第3話 死体と老女と幼児と和気さん

「いっ」和気みずるが押し殺した悲鳴をあげても、犯人である幼児は黙って彼女を見上げるだけだった。

五歳前後と推測される男の子で、口元にケチャップがべったりついている。

 県立病院の真向かいにあるファミリーレストランは、8時にまだ少し時間があるにもかかわらず、ほぼ満席だった。

 店は早朝から開いており、ここを待ち合わせや時間調整に使う外来患者は多かった。和気みずると母の喜美子もそうだった。

「ぼくは、大丈夫だったかな?」額に脂汗を浮かべたみずるが、引きつった笑顔で聞いても、男児はなにも答えようとはしなかった。


 男児は、店の中を好き勝手に走りまわっていて、セルフサービスの水をコップに汲もうとしたみずるの足を、まるで野球のベースのように派手に踏んだのだったが、本人は事件発覚と同時に黙秘に入った。

 窓際にある席には、保護者と思しき男女とその連れである年かさの男女客が座っていた。いまのところは懸命に見えていないふりをしている。

 みずるは、母親から借りたウォーキング用の杖で体を支えながら、踏まれた左の甲ではなく、その上の脹脛にそっと手で触れた。ふだんの倍以上腫れているのは、そのままだ。傷は昨晩痛めたもので、今朝これから医師による診察を受ける予定である。

 小学校の体育館を借り、子供たちを相手に稽古ごとの教室を開いている友人の手伝いに行き、冷えた体のまま昔の得意技を久しぶりに試みたところ、ものの見事に故障したのだった。

(べつに嫌いじゃないんだけどな……)昨日といい今日といい、子供との相性は決して良くないというのを、みずるはしみじみと自覚した。目の前の男児は、逃げるのでも、謝るのでもなく突っ立っている。これからどうすればいいのか、彼女もまた処しかねていた。


「これ、ぼく」見知らぬ老女が、見かねたように声をかけた。「悪いことをしたら謝らなくては駄目よ」

 厳しい顔つきをした老女の登場に、子供は身を翻して逃げようとした。だが彼女は驚くほど機敏な動きで男児の腕を捉え、「逃げるのはもっと悪いでしょう」と、叱った。

 老女の声はよく通り、騒がしかった朝の店内が一瞬、静まりかえった。

「あの、もう大丈夫ですから」

 みずるは、今にも泣き出しそうになった男児を、店内で走り回わるのはあぶないと諭してから開放すると、老女に向き直って、

「申し訳ありませんでした、嫌なことをさせてしまって」と謝った。

「いえ、あなたが悪いわけじゃないし。あそこの」彼女は男児が戻ってきてもなお、そしらぬ顔をしているさっきの男女をあごで指した。

「親どもがすべて悪いの。子供って、嘘偽りなく親の鏡よね。わたしもいつも、内心に忸怩たるものがあるわ。失礼だけど、あなたお子さんは?」

「いいえ、おりません」

「そう。懸命な選択かもしれないわ。わたしも妹たちも、子供に関しては喜びよりも不快なことの方が多い気がする」

 「あの……」別の声がかかった。みずるの母の喜美子だった。「大迫さんではいらっしゃいませんか。せんだって、瀬戸さんの個展でお会いしました、和気と申します。そのせつはどうも」

 老女は目を大きく開いた。「あら、あの時は、どうも。お世話になりました」

 喜美子は、娘の受けた親切に礼を言いつつ、みずるそっちのけで老女としゃべりはじめた。



 昼が近づくと、いったんおさまった雨がまた激しくなった。

「美登利ちゃん、無事に戻ってこれるかしら」窓から外を見ていた次女の藍子が不安げに言った。

「大丈夫でしょ、タフな人だから」三女の茜があっさり言い切った。「結婚前は、わざわざ免許まで取って、お父さまと一緒に山で獣を追いかけたりしていたのよね。この頃ならともかく、半世紀前でしょ。親もよーやらせたわ、そんなこと」

