第3話

 その日見た夢は予想外に悪夢だった。

 何か嫌なものに追いかけられる夢。何に追いかけられていたのかは覚えていない。しかしそれはとても小さくて、本来だったら怖いなんていう感情が芽生えるようなものではないと言うことだけは覚えていた。そして、それは以前ぼくがとても大切にしていたものだということも覚えている。

 いつもだったら悪夢を見た日は目が覚めても疲れていたり一日中体の怠さがぬけなかったりするのだが、今日の気分は軽やかだった。

 昨日の高揚感こそなくなってはいたが、まるで何か悪い憑物でも落ちたかのように体が軽い。

 朝から疲れていない、こんな朝は久しぶりだった。

 気持ちのいい朝だったからか、仕事も捗った。いつもはひそひそと言われている嫌味も今日は気にならなかった。

 明美も相変わらずだったが、どういうわけか今日はその一挙手一投足がまるで新婚当時のように愛おしく感じた。

 なぜ、僕は今までこの芋虫を舐めなかったのだろう。

 この芋虫の体液を舐めるだけでこんなにも世界は素晴らしいものになるというのに。

 しかし、その素晴らしい世界は次の日には元に戻ってしまった。

 空はどんよりと曇っていたし、部下は冷たかったし、明美は相変わらず怒り狂っていた。口の中の飴玉が、急にじゃりじゃりとした味気のない砂に変わってしまった感覚だ。

 耐えられなかった。

 僕は今までどうやってこんな生活に耐えていたのだろう。


 つらい。


 つらい。


 つらい。


 僕は夕食もうまく喉が通らなくって、大半を残してしまった。

 明美の怒り用は今までのどんなときよりも凄まじかった。暴れている。おそらく食器を割っている。僕は食事を終えてすぐに部屋へ篭ってしまったので、明美がどんな様子でいるのかはわからない。明美は一通り暴れ尽くしたようで、今度は僕の部屋まで来て何やらわけのわからないことを叫びながらドアを力強く叩いた。

 僕は思わず息を飲んだが、大丈夫。内鍵はかかっている。女の力で開けられるわけがない。

 僕は電気を消して小さな明かりの中、芋虫を見ている。

 明美はやがて諦めたようで、あたりが静かになった。リビングからテレビの音が聞こえる。

「僕の奥さん、怖いでしょ?」

 と返事が返ってこないことなどわかり切っていながら、僕は芋虫に話しかけた。

 芋虫は僕の問いになど、どこ吹く風だ。

「僕はわからないんだ。僕が今までどうやって生活をしてきたのか」

 涙が出た。

 ポロポロ、ポロポロ、涙が出た。

 今まで溜まっていたものが全部溢れてくる。僕は何をここまでため込んでいたのだろう。

 わからない。

 自分が今まで何を見て、何を感じて生きてきたのかが全くわからない。

 僕は涙と一緒に溢れ出てきた鼻水を拭った。


 そして、徐に虫籠の中に手を突っ込み、芋虫を取り出して



食べた。




 サイケデリックだった。

 はじめにドギツイピンクの波が押し寄せてきた。その次に蛍光グリーンの壁が襲ってきた。

 凄まじい吐き気に襲われたが、それもすぐにどうでも良くなった。

 若い頃、友人に騙されてマジックマッシュルームというものを食べさせられたことがある。あの時の感覚によく似ている。

 あの虫はもしかして相当やばいものだったのかもしれない。

 だが、そんな考えもすぐにどうでも良くなった。

 相変わらず僕は泣いていて、ポタポタと流れた涙の滴が一本の紫色の川になって流れている。

 僕の周りは真っ赤な宇宙だった。

 無数の星たちが僕の周りを流れている。

 星たちは僕の作った川にどんどん飲み込まれて行って、やがて森を作った。森からは古代に生きていたはずの恐竜が飛び出してくる。襲われる、と思ったが恐竜たちは僕を無視して走り去っていった。

 僕は気づいた。

 僕は宇宙だった。

 僕は宇宙で世界だった。

 僕はこの世界の神ではなかったけれども、僕はこの世界の神だった。

 万物が僕の手の中にあった。

 無数に光る星たちも紫色の川も森も恐竜も僕が生み出したんだ。

 ピンクの波が押し寄せる。緑の壁が押し寄せる。

 それは星も川も森も恐竜たちも全てを押しつぶして僕と同化した。


 ハッと目を覚ました。

 朝だった。

 いつの間に着替えたのか、僕はパジャマを着てベッド入っていた。凄まじい寝汗をかいたようで、シーツがしっとりと濡れている。

 その割にはすっきりとした朝だった。

 すっきりとしているし、頭がとても冴え渡っている。

 ただ身体が重かった。

 まるで信楽焼の狸でも背負っているかのように身体が重い。一瞬、会社を休もうかなどとも頭をよぎったのだが、昨日の今日だ、そんなことをしてしまったら明美がまた怖い。それにただでさえ嫌われている部下に示しがつかない。

 僕は渋々重い体を起こして、スーツに着替えた。

 そういえば、明美はまだ怒っているだろうか。

 夕食と違って朝食は一緒に食べる義務はない。

 明美は朝が弱くて、いつも僕が家を出る時間には起きることができないからだ。ドアからそっと様子を伺うと、家の中はしんとしている。

 おそらくまだ明美は目を覚ましていない。

 ほっとして僕はもう一度部屋に戻った。

 芋虫の入った虫かごを見ると、そこには何もいなかった。

 そりゃあ、そうだ。

 だって昨日、僕が食べてしまったのだから。

 今思い起こすと、虫を食べるなんて、なんていうことをしたんだと思った。しかも生で食べた。僕は今までイナゴですら食べるのを躊躇っていたのにだ。

 でも、腹が減ったのだ。

 途方もない空腹に、芋虫が異常なくらいに美味そうに見えたのだ。

 芋虫がいなくなってしまった。

 半年も可愛がっていたのだ、自分のせいとはいえ喪失感はあった。

 結局、あれは何になったのだろうか。

 そんなことを思いながら、明美を起こさないようにこっそりと家を出る。

 外は快晴でまるで僕の気分を表しているかのようだった。

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