第5話 知らないうちに恐怖の館
「はい、ここを使ってね」美登利に案内されたバスルームは、どこかすり切れた古布のような印象を受ける応接室に比べ、ずっとパリッとしていた。
入って左手に大理石製と思しき洗面台、右手にガラスで区切られたシャワールーム、そしてその奥にバスタブの置かれた浴室がある。全体にシティホテルのそれを思わせるシンプルな表情をしていて、建物の外観とはかなり趣が違うし、設備だって特にクラシックではない。おそらく、もともとバスルームはここになく、土地建物を分割する際、この場所にあらためて設置したのであろう。
バスルームの奥にはドラム式の洗濯機と乾燥機が置かれ、さらに奥に扉があった。その先には大きなガラス天窓のある温室と思われる部屋があり、野放図に伸びた茎やツタの合間に、物干し竿がのぞいている。
太陽光の差し込む温室を、洗濯干し場として利用しているというわけだ。
そして温室を通り抜けると、その先には中庭が広がっている。
緑と、柔らかな光を伝えるガラスに囲まれた空間で洗濯仕事をするのはなかなか気持ちがよさそうだが、この場で裸になるのはできればご遠慮したい。
温室は、花や樹木が目隠しになっているものの、カーテンなどはない。
いくら広々としていようが美しかろうか、友人から温泉旅行に誘われても拒否するほどのみずるにとって、信じられない光景ではあった。
角度によっては、中庭から丸見えではないか。
杖をかたわらに立てかけると、みずるは借りたタオルでユイの頭を拭いてやった。母親を思い出したのか、嬉しそうに首をふった。
「ドライヤー、使ってみる?」バスルームにあったドライヤーは、やや旧式であり結構重い。怪我をした足に重みをかけないよう注意しながら、小さな頭に温風を浴びせて髪をほぐした。
「ここを出たらすぐ、乾いた服を用意するから。ちょっとだけ我慢してね」
ユイはだまってうなずいた。
「ねえ、お母さんは、病院に入っているんだよね」
「うん」
「どこの病院か、名前を覚えていないかな」
「しみんびょういん」
「なに市民病院か知ってる?」
「しらない」
「そうかー」我ながら子供相手のおしゃべりは下手だ、とがっくりした。
いやいや。この際、そんなことは言ってられない。
「じゃあ、ユイちゃんが待っていたタっちゃんって、どんな人?おにいさんかな?お父さんぐらいのひと?」
「んーとね」ユイは考え込んでから、「おじさん」と表現した。「パパって呼ぼうよって言うの。でもパパじゃない。ユイのパパは死んじゃったよ」
「あ、そうなんだ」公園における第一次聞き取りによると、ユイを昨日から連れ回し、公園に放置したタッちゃんと呼ばれる人物は、ユイの母親と非常に親しい存在であり、彼に面倒を見てもらうことについては母親の許可も出ているらしい。ただし、幼稚園児の証言なので、どこまで正確かはわからない。
だいたい、幼稚園に通っているなら、今日は休みではないはずだ。朝にみずるの足を踏みつけた男児も幼稚園児っぽかったし、昨日は運動会でもあったのだろうか。
遠慮しながらユイの服のポケットなどを探る。残念ながら、身元のわかりそうなものは一切持っていなかった。幼稚園の名の書かれた荷物もない。
タッちゃんに渡されたという小さな財布だけを持っていて、どうせ小銭だけだろうと思って見たら、三万円近く入っていて驚かされた。こんな小さな子に、何をさせるつもりだったのだろうか。
「そうだ、ユイちゃんの幼稚園って、どこ?なんて名前?」
「ひまわり幼稚園」
早速スマホで調べたが、よくある名称らしく候補が絞り切れない。あらためて住所や母親について尋ねたが、本田という姓以外にユイの身元を明らかにする情報は得られなかった。
さっさと警察本部に戻って、子供の応対になれた婦警に聞き取りを任せるべきなのは間違いなさそうだ。捜索願いの有無だってすぐ調べてもらえる。
