第6話 生首よ、こんにちは

「わかった。頼むわ。それとね、気がかりがもうひとつあるの」

 和気みずるは、思い切って電話口の宇藤木海彦に、さっきからの違和感について伝えた。

 批評精神は旺盛な男だが、良いところは、人のとっぴな思いつきや勘ばたらきを、ゆえなく馬鹿にしたりはしないことだ。

「わたし、ノイローゼってことかな。いくらなんでも、まさかね。お年寄りの女ばっかり三人の家なのに、だんだん怖くなってきたのよ」

「うーん、変なにおいに不自然な痕跡。それに、歯?」宇藤木の声のトーンが変わった。

「睨まれて近寄れなかったけど、たしかにあった。大きいから男性の臼歯じゃないかなって思ったりしたのよ、小石とか消しゴムであってほしいなあ」

「ふむ、ふむ。おばあさんたちの差し歯でもなさそうだ」

 

 ユイは、また温室のガラス扉の前に立って、そこからじっとガラスの向こうをながめている。そのうち、小さな手でそっとドアノブをにぎった。扉が小さく開いて、ユイはあわてて手を離した。


「もっと気になったのが、ロビーというか玄関ホールの床に、なにも敷かれてないこと」みずるは、懸命に説明した。「板張りの床はワックスが効いてなかったし、ホールの奥には応接セットがあったのに、そこにもなにも敷いていない。ペルシャ絨毯もなければ北欧風ラグもなし。テーブルの上にはゴブラン織みたいな布が置いてあるのによ」

「ソファは革張り?」

「うん。革そのものは傷んでなくて、すごく古いって感じじゃなかった。ただ、あれに毎日座ったり寝転がったりしているらしいのに、なんのクッションもカバーもなかった。なんていうか、生活感がなかった。高齢の女が三人暮らしてるのよ」


「和気さんの周囲にいる年配の女性なら、必ずカバー類を置いて、直に寝転がったりはしないということですな。うむ。実はね、今日は例のライトを持ってきたんですよ。家に上がらせてもらおうかな、無理やり」

 ライトというのは、通販好きの宇藤木が先日購入したものだ。ブラックライトの一種で、照射すると血痕が浮かび上がる。鑑識課など真剣に取り合わない代物であるが、宇藤木は気に入っているようだった。

「ああ、あれ。役に立つの、あんなオモチャ」

「なにごともテストです。ときにその家、男性の気配はないの?」

「ええ。お婆さんが車の中で、雄猫すらいない女の館って自称してた」

「もしかしたら納屋か屋根裏部屋に、人の生皮でつくったマスクをかぶった大男が隠れてるとか。それで、三人の誰かがその母親」

「おっきな男には飽きたから、そんなのもういい」

「そりゃ、どうも」

 そろそろ乾いてきたので、ユイを呼んで服を渡した。手伝おうとしたが、彼女はさっさと自ら服をきて、鏡を見て髪を直した。自分でやることには慣れているようだった。


「それとね」みずるは、ついさっき垣間見たバスタブについて話した。

「風呂場はきれいに掃除してあるのに、浴槽に蓋がしてあるの。これから入るためにお湯を張ってあるようには思えないし。当たり前だろうって言われそうだけど、気になって仕方ない」

「いえ、その懸念はまっとうです。ちゃんと外しておかないと蓋は水蒸気ですぐ痛む。わたしもやっちゃった」

「ねっ。そうでしょう。あの三人は、むしろ世間一般より几帳面に思えるの。家は古びてるのによく片付けられている。ゴミは落ちてないし、空き缶もペットボトルも見当たらないし、古新聞だって積み上がってない。なのに、おかしく思えてならない。とんでもないものが隠してあるのか、こっちの頭がいかれたのか。かといってパトカーを呼ぶほどの確証はない」

「慎み深い和気さんは抵抗あるでしょうが、私ならさっさと自分の目で確かめますな。それでよからぬ事実がわかれば、とっとと逃げ出す。『食うと逃げるは早いが勝ち』というのは、私の師匠のモットーでありました」

