第5話遠くの空に響く

 三日間の間に何かあったのだろうか。それとも自分でも気づかないうちに、愛想を尽かされるようなことをしてしまったのだろうか。

 どんどんと不安が膨らんでいく。非常に困る。期待が高まっていたため、もうダメもとだと思えないのだ。是が非でも付き合いたい。


 結局返事が来たのは丸二日が経ってからだった。それも、予定が埋まってしまっているという旨の文だ。

 じゃあ平日で空いてる日はないかという文を送ることにした。

 京香さんは、俺にもう会いたくないのかもしれないという考えが浮かぶ。それでも、引くという手はなかった。どうしても、彼女とこれからも過ごしたかった。

 俺はこうなって初めて、自分と京香さんを結びつける糸がひどく細いことに気付いた。

 もうバイト先 の先輩後輩ではない。このままだと疎遠になっていく知人Aだ。

 糸を切らさないためにも、告白は絶対にしなければならないし、失敗も許されない。それどころか、このまま二度と会えない可能性すらある。俺の心が黒い渦に飲み込まれて落ちていくかのようだった。


 しかし、丸一日後。あっさりとデートの日が決まった。

 京香さんの返事は、水曜日なら空いているというものであった。

 安堵がこみ上げてくる。会えるのだ。俺は小さくガッツポーズをした。

 

 決戦の水曜日は、またもや雨だった。梅雨真っただ中の時期なのだから仕方ないが。

 京香さんが待ち合わせの駅に来たのは、午後六時ぴったりだった。今日予約しているのは、海鮮丼の店だ。アルコールが入った状態での告白にしたくはなかったから、酒が似つかわしくない店を選んだ。

 

 俺は軽く手を振った。彼女はいつもと同じく微笑んでいる。

「こんばんは」緊張で声が震えた。

「こんばんは」彼女の声は俺と違って安定している。

「この駅の近くに海鮮丼の店あるなんて、優馬に教えてもらうまで知らなかったよ。よく見つけたね」とりあえずは、京香さんにいつもと別段変わった感じはない。これまでと同じ笑顔、まなざしをしている。

 返信が遅かったのは、予定を調整しようとしてくれていたのだと思うことにした。実際、その可能性がないわけではない。


「ふと、海鮮丼食べたいなって思って、めっちゃネットで探したんですよ」

 嘘である。探していたのは、酒を出さなそうかつチープではない店で、特に海鮮丼が食べたいわけではない。

 どうして酒を飲む店がいいのかという理由を、今の時点で答えるわけにはいかないので、嘘をつかざるを得なかった。


「へぇ、海鮮好きなんだ」いつもどおり京香さんはこちらを向き、じっと俺の目を見て言う。肩ほどまで伸びた髪が揺れる。

 いつも通り胸に違和感が、キュンとこみ上げる。

 見透かされている感はいつも以上だった。彼女はほぼ普段通りなのだから、嘘のうしろめたさと、告白を失敗できない俺の、不安の大きさがそう感じさせているのだろう。


「そういえば、今週の土日は何してたんですか?」予定があると、京香さんに断られた日だ。

「別の人と飲みに行ったました。ごめんね、断っちゃって」

 そんな可愛いはにかみ顔をされたら、許さざるをえない。元々怒ってたわけでもないが。


 そして俺は可愛さに癒されるどころか、より緊張が高まってしまった。彼女が自分より高位の存在であることを再認識する。

 出会った頃に逆戻りだ。自嘲せざるを得なかった。

 相合い傘をしていたときよりも、二人がそれぞれ別の傘に入っているときの方がガチガチだ。


 しかし、いくらプレッシャーが大きくても、人の意識はずっと張り詰めてなんていられない。

 店に入り、運ばれて来た海鮮丼を食べて京香さんは「美味しい」と、笑顔になった。

 俺が店選びが失敗でなかったとわかり、ホッとしたことがきっかけで、ギチギチだった緊張の糸がフッと緩んだ。京香さんと話しながら、付き合った後のことを夢想する余裕ができた。

 手をつなぎながら借りてきた映画を見たりするのだろうか。手料理を振舞ってくれたりするのだろうか。彼女の隣にいる自分に、自信が持てるようになるのだろうか。

 