みずるは、タッちゃんという人物について少し考えた。無責任に子供を放置したのは許せないが、ユイ自身は、彼が約束を守らず消えたのは困っていても、まったく恋しがっていないのは変な感じである。親しい人物であるのは違いないのに。だからみずるは、母親のボーイフレンドないしはユイとは血のつながらない父親なのかもしれないと、徐々に思いはじめていた。
みずると会話しながらも、その肩ごしに見える温室と中庭にユイは興味を抱いたようだった。雨に濡れた温室のガラスの向こうに花壇と菜園が広がっている。右手には噴水があった。
しばらく、みずるも一緒にガラス越しの光景を見た。
ユイはつと立ち上がり、とことこと歩いて、噴水を指差して微笑んだ。あまりおしゃべりをしない女の子だが、愛嬌は決して悪くない。
「あれー、噴水かあ」とみずるは調子を合わせた。「お家のなかにあるなんて、すごいわねえ」
(でも、噴水にしては、ずいぶんとぶっきらぼうだわ)
石でつくったプレートの上に、樋のような噴水口が突き出て、そこから雨水が垂れている。下の方には小さめの石の女性が水にうたれているが、サイズ的に合っていない気がする。あとで無理に置いたものだろうか。噴水というより行水しているみたいだ。
女性の瓜実型の顔立ちもかなり風化してしまっているが、顔は抽象的なのに体が妙にグラマラスなのも変な感じがする。難波刑事あたりなら声に出して喜びそうである。
晴れていたらユイを中庭へ出させてもらうところだが、住人の雰囲気からも今日はあきらめるのが無難そうである。
中庭の建物に面してないところは、人の背より高いぐらいの壁に囲まれていた。創建当初は各部屋の窓から庭が見え、噴水もちょうどよい位置にあったのだろうが、その後の土地屋敷の切り売りの結果、やけに背中に余裕のない噴水となっている。ユイは気に入ったようだが、みずるには残念感がただよって見える。
しかし、彼女にとってやはり気になるのは、庭よりも背後の浴室である。
すりガラスのはまったバスルームの扉は、まるで呼んでいるかのように小さく開いていて、中のバスタブがちらっと見えた。蓋が閉まっている。
(近づくな、なんていうから余計気になるじゃない)
思えば、子供の頃から苦手な童話は、あおひげだった。
そんなことを考えながらふと、人に見られている気がして、みずるはふるえあがった。
おそるおそる顔をあげると、鏡に写っている自分だった。青白い、なんとも情けない顔をしている。
(いかん、いかん)と首をふった。
こんなひどい顔では、ユイに不安が伝染してしまう。家に来て急に寡黙になったのは、緊張を顔に出してしまった自分のせいかもしれない。
そう思ったみずるは、無理に笑顔をつくって、ユイを呼び寄せた。
思い切って、どことなく湿気ているように感じたボーダー柄の長袖シャツを脱がせた。さいわいにバスルームは暖かかった。乾いたタオルを体に巻いてやり、ハンガーにかけたシャツにドライヤーをあて、短時間でも乾かすことにした。
そしてユイをスツールに座らせ、バッグの中に持っていたペットボトルの水と、宇藤木用の餌として持ってきた長期保存袋入りドラ焼き(3個セット)を与えた。するとユイは、みずるの許可を得るなり、まさにガツガツという感じでどら焼きを口に入れ、水を飲んだ。
懸命に飲み食いする彼女の姿に、みずるは少しばかり衝撃を受けてしまった。
「ごめん、ユイちゃん。お腹空いていたんだ。わたし、ぜんぜん気がつかなかった、悪かった」
自分はなんて気の回らない女だと、頭を殴りたくなった。どうやらユイは一晩中あの公園にいて、朝食は、まだとっていないようだった。
「気がつかなくて本当にごめんね。すぐにちゃんとしたご飯、食べに行こう。すべてはそれからね」
どら焼きを一つを食べ終わったユイは、「もっと食べていい?」と聞いた。
「もちろん」そう言うと、彼女は安心したようにドラ焼きの残りを口に運んだ。
「これもあるからね」
みずるはカバンから、予備の宇藤木用追加燃料を取り出した。
どっちも幼稚園児に与えるには渋すぎる感じだが、この際仕方ない。
ユイがなにこれ、という顔をしたので、
「これはシベリアってお菓子、こっちはボンタンアメ」と説明した。