「キミのお師匠さまらしい、すばらしい教えです。わたし、ユイちゃんをここに連れてきたのが間違いだったのかなって、あなたとしゃべっていて、すっごく不安に感じてきた。こりゃ強迫神経症かな」

「神経症はさておき、小さな子が一緒なら下手なこともできないな、うーむ」


 パタパタと足音がして、「おじょうさんがたー、不便はない?」と美登利の声がした。

「ありがとうございます、もう出ます」みずるはそう答えてから電話口にささやいた。

「とりあえず切って、車からかけ直します。合流してから、ユイちゃんと警察本部に行ってくれるかな。それからここをもう一度調べない?」

「了解。それと、なんだったら、この電話を通話状態にしておいてください。安堂さんには公衆電話を探してかけます。今の話を聞くと、私にもひっかかりが感じられる。決して油断しないで。決してですよ」


 脚をひきずりつつみずるが扉の前に立つと、それは勢いよく開いた。美登利がにこやかに立っていた。

「あらあ。どう、問題はなあい?」

「ありがとうございました。おかげさまで。けど、立派なバスルームですね、となりに見えるのは、温室ですか」

「そうなの。昔はなかなか立派だったんだけど、今じゃ洗濯干し場に成り下がってしまったわ。乾きの良いのはありがたいのよ。あっ、コーヒーもできるわ。ぜひ飲んでいらして」

「いえ、お気遣いなく。このまま警察に行ってみます。ユイちゃん、いらっしゃい。車に行こう」

 声をかけたが、ユイは依然として熱心に温室を観察している。

 

 目下の彼女の視線の先には、温室の隅に、作業机として置かれたらしいライティングビューローがあった。モザイクタイルで飾られて、とてもかわいい。

 そして、足元には円柱形の金属容器が置いてある。持ち手の付いた容器の上には、温室にあったものらしい切り花が乗せてあった。

 みずるは、その容器を見た。最初はただのゴミ箱か園芸道具だろうと気にも留めなかったのだが、なぜか目線がそのあたりを漂ってしまう。寸胴に似ているように思える。庭でとれた作物で、カレーでも作るのだろうか。

 振り向いたユイに手まねきしながら、やってきた美登利に「すてきな温室ですね。机もかわいいし。それに、あれは鍋ですか」と言った。

 すると「あれは……」と言った美登利の目が、文字通り泳いだ。彼女はとまどった表情を浮かべてから、曖昧な笑みを浮かべた。

 「あれはゴミを処分する道具なの。じゃあ、すぐいらしてね」そう言うと、彼女はまたふりむき、二人に手招きしてからバスルームから出て行った。

 しかし、みずるが最後の片付けをしているうち、ユイは扉の開いた温室に入り込んでしまった。

「ユイちゃん、おいでー」そう言いながら近寄る。

 

 温室内部はみずるの自室よりよほど広いが、所狭しとプランターや植木鉢が置かれてある。枯れてしまった花のポット、花が落ちたのをそのままにしておいたらまた咲いたという風情の蘭の鉢などもあって、なかなかのカオスだった。

  植物の合間に物干し台が置かれ、洗濯干しハンガーもぶら下げられてある。だから、慎重に歩かないとすぐなにかにぶつかる。

 その中にあって、ユイは首をかしげながら、一歩離れた場所でライティングビューローと、その上に置かれた金属容器を見ている。

「どうしたの?」

 みずるの問いに、少女は黙って首をかしげるばかりだった。

「これ、ゴミを処分する道具なのだって。わたし、お鍋か、それともくんせいを作るための道具とばっかり思ってた。くんせいって知ってる?」

 ユイは小さく微笑んで首を横に振った。

(でも、なんだろう。このいやな感じは)

