第4話 物語は動かない

九重紅里と出会ってから早数週間が経ち、僕達の高校は少し焦り始めていた。

先生を含めた学校の誰しもが心待ちにしている文化祭の前に、乗り越えなければならない壁がもうすぐそこまで近づいていたのだ。


放課後の教室。二つの机をくっつけて、面積が広くなったそこには、教科書と筆記用具が散乱していた。

男物のシンプルなシャープペンシルと、女物の可愛らしいペン。

未だに暑さが残り汗が滲んで肌がベタつく中、僕の目の前にいる人影は、ばたりとひんやりする机に頬をくっつける。

「ああー、中間テスト嫌だあー。」

長い髪が教科書の文字を隠して、僕の集中を邪魔した。

右手に持っていたシャープペンシルをノートの上に置いてから、同じ手でキリの頭を撫でる。

「まあ、あと少しだから頑張ろうよ。」

そんな励ましの言葉をキリに贈りながら、僕の脳内はテストまでの日付を追っていた。中間テストまで残り二日。

生徒達が様々な場所で勉強する中、僕達もこうしてクラスに残って勉学に励む。

キリは僕の右手を取ってから顔を上げた。キリの髪の感触がじんわりと掌に残る。

ぷくっと膨れた頬は少しだけ熱さを残していた。

「だって集中できないんだもん。どこか違う所で勉強したあーい。」

彼女は遠回しに『一紗の家に行きたい』と言っているのだろう。それを悟りながら、僕はそれに気づかないフリをした。

「じゃあ明日はファミレスでも行こうか。」

キリの手を握りながら優しい声で彼女を誘う。キリは少し不服そうな顔を見せたが、すぐにいつもの明るい笑顔に戻る。

「うん、賛成! 」

キリは僕に気を使ってくれている。だから本当に望む事は決して口には出さないし、僕にだってあまり我儘を言ってこない。そんな彼女を見習って、僕もキリには強く何かを言った事はない。お互いに我慢をしながら恋人という関係が続いている。それが果たして本当に良い事なのか、僕は分からないでいた。

けれどそれが彼女と別れる理由にはならないし、僕が今まで誰かに恋心を抱いた事はない。約一年も僕がキリの隣にいられたのは、多分そういう事だ。恋愛感情がないから、何も不満に思わなかった。

つくづく僕は薄情な人間だと思う。


「もうこんな時間かあ。駅行かなくちゃ。」

ガタッという音を鳴らしながら、重い腰を上げてバックを開ける。キリは自分の持ち物をテキパキとバックに詰め込んだ。

彼女の要望で買った、おそろいの缶バッジが西日で赤く輝く。

バックを背負って、机を元の形に戻してからキリは足をドアに向けた。

「じゃあね、一紗。また明日。」

そう言って彼女が消えた教室には僕だけが取り残された。

まるで時が止まった空間に自分一人が置き去りにされたような感覚が、僕を襲う。肌で感じる空気は、心做しかさっきよりも冷たく感じた。

だんだんと太陽が沈み始め、辺りが暗闇に覆われ始めようとする時、見計らったかのように声が聞こえてくる。胡散臭い敬語に僕は未だ慣れず、少しむず痒くなった。


「おやおや、一紗先輩じゃないですか。お久しぶりですね、二週間ぶり・・・・・・くらいですか。」

敬語というのは、人を敬うためのものだと言うのに、何故だか彼女からは一つも敬意が見られない。けれど、それが別に嫌ではない自分がいる。

教室と廊下を繋ぐドアからひょっこりと顔を覗かせ、僕の様子を伺った。

「——紅里。」

彼女の名前を呼ぶと、乾いた目を細めて教室に足を踏み入れる。

一応後輩なのに、そんな簡単に上級生の教室に入ってもいいのか、と聞いてみたくなったがそんな事を言っても『一紗先輩は先輩ですが、他の上級生は私の中で他人なんですよ。だから先輩が了承して頂けるのであれば、問題ありません。』だのと屁理屈を言ってのけるのだろう。

なら、別の話題を彼女にあげるべきだ。


「なあ、明日の放課後って空いてるか? 」

「・・・・・・明日、ですか? 随分と急に聞いてきますね。ええ。明日は生憎何も用事が入ってません。」

良かった、と少し肩を撫で下ろした。もしも用事があったなら、この先の話題は見当たらなくなる。僕の顔を横から覗き込んで、「何故ですか? 」と見透かした笑みを向けてくる。彼女の表情に、僕は口が滑ってしまった。

「明日、キリとファミレスに行こうって話になったんだよ。」

しまった、と言った後で気付く。これではまるで僕が明日、紅里も一緒に来て欲しいと言っているようではないか。紅里と目が合うと、彼女は何かを企むかのように口角を上げた。

僕から少し離れたところでクルクルと体を回す。スカートがそれに合わせて揺れて、花のように円を描く。

「成程。けれど話に出てくる『キリ』先輩というのは、一紗先輩の彼女さんではないのですか? 勿論、一紗先輩がどうしてもと頼むのでしたら、明日ファミレスに同伴するのもやぶさかではありませんが。」

バレリーナのような回りから、急に僕の正面で体を止める。一歩遅れてスカートの花も散っていった。

彼女の透き通る肌が茜色に染まる。僕は紅里の肌を闇が覆うまで、彼女の質問の答えを出せなかった。

俯きながら、答えを探す。確かに紅里が言う通り、キリとの時間を大切にするべきなのだろう。けれど、どうしてだか僕は九重紅里と一緒にいたいとも思ってしまう。

キリといる時にはいつも『建前』を探していた。それがないと、僕はキリと一緒に居てはいけない気がして。

けれど、紅里は違う。建前なんて関係なく、そう、本能的に一緒に居たいと願ってしまうのだ。

紅里は僕がその答えを出すまで、ただじっと待っていてくれた。そのおかげで僕はやっと答えに辿り着く。もしかしたらそれは、最初から分かりきっていた事なのかもしれない。

僕はすっと、息を吸い込んだ。乾いた喉を通って心臓へと届くように、たっぷりと。


「僕は、九重紅里と居たい。」


その返答に、「仕方ありませんねえ。」と僕の目の前まで紅里が近付く。僕の頬に彼女の冷たい指先が触れた。ヒートした脳を彼女の手が包み込んでくれるようで、気持ちいいと感じてしまう。

そして紅里はいつもの笑顔で僕に笑った。冷たく、謎めいた笑顔で。


「それが先輩の望みなら、私はいくらでも従いますよ。」


——後になって思う。こんな些細な選択でも、別の道を選んでいたら結末は変わったのだろうか、と。この時の選択は確実に、僕とそして九重紅里の未来を大きく捻じ曲げてしまう事になる。

それに九重紅里は果たして気付いていたのか。そんな事を彼女に問いかけたら、きっとこう返すだろう。

「さあ、どちらでしょうね。私は、一紗先輩が望む方を信じればいいと思いますよ。」

肯定せず、否定せず。

——謎めいた九重紅里との物語を、僕は未だに動き出せないでいる。

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