第6話

 明美がいた。

 今よりも随分と若い。

 30代の頃だろうか。

 顔はすっぴんに近い。今の明美とは違って、穏やかな表情をしていた。

 ここは、どこだろう。

 僕の家のようでいて僕の家ではない。広いリビングで誰かがくつろいでいる。ああ、あれは僕だ。僕がくつろいでいる。

 子供の声が聞こえた。


 僕は目を覚ました。

 あれだけのにこれしかないのか、と少しがっかりする。あれほど高いものを買ったのにと思ったが、次の瞬間僕が目を覚ましていないことに気がついた。

 プールだった。

 どうやら僕は夢の中で夢を見ていたらしい。

 まだ真夏の日差しに照らされて、若々しい明美の水着姿が眩かった。

 ここは芋虫を食う前に僕がいた場所ではない気がする。

 でもそんなことはどうでもよかった。

 僕は幸せだった。

 明美が僕に笑いかけた。

 子供がいた。

 3歳くらいの女の子だった。何故だかとても愛おしい。可愛らしい子だ。僕はその子を抱いてプールへ入る。

 女の子は最初少し水を怖がった。

 おそらく初めてのプールだったのだろう。

 だが、すぐに慣れたようで浮輪にのっかってチャプチャプと気持ちよさそうにしている。

 頭のどこかで「今回はサイケデリックではないのだな」と思ったけど、すぐに忘れた。

 明美が僕を呼んだ。

 僕は明美を見て思わず見惚れる。

 明美が何やら僕に耳打ちをした。僕はそれに納得をして、また女の子の方を向いた。

 女の子はいなくて、浮き輪だけがぷかぷかと浮いていた。


 世界が早送りになった。

 なんなんだ。今回はなんなんだ。

 なぜ、こんな白昼夢を僕に見せるんだ。

 なぜ。


 世界が止まった。

 今度はちゃんと僕の家にいた。

 とてもリアルに出来ているが、おそらくこれは夢なのだろう。

 僕の住んでいる家はだいぶ乱雑にものが置かれていて、綺麗か汚いかと聞かれたら汚い方になってしまったんだけど、それにしてもこれは今の僕の家の数倍は汚い。

 廊下にはゴミ袋が積まれていて、シンクには洗い物が溜まっている。

 たとえゴミ袋が溜まっていようと、明美はキッチンだけは綺麗にしていたはずだった。

 もしかしたら、これは未来の映像なのかもしれないと僕は思った。

 もしかしたら、僕は近い将来、明美と離婚するのかもしれないと思った。

 僕は確かめるべく明美の部屋に向かった。二階の明美の部屋まで行くのには、ゴミ袋の山をかき分けなければならなかった。ゴミ袋を一つどけたら、ゴキブリがカサカサと這っていった。ここまで溜め込んでいたら仕方ないとは思うのだが、それでも気持ちの良いものではない。

 やっとの気持ちで明美の部屋にたどり着いて、誰もいないのはわかってはいたがとりあえずノックをしてみる。返事はなかった。

 僕は恐る恐る扉を開く。

 どうせ何もない。そこに明美がいるはずはない。

 予想外だった。

 明美の部屋は、明美がまだこの家にいた頃そのままの姿で残っていた。外の乱雑さとは打って変わって、この部屋だけは綺麗に掃除がなされていた。


 僕は、なぜ明美がこの部屋に既にいないと思ったのだろう。


 僕は部屋の隅を見て思わず「うわっ」と声を上げた。

 薄暗い部屋の隅に踞る人間がいた。

 男だった。

 ヨレヨレの服を着て、髪の毛はボサボサの男だった。

 男は踞って誰かの写真を見ながら、声を押し殺して泣いていた。


 ざわりと肌が粟立った。


 どこからか女の子の声がする。


 額から冷たい汗が流れる。

 嫌な予感がする。


 男が顔を上げる。


 ダメだ、と思う。

 顔をあげてはダメだと思う。


 男が完全に顔を上げ、僕を見上げた。

 髪はボサボサで髭もボーボー、涙でグシャグシャの顔だったが、それは僕だった。


 ダメだ。

 僕はそれを思い出したくない。


 男の口が開こうとしている。


 いつのまに握ったのか、僕の手にナイフがあった。

 刃渡り10cm程度の小さなナイフ。まるで血に飢えたかのように妖しく光っている。

 この男がいるせいで今の僕が苦しいんだ、と思った。

 この男の存在が僕を苦しめるんだと思った。


 この男さえ存在しなければ。


 僕は目の前の僕が口を開く前に、僕にナイフを突き立てた。

 二回、三回と突き立てる。

 僕から真っ赤な血飛沫が上がって世界を覆い始めた。


 そして、そのまま僕の世界は赤に染まった。

 遠くで女の子が幼い声で「パパ」と言っているのが聞こえた。

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