 嫌な感じの発生源がこの容器だとすれば、宇藤木ならさっさと蓋をとるのだろう。しかしみずるにはそれができなかった。

 小さく身震いしただけで、「ユイちゃん、行こう」と彼女は少女の手を握り、連れ出そうとした。ユイも素直にうなずいた。


 すると、「ああっ」悲鳴のような声があがった。藍子がのぞいていた。

「だめっ、それは」

「えっ、ごめんなさい、ついうっかり入ってしまって」謝りながら振り向いたみずるは、痛めている左足の痛みに顔をしかめた。

 そこに物凄い勢いで藍子が飛び込んできた。彼女はみずるを手で押し離し、ユイの腕をつかんで引き摺り出そうとした。

「いたい」ユイが悲鳴を上げた。

「あ、ちよっと、待ってください。乱暴はやめて」制止しようとしたみずるの腕を、藍子は「うるさいっ」と思いっきり振り払った。

 肩にかけていたみずるのバッグからポーチがこぼれ、藍子がそれを蹴飛ばす形になった。ポーチは洗濯機の前まですっとんで、彼女はバランスをくずしてしまって自分から温室の扉の外に倒れこんだ。

 驚いた顔のユイが、倒れた藍子に駆け寄った。


「なにするのっ」吠え声がした。今度は茜だった。

 彼女は、温室から出たばかりの小さなユイに殺到した。勝手に自爆したんだよ、と思いながらみずるは温室を飛び出し、ユイを体の後ろにかばった。脚にまた激痛が走った。

 茜は彼女を両手で突き飛ばそうとした。みずるはとっさによけたが、手から杖が飛んで、「あいたっ」と悲鳴が漏れた。今日は朝からろくなことがない。

 

 勢い余った茜が、温室の扉の前にいた姉に体当たりする格好となった。藍子は派手にひっくり返って温室の中に戻ってしまった。

 支えを探そうとした彼女の手がライティングビューローを押し、そばにあった銀色の容器が倒れた。

 蓋がとれて、白いものが床にこぼれ出た。

 姉妹の息を飲む気配が伝わってきた。

 塩だった。スモーカーの中にあった大量の塩が温室の床に広がった。

「えっ、塩……?」

 さらに横倒しになったスモーカーの中からは、白に混じって茶色いものが小さくのぞいていた。周囲に色の変わった塩が付着して、最初はなんであるのか、よくわからなかった。

 みずるはしばらくの間、黙って塩をまぶされたなにかを見つめた。

 それは、どうみても茶色く染められた毛髪だった。ごろりと容器が動き、さらに塩がこぼれると、髪の隙間から地肌らしきものまで見えた。人形だとすれば実に手がこんでいるなあ、とみずるは思いつつ、

「見ちゃダメ」と、少女を体の前に抱え込んだ。


 藍子もまた、「見ちゃダメ」と叫んでスモーカーの前に立ちはだかったが、なにを思ったか、そのあたりにある椅子やら植木鉢やらこぼれた塩やらをつかむと、扉の手前に立つみずるに投げつけはじめた。

「やめてくださいっ」足の痛みをこらえつつ、みずるはユイを連れて扉の前から逃げ出そうとした。

 しかし、すぐに危険な気配を感じ、彼女はとっさに体をひらいた。

 足元で派手な音がした。金属のフック棒が彼女の鼻先をかすめ、そのまま床に叩きつけられた。茜の大柄な体が目の前で泳いだ。


「ユイちゃん大丈夫?」

 彼女のすぐ横で少女は。目をつむったままうなずいた。

 茜が体勢を立てなおし、ふたたびフック棒を構えた。天窓とかを開け閉めする道具だろう、全体が金属製のため十分武器となり得る。

 茜の背はみずると同程度、手足はみずるが長い。しかし体のたくましさと体重は、向こうが1・5倍は上だ。

「やめなさい」呼びかけにも茜は耳を貸さず、執拗にフック棒で威圧してくる。

「やめて、子供に怪我をさせる気?」

 その言葉を聞き、茜はみずるを正面からじろじろとわざとらしく見た。そして、棒を手にしたまま、怒りの混じった歪んだ笑みを浮かべた。

「子供だから、なんでも許されるなんておお間違い。わたしは子供も嫌いだし、甘やかす大人もだいっ嫌い。お仕置きしてやるわ」


 相手の知性や常識に、つい期待してしまうくせのあるみずるも、ようやく状況が納得できた。

(こいつら、おかしい。狂ってる)

