第5話

 それから二週間待った。

 待ち遠しくてたまらなかった。

 いつになったら、あの虫を飲み込むことができるのかいつも考えていた。職場での陰口も明美の癇癪も別に気にならなかった。

 そんなことよりも、毎日ただひたすら芋虫のことだけを考えて過ごした。

 帰ったらすぐに芋虫を観察して、その粘液を舐めて、飲み込みたくなる欲を振り切ってカゴに戻した。

 本当は一か月待つつもりだった。

 我慢ができなかった。

 一度食べてしまったら、もう芋虫に対する忌避感もそこまでなくなっていて、思いの外すんなりと飲み込むことができた。今回は紫色のを飲み込んだ。

 前に飲み込んだものよりも少し高いものなので、違いにも興味があった。


 ごくりと飲み込んでみたのだが、あまり変わりがなかった。

 もしかしたら高いだけの偽の商品だったかもしれないと思って、ふてくされながらベッドに腰をかけた瞬間目の前が揺れた。

 ぐるぐると高速で回転する。

 車酔いのような気分になって僕は嘔吐した。

 しかし、口からこぼれ落ちたのは色とりどりの金平糖だった。

 明美が遠くで叫んでいる。

 子供の声が聞こえる。

 誰かが笑っている。

 キラキラとした金平糖は僕の口から溢れ出て、まるで視界の回転を塞き止めるように降り積もった。

 視界の回転が止まって、僕は世界に取り残される。

 回転が終わった世界は全て緑色だった。

 緑色の世界。

 僕の部屋のようでいて、僕の部屋ではなかった。そこは大草原で大海原だった。

 狭い箱に閉じ込められた僕はあたりをぐるりと見回す。

 女の子がいた。

 3歳くらいの女の子だった。

 女の子はこちらに背を向け、地べたに座ってなにか積み木のようなもので遊んでいる。

 周りに大人はいなかった。

 緑色の中で彼女だけが色鮮やかだ。

 彼女は見つめる僕に気づいたようでこちらを見つめた。

 振り向いた彼女の顔はまるでモザイクでもかかっているかのようにぼやけていて、不鮮明だったが可愛らしい子だと言うことだけはわかった。

 彼女は立ち上がって、まるで僕を誘うように首を傾げる。

 僕は彼女を捕まえたくて彼女に近づいたが、彼女はキャッキャと笑って小走りに僕から逃げていく。そして、少し逃げるとまたこちらを向いて僕を誘うのだ。

 追いかけては逃げてをしばらく繰り返したあと、彼女はこちらを向いて止まった。

 僕が彼女の手を取ろうとする。

 彼女の口が動く。



 そこで僕は目を覚ました。

 時計を見るとまだ三時間程度しか経っていない。

 あの女の子は一体なんなのだろうと思った。僕には女の子の知り合いなんていない。僕には弟が一人いるが、弟の二人の子供はどちらも男の子だ。

 なんとなく、頬に手をやった。

 ピシャリっとした感覚があった。

 濡れている。

 なぜ、濡れているのだろう。


 ああ、なぜだろう。

 僕は泣いている。


 それから何かずっとモヤモヤとしたわだかまりができた。

 あの娘は誰だろう。

 ずっと考えていた。

 芋虫を食べたいとは思っていたが、でもあの女の子に再び出会うのが妙に怖かった。

 あの日から、明美が静かになった。

 一緒に夕飯を取らなくても、何も言わなくなった。今まではいやでも毎日顔を合わせていたのに、顔を合わせる回数もどんどんと少なくなっていって、今は3日に一度顔を合わせればいいくらいになっている。同じ家に住んでいるとは思えないくらいに、本当に静かだ。

 怒鳴られて干渉されていたころは煩わしいと思っていたのだけど、こうやって関わらなくなると寂しいものだなと思う。

 同時にだんだんと部屋が荒れていった。

 今までの明美からは想像出来ないくらいに部屋の中が汚くなっていく。

 さすがに心配だったが、かと言って明美に文句を言って癇癪を起こされるのも嫌だった。


 だからなのか、あまり芋虫を食べたいと思わなかった。あの芋虫はどうやら僕が感じているストレスを糧にしてるらしい。芋虫を見た時の食欲も僕のストレスが大きければ大きいほど強くなることがわかった。気がついたら、あれからまた二か月が経っていた。

 明美が静かだからといってストレスがなくなったわけではないので、芋虫はふくふくと太っている。

 ああ、やっぱりこうやってみるととても美味しそうだ。

 そろそろ食べごろかもしれないな、と僕は思った。

 最近はあまり食べたいとは思わないけれども、やはり目の前にあるのとあまり良くない気がする。もしこれが違法なものだとしたら、僕は逮捕をされてしまうわけだし。

 処分をしてしまおうと思った。

 今回で最後だ。

 今回これを飲み込んだら、もう芋虫は買わないでおこう。

 僕は真っ当な人間に戻るんだ。大丈夫、今は以前ほど辛くはない。


 僕はバナナ色の芋虫をむんずと掴み口の中に入れた。やはり噛む勇気はなかったが、下の上で転がしてみる。

 甘さと苦さが脳天を直撃してクラクラした。

 芋虫が口の中からの脱出を試みて蠢くのを無視して、僕はそのままそれを飲み込んだ。

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