僕は紅里の口ぶりに合わせ、にっこりと作り笑いをする。

「本当に奇遇だね、紅里。どうだろう、君も一緒に勉強するかい? 」

「・・・・・・ええ、ご一緒しても宜しいなら。」

僕と紅里の間に変な空気が流れる中、キリはその光景をじっと見ていた。

手に持ったシャープペンシルのノック部分を顎に押し当て、紅里の姿を何も言わずに眺める。紅里もそんなキリの視線に気付いてか、深々と頭を下げた。

「すみません、挨拶もせずに。私は九重紅里と言います。一紗先輩にはいつも可愛がって貰っています。よろしくお願いします。」

敬意の篭った態度に、キリもにこやかに笑う。

キリは性格が良く、優しい子だからどんな人間とも仲良くなれてしまう。

「そうなんだー! 私は霧崎美乃。よろしくね、紅里ちゃん! 」

先輩らしく少し紅里をリードしながら、キリは自分の本名を名乗った。『キリ』というあだ名は僕と彼女が恋人になる前につけられたものだ。

キリはどうやら美乃という名前があまり好きではないらしい。本人曰く、『私には可愛すぎる名前』という事だ。

紅里はキリの本名を聞いてから僕に視線を向ける。何も言わずに『キリというのが本名では無い事を何故言わなかったのか』という圧を、僕にかけてくる。

僕はその圧に耐えきれなくなり、机の上の問題に目を向けた。

「あの、美乃先輩。もし宜しければ、私も一緒に勉強してもいいですか? 」

気持ちの悪い薄ら笑みを作って、紅里はキリの隣に座ろうとする。

「うん、一緒にやろうか。あ、それから私の事はキリで大丈夫だよ。」

キリは少し窓側に寄り、ぽんぽんと椅子を叩く。「ではキリ先輩で。」そう言いつつ、紅里はキリの隣に腰を下ろした。

スクールバッグを空け、中から筆記用具を取り出す。キリは、紅里のペンケースを見て、「それ可愛いね」と話題を広げていった。

女子二人で楽しそうに会話をする。言い出しっぺである筈の僕は蚊帳の外状態だった。

僕がいる意味はあるのだろうか、と内心複雑な心のまま、三人での勉強会がスタートする。


それぞれが問題に取り組み始めると、和気あいあいとした雰囲気はすぐに無くなった。紅里もキリも、凄まじい集中力でペンを走らせる。僕はそんな二人を前にして、関心していた。二人の真剣な顔に、僕の中にある集中力も掻き立てられ、いつも以上に問題と睨み合う。

時折トイレやら、ドリンクバーやらに行きながら、早二時間が経過していた。

紅里はシャープペンシルを机に置いて、ふう、と一息つく。手元にあるスマートフォンの画面を見て時間を確認すると、おもむろに席を立った。

「あ、私この後用事が入っているんでした。すみません、先輩方。私はこの辺でお暇させていただきます。」

僕は直感的にそれが嘘だと悟った。けれどそれを嘘だと指摘するのも性格が悪いので、それに乗っかる事にする。

僕はキリの方を見て、「僕達はどうする? 」と聞いた。キリは少し口を尖らせて悩んでから、ニコリと笑う。

「もう少し勉強する。」

僕はキリにつられて笑いながら、「じゃあ紅里の事近くまで送って来るね」と席を立った。

紅里は手際よく机に散乱したノート類をまとめて、カバンに仕舞う。お嬢様のようにスクールバッグを両手で上品に持ちながら、キリにお辞儀をした。

「それではキリ先輩。さようなら。」

キリは目を細めて、手をヒラヒラと振る。

「うん、じゃあね紅里ちゃん。」

空になったコップを残し、僕と紅里はファミレスの外へと出た。


外は少し茜色づいていて、涼しい風が紅里の髪を動かした。

会話の無い僕と紅里の間には、静寂だけが残る。そんな静寂を破ったのは、紅里からだった。何かを思い出したかのように「一紗先輩」と僕の名前を呼ぶ。

身長差があって、少しうつむき加減に紅里を見ると、彼女は僕と目線を合わせなかった。長いまつ毛が、彼女の瞳に影を作る。


「先輩は、キリ先輩と別れる気はないんですか? 」


唐突過ぎる発言に、僕は足を止める。冗談なのかと、紅里を見る。僕の少し先で同じように足を止めた紅里は、くるりと後ろを向いた。

紅里は普段と変わらない笑顔のままだったけれど、瞳は凄く真剣だった。

なんて答えたらいいのか分からずに沈黙し続けていると、「ああ、すみません」と紅里は言ってきた。


「質問の仕方が悪かったですね。いえ、別に一紗先輩とキリ先輩に別れて欲しいという訳ではないんです。ただ、今の御二方を見ていると、恋人という関係には見えないんですよね。」