「こんなちっちゃなお菓子を食べただけで、とってもよく働いてくれるでっかいお兄さんとこれから会うの。ポパイみたいだけど、ピエールって昔のアニメに出てくる人にそっくりなの。でも、どちらもユイちゃんは、知らないよねえ」
そう語りかけながら、みずるはスマホで宇藤木を呼び出した。すぐ出ろよと念じながらかけると、
「はい、もしもし。おはよう、というよりお昼ですね」いつもと変わらない宇藤木の声がして、みずるはひどくホッとした気がした。
彼には、昨日負った怪我の治療のため、まず病院に寄ることは伝えてあった。
「ときに和気さん、診察の結果はどうでした」
「いやー、お恥ずかしい。ただの派手目の肉離れですからね。骨も腱も無事、ご心配なく。付き添いを自分から言い出した母も、馬鹿にしたような顔をしてさっさとデパートへと向かいました。それより」
みずるは、母親と面識のある老女の難儀を見過ごせず、自宅まで送り届けた帰途、ユイと出会ったことまでを手短に説明した。
「ふたりきりだと、よくお話してくれたのに、この家にきたらちょっと緊張してしまったみたい。だから詳しいことが聞き出せてないの。でね、宇藤木さんって、子供の話を聞くの上手じゃなかった?ためしにチャレンジしてみる?」
「さすがに幼稚園児は射程距離外と思いますぞ、姫。それより、そのお嬢さんと比留間邸にいるんですか。それはそれは。ときに住人ってどんな人?ノーマン・ベイツみたい?」
やはり、宇藤木は家に食いついてきた。
「そうねえ、昔は美人だったろうなあって、女性のお年寄りが三人。なんでも10年近く三人だけで住んでいるようなの。それでね、キミのいまいるモールで、幼稚園ぐらいの女の子の着替えを先に買ってもらうってのは、むずかしいかな。ここでは着替えを借りられないし、できれば、そろそろおいとましたい」
「へんたいと疑われて、引き取りを必要とされることとなっても良ければ」
「Tシャツぐらいでいいんだけど、サイズだってわからないわよねえ。なら、飲み物だけでも買っておいてもらえるかしら。すぐに合流して、まず食事をさせたいの。服は途中でなんとかします」
「その子については、前もって安堂さんに連絡して知恵を借りたらどうかな」と宇藤木は提案した。
県警本部の刑事課で庶務を担当する安堂は、親切な人柄のうえ顔が広く、ユイの処遇や身元探しについても警察内部で上手に取り計らってくれるだろうというのだ。
「そうね、それが結局は早いかな」
旧比留間邸の応接では、愚痴とも呪いともつかない話を延々と続ける茜を、藍子が遮った。「あの娘があなたを陥れた犯人だって言うけど、どうみても30そこそこでしょ。年齢が合わないわ。教育委員会って学校出たばかりの子が権限持ってるの?」
「いいや。あいつらエリートは、いきなり指揮官なの。海軍に例えたら兵学校出と同じ。だから一兵卒への同情心もなければ、見る目もない」
「やあねえ。すぐ軍隊に例えたがるくせ、お父さまとそっくり。それにお言葉だけど、あなたが定年を伸ばしてもらえなかったのは、別の問題があったわけだし。それより、わたしやっぱり、あの子供が気になる」
睨み付ける茜を放置して藍子が続けた。「あの小さな女の子、睦美さんの連れ子じゃないかな。ユイって名前が同じ」
「やっぱり、そう」キッチンから戻ってきた美登利が言った。「じゃあ、連れてきたのは拓郎くんかしら」
「そんな気がする。睦美さんの連れ子とは、結婚前に一度会ったきり、それも乳幼児みたいだったから顔とかはわからない。でも、歳はあれぐらいになっているはずよ。拓郎は離婚したと言ってたけど、あいつなら睦美さんを騙して連れ歩いたり、それこそ誘拐ぐらい平気でするわ。いや、きっとしたのよ」
「どうする」あかねが低い声で言った。「義理の父親のあとを追ってもらうというのも、ドラマチックかもよ」
「とりあえず、確かめようか。そしてその場で判断ね」美登利が宣言した。
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