 ここの老女たちは、みずるにとっての常識の外にいる。そして、みずるとユイは、知らずにそいつらの築いた「恐怖の館」に入り込んで、見てはならないものを見てしまったのだ。


 茜が目を細めてまた言った。「そんな野良ガキ、ひたすら邪魔。生きてる価値なんてある?ないよ、ばか。そいつなんか」

 彼女は嘲笑う顔になった。「生まれなきゃ良かった」

 みずるの中で、なにかの切れた音がした。

 彼女はユイを体の後ろに回し、はじめて左半身に構えた。後ろにかばったユイの小さな体から、ほのかな体温が感じられた。


 みずるの構えをこけ脅しと見たのか、茜はまた、「ばか」と嗤った。

 そして、余裕たっぷりの表情のまま、目を狙いフック棒ごと体当たりするように突進してきた。細身のみずるを完全に見下している。

 みずるは、脚の痛みを振り切り、自ら相手に向かって飛び込んだ。

 そして、茜と身体を交差する形になりながら右腕をまっすぐ伸ばす。掌底が茜の顎をとらえた。

 小気味いい音がして、茜のいかつい顎が横倒しになり、ふらりと前方に倒れはじめた。  

 すかさず、みずるは前に出てきた茜の上体を引き崩し、がらあきの鳩尾に遠慮なく痛めた側の膝を叩きこんだ。

 茜の大柄な体が爆発したように揺れて、レの字に折れた。これで終わりじゃない。2発、3発。相手の四肢から力が抜けた。

 さらにみずるは、口から胃液を逆流させた茜の後頭部に、情け容赦なく肘を打ち下ろした。怪我のせいでフルパワーは出せなかったが、バスルーム全体に響くほどの音がした。


 茜は床に横倒しになった。口から胃液を吐き、白目を剥いている。

 ユイは口に両手をあて、目を丸くしている。

 みずるは右手を後ろに引き、いつでも追撃できるような姿勢で倒れた茜を見下ろした。

 その凄まじい体技を目の当たりにして、藍子はへなへなと床に座り込んだ

「ごめんね」ようやくみずるはユイに声をかけた。

 だが、息をつく間も無く、また危険な気配が押し寄せてきた。


 いつの間にか接近していた美登利が、両手につかんだ大きなミートナイフを叩きつけようとしていた。彼女の表情はひんやり冷めていた。みずるは間一髪、のけぞるようにして攻撃を避けた。追撃しようとした美登利だったが、床にこぼれた塩に足を滑らせ、

「おっ」タタラを踏んだ。 

 痛みに歯を食いしばりながらみずるは身体を低め、足元に転がっていた杖を拾うなり、思いっきり美登利の足をそれで払った。がつんという音がした。

 杖は大きく曲がってしまったが、美登利は悲鳴を上げて床に転がり、そのままスネを抱えて床をのたうちまわった。脛骨ぐらい欠けたかもしれない。

 

 しかし、ユイと部屋を出ようとしたみずるに、今度は藍子が立ち塞がった。はあはあと息をしているのは、回り込むのにバスルームを駆けたせいだ。

 三人の中で一番の美人顔だった藍子の表情は、すっかり歪んでいた。怒りなのか興奮なのか顔面に朱をのぼらせ、口元に小さく泡がついている。

 彼女はバスルームの扉を背に、姉の落とした包丁を狂ったようにみずるたちに向けて振り回した。姉たちとは大違いの感情に任せた攻撃だが、軌道が読めずむしろこっちのほうが危険だ。

 

 そう判断したみずるは、ユイをかばいつつ床に転がる姉妹を回避して、いったん温室へと退避した。そのまま中庭に抜けようと図ったが、

「あ、ちがうちがう、ダメダメ」

 温室の扉には金属のバーが通してあり、そこには自転車用らしいダイヤル錠付きチェーンがかけられている。

 みずるが出口を探すうち、急ぎ足で温室の扉に近づいた藍子が、パチンと錠をかけてしまった。たのみのスマホは、ポーチごと扉の向こうにある。

 みずるとユイは、横倒しになったスモーカーと一緒に、温室に閉じ込められてしまった。温室のガラスは分厚く、容易には破れそうもなかった。


 

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