  俺はウニが好きではない。そう言うと、京香さんが自分の丼に入っていたウニを、箸で少量すくい上げ、俺の丼に移した。

「おいしいウニ食べたらきっと変わるよ」

「じゃあ試してみます」未だに間接キスを意識してしまう自分が情けない。

 ドロッとした黄色い物体を白米の上に乗せ、口に運んだ。

「前食べたやつよりは食べやすいです」思ったまんまの、何の面白みもないことしか言えなかった。

 それでも彼女は「ダメかー」と笑ってくれた。いつも通り、俺の引け目を見透かしたような笑顔で。


 その、いつもの笑顔が好きだ。だからこそ、この前の雷に怯える彼女は愛おしかった。普段とのギャップが大きく、可愛らしかったからだ。

 また雷が落ちることを期待する自分がいた。我ながら最悪だなとは思うが、好きな人の可愛らしい姿を見たいのは男として当然だろう。みんなもその筈だ。

 雷のときの彼女はもちろんだが、もっと別の顔も見たい。そして、それらを俺だけが見ていたい。京香さんがガールフレンドになれば、それが叶う。


 京香さんが海鮮丼の最後の一口を頬張ると、緩んでいた緊張の糸が再び張り詰めた。心臓が熱を持つ。何かが俺の中で燃え上がってるようだった。


「そろそろ行きますか」

 そう言うと京香さんは「そうだね」と言って立ち上がる。これは彼女に退店を促すためだけの言葉ではなく、自分自身に向けた言葉でもあった。

 

 外はまだ雨だったが、傘に雨粒が当たる音が会話に支障をきたすほどではなかった。どちらかというと心臓の音の方が邪魔だった。

 まだ解散するには時間が早いが、この天気でうろちょろしてたら体が濡れてしまうというという話になり、歩いて駅へ戻ることにした。

 素面で「うちに来ませんか?」とは言えなかった。

 

 二人で一つづつ、別の傘を使ったいるのだから、弱い雨が二人の隙間を通り抜けていく。今すぐにでもこの隔たりを無くし、手を繋ぎたかった。


「あの」

 京香さんは不思議そうにこちらを見る。

 俺が立ち止まると、同じように彼女も足を止めた。

「今日も二人でいて思ったんですけど」

 京香さんは真っ直ぐ俺の目を見つめている。緊張と期待に纏わり付かれて、息苦しくさえ感じる。

「好きです。もしよかったら付き合って欲しいです」


 静寂に包まれた。雨の音さえ遠くに感じた。


「ごめんなさい」

 静寂と、俺の希望が引き裂かれた。

 何も言葉が出てこない。

「彼氏がいるの」

 彼氏? いつから? だからこの前返信が遅かったの? 

 様々な疑問が頭を巡るが、何一つ聞けず、口から出たのは「そうですよね」というよくわからない返答だった。

 

 お互い黙ったままどちらからともなく二人は歩き始めた。もっと強く雨が降って欲しかった。ザーザーという音に、俺たちの重苦しい静寂を消してほしい。だが天気は俺の都合なんて汲んでくれやしなかった。

「この前、窓開けっ放しで昼寝してる間に雨が降り始めちゃって、起きたら床がびちゃびちゃになってたんですよ――――」

 気まずさを少しでも和らげようと、自分でも笑っちゃうくらい面白味のない、その場しのぎの話をした。彼女もこれには応えてくれた。

 

 吹けば飛ぶような薄っぺらい会話だったが、話しているとさっきより時間の流れが速く、あっという間に駅に着いた。お別れのときだ。

「じゃあまたね」京香さんは言った。またねの「また」は無いような気がした。

「はい。お気をつけて」俺は手を振った。

 京香さんが申し訳そうな顔で手を振り返す。

 そんな顔をしないでくれ。余計虚しくなってしまう。


 俺は、電車に向かって歩いてる京香さんの後ろ姿を見て立ち尽くすことしか出来なかった。

 京香さんが向かったのは普段彼女が利用している電車とは違う線のものだった。疑問に思ったが、そんなこと考えても仕方がない。

 

 京香さんが見えなくなり、俺は最寄駅に向かう電車へ歩く。彼女のこと以外どうでもよく思えた。

 彼女との思い出達が頭に浮かんでは消えていく。

 出逢った時のこと、飲みに行った時のこと、一緒に過ごした夜、ハンバーグを頬張る姿、雷に怯えている時の愛しさ。そして、先ほどの後ろ姿。

 

 一瞬、思考が冴え、京香さんが普段とは違う電車に向かったわけの仮説を閃いた。いや、閃いてしまった。

 きっと彼氏のところだ。あんな時間に雨の中、別の用事や予定がある可能性は低い。ただ、彼氏の家に行くとすれば別だ。

 ダメだ。気分が落ち込んでしまう。別のことを考えるべきだ。そう思っても今は彼女のことしか頭に浮かばない。

 

 家に着くまでそれは続いた。余りに濃く頭に浮かぶもんだから、急に自分の玄関が目の前に現れたように感じた。

 靴を脱ぎ部屋の電気を点ける。部屋が明るくなると、リビングの窓が少し開いていることに気付いた。幸い部屋が濡れているなんてことはなかったが、雨が強まっていたため、念のため閉めることにした。


 すると遠くの空が光った。急いで窓を閉めたが、ゴロゴロという音が容赦なく部屋に入って来た。

 彼女の隣にいるのは、俺じゃないのに。


 

 

 



 

 

 

 


 


 



 

 

 

 



 

 

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遠雷 海野 @summer0808

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