第4話
その夜、僕は繁華街にいた。
別に飲み会なんてなかった。
家にはまだ帰っていない。連絡もしていない。
おそらく帰ったら明美はかんかんに怒っているだろう。2日連続で怒らせるのなんて、初めてかもしれない。
僕は真っ直ぐにあの芋虫を購入した路地裏に向かう。
まだあの売り子はいるのだろうか、向かっている最中不安になる。あれから半年も経っているのだ。もしかしたら警察に捕まっているかもしれない。
なぜだ?
なぜ、警察に捕まる?
あの男はただ芋虫を売っているだけだ。
僕は芋虫を売るのが違法だというのを聞いたことがない。
頭の中をぐるぐるしながら、向かった。
朝から頭は冴え渡っている感覚はあるのだが、でも思考は全くと言っていいほど纏まらなかった。
そこには相変わらず芋虫売りがいた。
でも今日いたのは男ではなく女だった。
太った女だった。
真っ黒いずるずるとしたワンピースに、真っ黒いハットを目深にかぶっている。
魔女だ。
と僕は思った。
「お兄さん、新規さんじゃあないね」
と女が言った。しゃがれた声だった。
「は、はい。二回目です」
僕は恐る恐る言った。
「そうかい、そうかい。お前もそっち側の人間だったわけか。そっち側の人間は必ずと言っていいほどリピーターになるんだ」
そっち側、が何を表しているのか僕にはわからなかった。
女は続ける。
「たまにね、あっち側が恋しすぎて売り子になる人間もいるんだよ。この前お前にあれを売りつけた男もそうだった」
女が懐かしそうな顔をした。
「そういえば、あの人は…」
僕は聞いた。
「あの男かい?あの男はねえ、戻ってこれなくなっちまったのさ」
ハットの隙間から女の緑色に光る瞳が見えた。
僕は嫌な予感がして聞くんじゃなかったと後悔をしたが、女はそんな僕の様子を気に留めた様子もなく、かっかっかと笑って僕に聞いた。
「さて、お客さん今回はどの子を連れて行くかな」
女の目の前には色とりどりの芋虫が並べられている。
僕は「男が戻ってこれなくなった」という言葉を思い出す。もしかしたら僕もこのまま戻ってこれなくなってしまうかもしれない。
男はどこへ行ってしまったのか。
どこから戻れなくなってしまったのか。
繁華街を闊歩している怖いお兄さんたちに捕らえられてしまったのだろうか。
いや、おそらく違うだろう。きっと、あの世界きら戻ってこれなくなってしまったのだ。
鳥肌が立つのを感じた。
「どうしたんだい?買うのかい?買わないのかい?」
女が詰め寄ってくる。
きっと、これは買わない方がいいんだ。二度とあの感覚を味わってはいけないんだ。
僕の理性がそう言っていた。
僕は欲望に勝てなかった。
頭ではわかっているのに、どうしてももう一度あの不思議な世界を感じてみたい、そう思ってしまった。
戻れなくなるまで、食べなければいいのだ。
たまに、ごくたまに。たまにストレスが溜まった時だけ、あの虫を食べる。
そうすれば、世界に取り残されるなんてことはないだろう。
僕は芋虫を三匹買った。
今度のは綺麗なバナナ色をしたのと、紫色のと、この前と同じ緑とピンクのやつだった。
この前のが一番安くて、他のが少し高い。
どうやら芋虫にもランクがあるようだった。
芋虫たちは全部で2万円近くした。
「一ついいことを教えてあげるね。それは少し置いた方が美味しいんだよ。まあ美味しく食べた方が後悔が強いかもしれないけどねえ」
帰り際女がひっひっひと笑いながら言った。
家に帰ると予想外に明美はすでに寝てしまっていたようで、家は静かだった。
リビングも真っ暗で、いつも連絡をしないで遅くなった時には必ずテーブルの上に夕飯が置いてあったのだけど、今日はそれすらもなかった。ああ、これは本格的にヘソを曲げたのだなと僕は思った。
僕はすぐに自分の部屋に向かった。
早く芋虫たちを見たかった。
女が芋虫たちは共食いはしないと言っていたので同じ虫かごに入れた。
色鮮やかな虫たちはお互いに気を使い合う風もなく、自由に虫かごの中を蠢いている。
しばらく眺めた。
綺麗だった。
チカチカとした光が散っていた。
僕はまた腹が空いていることに気がついた。
いや、今日のこれは芋虫を見たからの空腹ではない。今日は飯を食っていないのだ。仕事が終わってすぐに繁華街へ出向いて、芋虫を購入して、早く芋虫が見たくてどこにも寄らずに帰ってきた。
どうしようか、と少し悩んだ。
このままキッチンに行けば、おそらく残り物くらいはあるだろう。だが、残り物を食べようとして物音を立てたら明美が起きてしまわないか。せっかく眠った獅子を起こしてしまうかもしれない。もし明美が起きたら一体僕は彼女に何をされるのだろうか。おそらくいつもの暴言だけでは済まない気がする。
僕は部屋を出るのをやめた。
風呂にも入りたいが、今日は諦めた方がいいだろう。なによりも身の安全が第一だ。
ぐぅ、と腹がなった。
やっぱり僕は腹が空いているのだ。
どうしたものかと、少し考えて芋虫を見た。
ああ、なんで僕は忘れていたのだろう。
ここに、素晴らしい食糧があるじゃないか。美味しいだけでなく、僕を素晴らしい世界に運んでくれるものがすぐ目の前にあるじゃないか。
さすがに芋虫一匹では腹は膨れないだろうけれども、あの世界での僕は万能だった。自分の空腹さえもコントロールできた。僕は世界だったし、世界は僕だった。
あの世界にもう一度行きたかった。
あの時の万能感を今一度体験したかった。
僕はこの前と同じ色の芋虫を一匹摘んだ。
恐る恐る口元に持っていく。
この前は錯乱していたが、こうやって現実にこの芋虫を食べるとなると中々正気の沙汰ではないと思う。僕はなぜこんな気持ちの悪いものを口にしたのだろう。
僕は目をギュッとつむり、鼻をつまんで、芋虫を口に入れた。ほとんど噛まずにゴクリと飲み込む。この前も噛んで味わった記憶はないので、たぶんこれで大丈夫だと思う。
飲み込んだら、すぐにあのサイケデリックの波がやってきた。
しかし、今回のその波は短かった。
1時間くらいだった。
世界は変わったけれども、あの万能感を感じる前に終わってしまった。
何が行けなかったのだろう、と僕は考えた。
「少し置いた方が美味しい」
女の言葉が頭に響いた。
ああ、そうか置いておく時間が短かったのだ。
僕はがっかりして、キッチンに向かいお湯を沸かし始めた。カップラーメンでも食べようと思った。
一瞬の夢は現実を何も変えてはくれなくて、腹が減っていたのだ。
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