第3話 願っても叶わない事は

教室に戻った僕を待っていたのは、恋人のキリだった。

僕の前の席に座って、後ろ向きでスマートフォンをいじる。

僕はそんなキリの元へと足を動かすと、彼女はそれに気付いた。

「あ、一紗! 用事終わったの? 」

ヒラヒラと手を振りながらにこやかに言う。僕も何となく手を振り返してから、自分の席に座った。

「まあね。少し後輩と喋っててさ。遅くなった。」

嘘ではない。けれどそれが全てでもない。僕の中で九重紅里との関係は『後輩』だけで終わらせたくなかった。

そんな事を考えていると、不意に『浮気』というワードが頭に浮かぶ。紅里への感情をキリに話したら、浮気だと言われないだろうか。

もしもそうなのだとしたら、紅里が言った通り僕は『最低野郎』なのだろう。


「ほら、席につけー。」


ガラガラと音を立ててドアが開く。半袖のワイシャツを着た担任がだるそうな顔で教卓に立った。

それに合わせて、何人ものクラスメイト達が自分の席へと向かう。

僕の前にいたキリも「じゃあね」と、僕の前から消えた。

静まり返った教室で担任の声が響く。そこから始まったのは、新学期恒例の課題回収だった。





久しぶりの学校生活はいつの間にか終わりを告げ、僕は帰り支度を始めていた。キリに「一緒に帰ろう」と誘われたが、僕は何となくそれを断った。

別に確信はない。確証もない。けれど何故だかもう少し経って昇降口に行けば、彼女に会える気がする。

それを本能と、人は呼ぶのだろうか。僕はそんな己の本能に従って、キリが帰った数分後に教室を後にする。今どきの高校生らしい黒のバックを右肩にかけて、僕は階段を降りた。

僕の足音だけが響いて、静寂を邪魔する。階段の壁に貼ってあるポスターには進路関係のものが多かった。その中で一番目についたのは、『江凛祭』の文字がでかでかと書かれたポスターだった。

もうそんな時期か、と時の流れを早く感じる。


江凛祭というのは、文化祭の事だ。

僕の通う高校は私立なので、大抵の出し物は何でもできる。

漫画の世界でしか無いようなメイド喫茶、コスプレなど様々な事が許されている。そういう所は私立の特権だと思った。

今年は何をするのだろうか。去年は外でフランクフルトを売っていた。閉会式で行われる『売上ランキング』に僕のクラスは書かれなかったけれど、それなりに思い出に残る文化祭だった。

去年を懐かしく思いながら階段を降りると、その先には人影が見える。まだ夏のように暑いのにブレザー姿の女子高生。

僕の知る限り、そんなのは一人しかいない。


僕がその名前を呼ぶよりも先に、僕の名前が呼ばれた。少しだけ憎しみが篭ったような声で、嫌味たらしく笑いながら。

「あ、一紗先輩じゃないですか。今お帰りなんですか? 」

僕はそんな彼女が何故だか魅力的に見えてしまった。無色な笑顔が僕の体に絡み付いて、そっと囁く。『もっと私を見て』と、意味深に。僕は果たして、その声の望みを叶えられたのだろうか。

そんな事を妄想しながら現実の彼女に、僕はアプローチをしてみた。先輩の余裕を見せながら、華麗に誘う。

「ああ。良ければ一緒に帰るか? 」

ボタンを止めていないブレザーの中から薄いシャツが顔を覗かせる。リボンはシャツの第二ボタンを隠すようにゆらゆらと揺れていた。

遠くから見ると、少し赤みがかったスカートをおもむろに揺らしながら、クスリと紅里は笑う。

口元に指先を当てて、少し上品な口ぶりで、僕の心を揺さぶった。

「——つまりはデート、ということですね? 」

後輩に弄ばれている事を自覚しながら、僕は案外それが嫌ではなかった。

だからなのだろうか。僕は彼女といると、自分でも驚くほどに積極的になってしまう。

「ああ、デートしよう。」

僕の真剣な眼差しに、紅里は一瞬口角を下げたようにも見えた。けれど、それはまたすぐに、僕を見下したような笑顔になる。

僕に背を向けた紅里は、今どきらしからぬスクールバッグを手にしながら歩き出した。

彼女が足を一歩一歩踏み出す度にスカートが小気味よく踊っていて、僕が紅里の後を追うまでには少しだけ時間がかかってしまった。



デート、とは言っても別段何か特別な事をする訳では無い。第一、今日は月曜日で明日から通常授業だ。遊んでいる時間があるのならば、僕はそれを睡眠に費やしたい。だから僕が選んだ今日のデートは、町中にある小さな駄菓子屋に行くことだった。

駄菓子屋につくや否や、紅里は僕の顔をじっと見つめる。彼女は何も言わなかったけれど、その顔には『駄菓子屋なんて、先輩らしいですね』という文字が浮かんでいたので、僕はあえて何も言わなかった。

駄菓子屋の中は、昔を懐かしく思えるような匂いで充満していた。小さい頃は、お香の匂いがどうも落ち着かなくて好きになれなかったけれど、今は心地良さすら感じる。

店の壁三面には、色々な種類の駄菓子が所狭しと並んでいた。小学生の時はこの駄菓子の中から、少ない小遣いで買えるものを慎重に選んでいたものだ。質より量か、量より質か。友達と自転車に乗ってこの駄菓子屋に来て、そんな事を悩んでいたあの頃が、少しだけ羨ましく思う。

紅里にも彼女なりの思い出があるらしく、駄菓子を物色しては、目を少しだけ細めていた。誰に話すでもなく、独り言のように自分の過去を振り返る。

「いやあ、懐かしいですねえ。私がいた町でも駄菓子屋があったんですよ。『楔駄菓子屋』って言って・・・・・・あそこのお婆さんは元気にしてるんでしょうか。」

僕の知らない彼女の話は、何だか心に不快感を与える。自分が欲深くて、心が狭い人間だと僕は初めて知った。

——いつか、彼女の過去をもっと知る時がくるのだろうか。

そんな遠いようで、すぐに来てしまいそうな未来を想像して、僕はすぐに考えるのをやめた。

「また、戻りたいと思うのか? その町に。」

彼女の独り言を僕は会話に変える。けれど僕にとって、その答えは割と重要ではあった。

いずれ訪れる紅里との別れが、彼女の答えによって早まるのか、遅まるのかが決まってしまいそうな気がしたからだ。

腰を曲げ、品物に顔を近づけると、「そうですねえ。」と紅里は僕を焦らす。それから紅里は再び顔を上げて、僕をじっと見る。意地の悪い笑顔は僕の心臓を跳ね上げさせた。

「私はまだ、先輩の後輩であり続けたいとは思っていますよ? ただ、自分の未来というのは案外自分が一番分からないものなんです。」

紅里の曖昧な答えに、僕は「それは君の主観的な考えか? 」と聞いてみる。

闇を抱いた瞳は、より一層黒を濃くしていきながら、紅里は簡潔に答えた。


「いいえ、私の客観的な考えです。私の中の人間観とでも言っておきますか。」


九重紅里は、あまり自分の感情を表に出さない。僕はそれを、昨日から分かっていたのかもしれない。けれど彼女のそんな所に、僕はもしかしたら惹かれてしまったのかもと考えると、九重紅里の考え方を否定出来なかった。

ただ、僕はどうして紅里がそんな考え方をするようになってしまったのか。無色透明な彼女の思考を見てみたいと思った。


——そう、九重紅里の脳を切り裂いて、彼女の思考を全て知り尽くしてしまいたいと。


紛れもなく僕はそんな事を心の底から。望んでしまったのだ。






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