第7話 探偵が来た
「あの、おんは。くぞ、ころひてやる」そう呪いながら、ソファの上で茜は水を口に含んだが、「ひぎゃっ」と悲鳴を上げた。口の中をひどく切っていたのだ。
美登利は、すごい色になった脹脛のあたりを藍子に湿布してもらいながら、たんたんと言った。
「不覚をとったわ。あの娘、大人しそうな顔をしてあんなに腕が立つとは、夢にも思わなかった」
「おまけに足を怪我していたのにね。すごいわねえ。さすが女刑事」
「えっ」美登利と茜はカッと目を見開いた。
「だって、ほら」みずるから奪い取ったポーチを、藍子は二人の前に投げ出した。中に県警発行のIDカードが入っていた。
「警察に知り合いがいるってのは、こういうことだったのね。本人がそうだったのよ」
「はに、こへ」茜が信じられないという顔をした。「いつひょういく委員会から異動したの」
「はじめっから別人だったんだと思うわよ」藍子は言った。「だって、この応接間に入った途端、顔つきが険しくなって、あたしたちをじっと観察してたもの。ただのお嬢さま公務員にしては、妙に腹の据わった感じがするなあと思ってたら、案の定だった。それに、塩漬けの頭をみても悲鳴をあげたりしなかったし、犯罪慣れしてるわねあの娘。美登利ちゃん、呼び込んだ相手が悪かったようよ」
「それはぜんぜん気づかなかった」さすがの天然な美登利も、唇をひき結んだ。「まさか、そんなのを家に入れてしまったとは、私も歳ね」
「いえ、そんな失敗、昔からよ」
「言うわね」
「どうひよう」茜が言った。「さっさとひまつひないと」
「警官殺しは、あとあと面倒よ」
「ひかたないじゃない」
その時、玄関のチャイムがなった。高齢女三人は、文字通り飛び上がった。
「二人ともアレだから、私がみてくるね」意を決したように藍子が、スリッパをパタパタいわせ、玄関ドアの向こうに消えた。
黙って座っている美登利と茜の耳に、ドア越しに男の声が聞こえている。
「こんにちは」深くてやさしい声がした。「わたしの上司が、ここにお邪魔しているはずなんですが」
二人は顔を見合わせ、耳をそばだてた。
藍子の声はほとんど聞こえないが、男の声は舞台俳優のようによく響いてくる。
「はい。はい。そうですね。おっしゃる通り。でも」金属音に続いて足音がした。
「ちょ、ちょっと、お待ちくださ、待って」悲鳴のような藍子の声に続いて、「いや、おかまいなく」という声とともに、大きな影がぬっとロビーに姿を現した。「いえ、みなさんお気遣いなく、そのままで」男が言った。「はじめまして。宇藤木と申します」
「け、警察呼ぶわよ」
「はい、ここに」宇藤木はこともなげに言ってから、ぐるっとロビーとその後ろの応接を見回し、二階にも目を向けた。
なにか言いたげに彼に近づいた美登利だったが、「あら」と言って動きを止めた。彼の珍しいほど整った容姿にようやく気がついたようだった。
藍子はおろおろし、茜は悔しそうに頬にジェルシートを当てている。しかし、まだ思うようには動けないようだ。
「そこの見目良きお兄さん」美登利が声をあげた。「いくらなんでも無礼ではないかしら。女ばかりの家に」
「はい、そうですね」部屋の床をじっと見ていた宇藤木は、彼女の顔に正対した。
「おや」
「私の顔に、なにかついていますか」苦笑いを浮かべて美登利が言うと、
「ええ。たっぷり。死がこびりついている」とうなずいた。
予想外の返事だったのか、わずかの間美登利はぽかんとした顔になった。
だが、次第に意味を理解したのか、温厚そうな老女の顔はどこかに消え、怒りやら怖れやら猜疑心やらが一斉に浮かび上がったすさまじい表情で宇藤木を見上げた。
「ほう」宇藤木は感心したように言った。「これほど正直な方も珍しい。よくぞ今まで、隠してこれましたね」
彼は猫背気味だった背筋を伸ばし、今度は無遠慮に部屋全体を見回した。
「なるほど、なかなか興味深いおうちだ」
「ひいがかりをつけるひ?」茜が頬に手をあてたまま立ち上がり、姉の援護に入った。
「いえ、観察の結果です」
「帰ってちょうだい」藍子が言うと、「私の上司を返してくれれば」と言って宇藤木はにっこり笑った。
「それと、同行者がいます。四、五歳の女の子。上司の性格からすれば、女の子を一人放置することはありえない。二人は一緒にいますね。それとも、二人を分断しようとしたのかな」
じっと彼を見つめる三人姉妹に、宇藤木は楽しそうに言った。
「知らないとは言わせません。まず」彼は指を一本立てた。「玄関および、傘立てが濡れています。私の前に、来客があった。靴は大慌てで隠したのですか、ご苦労さま。しかし、玄関の外にある陶器の壺には、かなり傷んだビニール傘が一本つっこんでありました。半ば乾いていますが、このお家には似つかわしくない。これは昨晩の客かな」
藍子が嫌そうな顔になった。
「そして、これは私の上司が指摘したのですが」彼は優雅に手を振った。
「入り口からここまでくる間には、上がり口、花瓶、サイドボードからなにから、至る所にレースやらマットやら毛皮やら敷いてある。おそらく住人は敷物好きと考えられる、なのに肝心のこの」宇藤木は目の前のロビーの床を示した。
「床はみごとに剥き出しのまま。これは、ここでなにかがあって、敷いてあったものが使えなくなったと考えられます。例えば……」
宇藤木は三人を見回し、「すき焼きをこぼしたとか」と言って微笑んだ。
「そ、そうなのよ」と藍子が言って、残りの二人に睨まれた。