最後の言葉に、僕は何も言い返す事が出来なかった。

僕自身、九重紅里という存在に出会ってから薄々気付いていた。キリという一人の人間を異性として見られていない、と。恋人のままで居続けるというのはただの・・・・・・


「問題の先延ばし。をしているようにしか見えないんですよ。今の御二方の関係は。」


言われるよりも前から分かっていた。けれどそれを、紅里はこうして口にする。僕は自分の恋人を守る為に、何かを弁明しなくてはいけないと思った。でも、自分の口から発するべき言葉が見つからない。

「一紗先輩が、現状維持を選択するのであれば、私は今後、先輩に会うのは遠慮した方が良さそうですね。」

全身が茜色に染まる。冷たい風が、僕の皮膚に当たって少し痛い。


「まあ、私が言うことでも無いとは思いますが、御二人の歯車が壊れてしまう前にご決断成された方がいいとは思いますよ。」


紅里が言った言葉で、僕の頭は真っ白になりかける。

彼女の言っていることの半分も理解出来ないまま、僕は彼女の背中を見ることしか出来ない。


もし、その『決断』をしてしまったら、僕と紅里の関係も変わってしまうのだろうか。

彼女が言った様に、もう会う事が出来なくなるかもしれない。

心の中の自分が『嫌だ』と言った。

僕は紅里ともっと一緒に居たい。それが紛れもなく僕の本心だった。


「・・・・・・べ、別に恋人と後輩を平等に見てるだけだ。だから会う回数だって、平等にあるべきだろ。」


それは虚勢、のようなものだった。本心は決して見せず、けれども強気で紅里を止める。

紅里は僕の言葉を聞いて、少し嫌味たらしく笑った。

吹き抜ける風は潮の匂いがして、今はそれが僕の心を落ち着かせる。


「平等、ですか・・・・・・。一紗先輩。何故人は平等を求めるのでしょうか。」


彼女の笑顔は少し寂しそうで、僕は見とれてしまった。

紅里は、まるで独り言のように淡々と話す。


「皆等しく、なんてよく言いますが、この世界に等しいものなんて何一つないのに。

もし、本当にこの世界が平等なのだとすれば、私は自分の生まれる親、時、性格。全てを自分で選べると思うんです。けれど実際は違う。親や、教育環境によって人間の性格は決まります。生まれる時代によって、日常の在り方は違います。環境は自分で選ぶことの出来ないもの。だから人間は多くの挫折、絶望の中で生きなくてはならないんです。

この世のものは全て不条理かつ不平等。それを見て見ぬふりをする人間は、あるはずも無い平等を探し求めているんです。全く、滑稽で哀れな話ですよね。」


長々と、九重紅里は『平等』という単語について語った。それを何と呼べばいいのか迷っていると、頭の中にある日の情景が浮かぶ。その時、紅里はこういっていた。


「——それは『紅里の人間観』か? 」


紅里は僕に背を向け、歩き出す。僕も一歩遅れて紅里のあとをついて行った。

紅里の表情は、僕には見ることが出来ない。そもそも九重紅里という人間が考えている事なんて、僕には到底想像もつかないけれど。


「一紗先輩。次に会う時までに考えてみてください。先輩が平等を追い求める理由を。私の考えが、『九重紅里の人間観』ならば、今度は先輩の『立龍一紗の人間観』をお聞かせください。」


紅里は空を仰いだ。薄暗い空には、小さな星々が輝きを魅せる。

ファミレスから出て十分もしない場所で、紅里は再び僕の方を見た。

「この辺で大丈夫です。お見送り、ありがとうございました。それでは一紗先輩。さようなら。」

深々とお辞儀をした紅里は、僕を置いて歩き出した。

潮風が僕と紅里を引き離していくような気がして、それまで気持ち良いと思っていた風を、僕は一瞬だけ嫌ってしまう。


僕はキリが残るファミレスへと、元来た道を歩み始める。一人の道で、僕は紅里との話を思い出していた。

立龍一紗の人間観——。

普通なら考えもしない事だけれど、紅里といると色々な事を考えてしまう。

自分の中にある考えをまとめようとしていると、ふと気付く。

——そういえば、最初の話と論点がズレているような。

最初の会話から、僕は紅里の魅力的な罠にハマっていたのだ。




そして九重紅里との、ある種約束ともとれる『それ』を考えながら、二学期中間考査が幕を開けた。

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