第2話

 ストレスの多い環境だと思う。

 もういい歳だと言うのに職場では、平社員ではないものの、それも年功序列で仕方なしに無理やりにつけてもらったようなポジションで、気がついたら随分と歳下の元部下が上司になっていた。上司にはいつも些細なことで怒られているし、入社してからまだ数年しか経っていないような若造からも煙たがられている。

 僕は知っている。

 みんな陰で僕の悪口を言っていることを。歳ばかりとっても使えない。なんで会社は僕をクビにしないのか、と。

 だから僕は余計に小さくなってしまって自由に身動きが取れない。そのせいでまた仕事が中々捗らない。

 悪循環だ。

 定年まであと10年以上あるわけだが、もうすんなりと転職できるような年齢ではない。どうせ、自分の能力では新しいところなんて見つからないのだ。僕はなにを言われようが、クビを切られない限り、この会社に骨を埋める覚悟は出来ている。

 僕には妻がいるが子供はいなかった。

 作らなかったわけではない。妻--明美が悪いのか、僕が悪いのか出来なかったのだ。別に明美を責めるつもりはなかったが、明美はそう言うわけではなくよく僕がまるで明美を詰っているかのような物言いをした。おそらく明美は心底子供が欲しかったのだろう。

 夫婦生活は冷え切っていた。

 だけど、どういうわけか僕ら二人とも離婚というのは考えていなかった。

 お互いに寂しがりやなのだろう。

 僕も明美も自分のほかに誰もいない生活を考えることが出来なかった。

 家に帰ると叱責されることが多い。

 明美は専業主婦で常に家にいるのだが、どうやら近所付き合いがうまくないらしい。明美の話を根気強く聞いていくと、そういう時は決まって近所の人とのトラブルがあった時だった。

 明美もまたストレスを感じているのだ。

 それを全て僕にぶつけてくる。

 正直、たまったもんではないのだが、だからと言ってそれを発散させるようなものは僕は持っていなかった。一ヶ月か二ヶ月に一回仲の良い友達と行く飲み会も、楽しいことには楽しいのだけれども、おそらく僕は彼らに心のどこかで気を許していない。楽しいが帰った後はどっと疲れていた。


 芋虫を眺める。


 ウゴウゴと蠢く派手な芋虫は、購入したときよりも幾らか太ったようだった。

 僕に懐いてくれているのか、やはりたまにこちらを向いては首を傾げるような動作をする。

 たまに手の上に乗せてみる。

 最初は余りに禍々しい容貌に毒があるのではないかと不安になったのだが、実際に手に乗せてみたらそんなこともなかった。

 触ってみると芋虫は粘液に包まれていた。

 手の上をぬらぬらと透明な液体が跡を引いた。キラキラと煌めくそれは、光にかざしてみると水溜りの油の膜のように虹色に光って見えた。

 芋虫は自由気ままに僕の掌を這っているが、けして僕の掌から飛び出そうとはしなかった。

 なぜ世の中は芋虫のように僕の掌の中に止まっていてくれないのだろうか。

 なぜ世の中は僕の思う通りに動かないどころか、僕のことを害し続けるのだろう。

 僕は

「どうしてだろうね」

と芋虫に話しかけたが、僕のいうことを理解なんてするはずのない芋虫はただひたすらに僕の掌を這っている。

「まあ、そうだよね」

 こんな芋虫に救いを求めた自分を少し恥ずかしくなって、僕は芋虫をカゴに戻した。

 突然戻された芋虫は少し困惑したように不規則な動きをしたが、それも一瞬ですぐにいつもの様子に戻った。

 芋虫が何かをしてくれるわけがない。

 たかが芋虫だ。

 僕はがこの芋虫をみて妙な安心感を覚えるのも、それは僕の勝手だ。

 リビングで明美が怒鳴るようにして僕を呼びつけた。

 僕は芋虫に微笑んで、妻のもとに向かった。



 あれから一週間が経った。

 さすがに芋虫に変化が見られないのは少し不安だった。何か病気なのではないか、と考える。でも病気だからと言って、芋虫なんかを見せる医者を僕は知らないのでどっちみち放っておくしか手はないのだ。

 芋虫よりも変化が見られたのは自分の方だった。

 芋虫を見ていると妙にに腹が空くのだ。

 特に疲れている時や、イライラしているときにその傾向が顕著に現れた。

 僕は最近夕飯を食べるとすぐに部屋に引きこもって芋虫を見ている。リビングにいたって明美は僕のことを邪魔にしかしないし、ひどいときは僕に対して怒鳴り散らかしたり、もっとひどいときには僕に殴りかかったりしてくるからだ。

 僕が自分の部屋に篭っていると、どうやら明美の心も落ち着いているらしくテレビを観ながらの笑い声がたまに聞こえてくる。

 だからと言って僕が明美と一緒に夕食を食べないとそれはそれで不機嫌なので、僕は自衛の為にも明美との夕食だけは欠かせない。

 明美の料理の腕は逸品である。

 どうやら作るのが好きなようで、若くてまだ僕らの仲が睦まじかったころは料理教室なんかにも通っていたりした。そのころはやたらと手の込んだ料理を使ってくれて、僕はよく友人を家に招待して鼻を高くしたものだ。今でこそありあわせのものを適当に作って出すだけになったのだけど、それでも味は素晴らしいものだった。

 だから、食卓の空気は重たいもののそんなのにはすでに慣れ切ってしまっているので、箸は進む。僕は仏頂面の明美の目の前で、大袈裟に美味しい美味しいと言いながら食事をする。明美は相変わらずムスッとしているのだが、それでもどこか満足げに見えるのは僕の妄想なのかもしれない。

 だから部屋に入るとき僕はいつも満腹なはずなのだ。

 でも、芋虫を見てると急激に腹が減ってくる。

 気のせいだと思っていた。

 でも、だんだんと気のせいではないことに気がついた。

 はじめは緩やかな空腹が、芋虫を見ている時間が延びれば延びるだけ凄まじい飢餓に変わって僕を襲ってくる。

 僕はコンビニでスナックを買って部屋に持ち込むようになったのだが、そんなものいくら食べても空腹が満たされることがなかった。

 やがて僕には芋虫が妙に美味そうに思えてきた。

 ぬらぬらとした粘液がまるで甘い砂糖のコーティングのように見えてきた。ピンクと緑色のケバケバしい色合いも、まるでアメリカの派手な色をしたケーキのように見えた。

 口に入れたら、きっとシロップでコーティングされたドーナツのような甘ったるい味がする。そんな気がした。

 僕は耐えられなくなった。

 でもやはり虫を口に入れるのは抵抗があって、僕は芋虫を手に這わせた粘液をぺろりと舐めたのだった。

 粘液は甘いような苦いような味だった。想像していた味とは違ったが、癖になるような不思議な味だった。

 舐めた瞬間、世界が光に満ちた。

 今までどんよりとした曇り空だったのに急に雲ひとつない晴天になった。飴玉が口の中で弾けたような感じだった。全てのことが希望に満ちていた。

 こんな気分はいつ以来だろうか。

 随分若いとき、まだ大学生で社会の厳しさを知らなかったころ、まだ世界に夢を見ていたころ以来かもしれない。

 ああ、なんと世界は素晴らしいものか。

 こんなにも素晴らしい世界に生まれた僕はなんと幸せなものか。

 自分を虹色の綿飴のような甘くてふわふわとした空気が包んでいた。

 なんとなく今日はよく眠れそうだ、と思った。とてもいい夢が見れそうだ、と思った。

 ああ、この高揚感が抜けないうちに寝よう。

 僕は布団に入った。

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