「さらに私の上司は、気になるものが落ちていたといいましたが、たったいま拝見したところ、なにもない。見間違いだったようですね」と言いながら、彼は壁に立てかけてあった充電式の掃除機をチラッと見た。
「掃除はこまめにしておられるようだし。でも」
宇藤木は、ソファの後ろにあるキャビネットの足元を指差した。
「ガラスのかけらがほら、そこに。しかたありません、歳をとると細かいところまで目が届かないもの。ここでかなりの立ち回りがあったとお見受けいたします」
「そして、ほら。これも」つぎに宇藤木は、地層から金でも露出しているかのように嬉しそうな顔をして、天井から下りたペンダントライトを指差した。
長身の彼は、高みにあるライト本体に手が届いた。
「きんきらのシャンデリアではなく、シンプルな北欧風を選んだのがかっこいい。ここにくるまでに大急ぎで調べてもらったんですが、この家の前の所有者だった橋倉昭弘さんは、成功した実業家であり貿易商社の経営者でもあった。北欧の家具や食器などの紹介にも熱心だったとか。これがそうかは知りませんが」
そう言いながら、宇藤木はいつの間にかボールペンを手に持ち、ちょいちょいとカバーをつっついた。
「ここに、怪しげな赤黒い塊が複数付着しています。みなさん、床は念入りに掃除されたのでしょうが、これには気づかなかった。残念でしたね。私は、人さまより少々背が高く視線も高めでして、隠蔽に協力できればよかったですね。ここまで飛んだということは、立っている人間の頸動脈でもはねたのかな」
「それと」宇藤木は言った。「ここにはまだ、ほんのり塩素系洗剤のにおいと、別のなまぐさいにおいも漂っています。皆さんは鼻が慣れてしまったのでしょうね。掃除って難しい」
「なにがいいたいの」突っ立ったままの美登利が、やや凄みの増した声で言った。
「つまり昨晩、ここで殺人が行われたと言うことです。殺されたのはたぶん男性」
宇藤木はぐるっと巨体をめぐらし藍子に、「この家はあなたの所有だそうですね、橋倉藍子さん」と声をかけた。「おそらくあなたが危機に瀕し、そこの方とその方、おそらくお姉さんと妹さんが、かばってやり過ぎた。そして殺されたのは……」
美登利がかろうじて平静を保っているのに対し、藍子と茜の顔からは、すでに血の気が引いている。それを見て宇藤木はにっこりした。
「実は急だったため、人物を特定できるほど調べがついてません。だから私の勘で動くしかない。不品行な親戚?それとも、あなたちが昔にやらかした別件を強請ってきた人物?。でも、怪我をされているのは男性のせいではないですね」
宇藤木は茜の顔と美登利の足、そして藍子の頬の傷を指差した。
「傷がなましいうえに、表情に悔しさが溢れている。おそらく、私の上司の仕業でしょう。彼女は自分からは言いたがりませんが、所属した武道の団体ではちょっとした選手でした。わたしなんか問題にならないほど強い。あなた方も腕に覚えはおありのようだが、年齢差は如何ともし難いですね」
だまりこんだ三姉妹を見て、宇藤木はまた言った。「そのご様子では、彼女も女の子も、まだ生きている。よかったよかった」彼は万歳をしてみせた。
「とりあえず、彼女を出してもらえませんか?そろそろ、世界の中心から屋敷の外に向かって大声で叫びたくなってきました」
美登利が鼻から息を漏らし、首をゆらゆら動かした。
「なあに、お兄さん。あなたこそ、わたしたちを強請るおつもり?」
「いいえ。わたしは上司と女の子を返してもらえればそれでいい。ここで起こった事件と被害者を話題にしたのは、そのために上司が監禁されたと考えたから、二人が無事に戻ってくれば、ことを荒立てるつもりはありません。まあ、上司は私が隠蔽工作に手を貸すのを許しはしないでしょうが。説得はしてみますよ」
「あなた、とっても理解があるのね」藍子が口を挟んだ。
「ええ。わたしは正式な警官ではありませんから。警察の委嘱を受けた外部スタッフでして、警察官とはよって立つところが違います」
宇藤木の蠱惑的な笑顔に引きずられたのか、美登利が微かに笑って言った。
「雰囲気が違うと思ったら、刑事じゃないのね。なら、いいます。私たちは無実。なにも悪いことはやっていません。今日のあなたの無礼については、不問にいたしますから、とりあえずお引き取りいただけませんか」
「それは、むずかしい頼みですね」
「いやらしい言い方かもしれませんが、わたしたちには有力な方に多少のツテもありますから、将来の、あなたの立場が悪くなることになるかもしれませんよ」
「どうぞ。そのツテの相手を調べ、隠し事を暴き立て、失脚に追い込みます」
「口のへらないひとね」
「よく言われます」
「もう、さっさと帰ったら?」じれたように茜が聞いた。「あなたの上司なんて、知らないし、ここにはいない」
「外に上司の車があります。彼女の私物なのです」
吐き捨てるように茜が言った。
「もういいじゃない。めんどくさい男ね。車だけを置いてどっかに行っちゃたのよ、どうせ若いだけの、不品行な女でしょう。あんたみたいな男を侍らせて、よろこんでるようなクズよ。それとも」茜は残酷そうな喜びを顔に浮かべた。「もしかして、わたしたちがとっくに殺しちゃってたりして。そうしたら、手遅れじゃない。ねえ、そうだったらどうする?」
宇藤木は全く表情に変化をみせずに言った。
「それなら、あんたらの首をもぎとってこの家ごと燃やす」
外でまた雨がひどく降り出し、遠くに雷まで聞こえた。
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