「そういえばお母さま、自分が肉嫌いなものだから、お父さまの獲ってきた鳥とか猪とか鹿、せっせとご近所とかにお裾分けしてたわ。ウチじゃ牡丹鍋だってしなかった」

「そうだったかな。お父さまはそのへん、鷹揚でいらしたから」

 でもね、と藍子はしみじみとした調子で言った。

「美登利ちゃんが、長女としてお父さまにどれほど期待されていたのかが、今になってよくわかるわ。狩猟だって剣道だって私たちとは仕込まれ方が全然違う。あの人、あんな性格だから何も言わないけど、辛かったのじゃないかしら」


「私は小さかったから、あまり覚えてないなあ」と。茜は首を傾げてみせた。

「でも、あれだけいろんなことができて、なおかつ天然ってのは、とても人をいらいらさせるってのはわかる。慣れてる私たちはともかく、ね」

「まあね。康介くんと恵美さんのことを言いたいんでしょ」藍子は何年もろくに言葉を交わしていない美登利の息子夫婦の名をあげた。

「仕方ないわ。あの調子で毎日ナチュラルに人を見下したら、神経質な人だったら堪らないわよ。連絡拒否の件だって、息子たちのことだけを悪く言えない」

「でも、あれだけ尽くしたのにねえ」

「尽くした方向性が、ちょっとね」

「いまの私にそれを言わないで」

「そりゃあ、あたしだって言えないけど」

 

「さっきの件だけど」のびをした茜がまた口を開いた。

 雨がまたひどくなり、遠くで雷まで鳴っている。藍子は窓の外を気にしていた。

「身体については、中庭にバイオ消臭剤と一緒に埋めようか。それで骨だけになったら、砕いてどこかに撒くの。畑の下に埋めてセメントを流し込むって方法もあるけど、1メートル以上は掘りたいじゃない。私たちの体力じゃ何日もかかっちゃう。あと、藍ちゃんの車でどこかに捨てに行く手もあるけど、少なくとも肉のついたまま捨てるのは、得策じゃあないな」

「そうよねえ」藍子はうなずいた。「人目に触れないのを望むなら、やっぱり中庭ね。外と遮断できて、梯子がないとのぞけないし。でね、あたし考えたんだけど」

 彼女は折り込み広告の裏に、ペンで図をかきはじめた。

「あそこの畑のどこかを耕運機を使って柔らかくして、それから溝みたいに細長く穴を掘る。そこに関節からばらした手足を並べていくの。そしたら、掘る量は少なくて済むんじゃないかな。その上にセメントを流すって手もあるわ。いかにも人型って感じで穴を掘るのより、良い気がする」

「でも胴体が邪魔。やっぱり小さくバラさないとダメかな。それでも拓郎がチビで良かった。頭は、馬鹿なのに大きいけど。兄さんみたいな立派な体格だったら、とても動かしたりできなかったわ」

「そうでしょ。本当にあの人の子だろうか、って気はずっとしてたの。血液型は同じでも、先妻があれだけ信用ならない人でしょ」

 そこまで言って藍子は肩を竦めた。「まあ、いいか。いまさらよね」


「それで、邪魔な胴体は、あなたはどうしたいの」

「花壇をね、どうせ入れ替えようと思ってたの。あそこなら柔らかいし、いまなら雨が染み込んでいるだろうから、耕運機を入れて6、70センチぐらい掘って、上から堆肥でもしっかりかければ、匂わないんじゃないかな」

「そうねえ、でも作業に半日はかかるなあ。この雨では無理だし。それまでどうするの」

「やっぱり冷蔵庫かしら。うちはアメリカンサイズだから、入るでしょ」

「やめてよ、それは。袋に詰めて軒下でも置いとこう。あれだけお酒につけておいたら、二日ぐらいは大丈夫よ」


 急にドアの方角から騒がしい音が響いた。

「さあ、遠慮せずお入りになって」と美登利の声がした。

 茜は驚いてソファから跳ね起きた。

 あわてて姉妹が玄関まで出ていくと、美登利が見覚えのない若い女の手を、引っぱるようにドアの中に引き入れていた。ふたりとも髪が濡れ、乱れてしまっている。

 女はすらっとした体つきをして、片手に杖をついている。眼鏡の奥から二人を見つけ、頭を下げた。

「美登利姉さん……」茜がやや呆れた顔で名を呼ぶと、当の美登利は、

「あらっ、ふたりともおそろい?」と白々しく聞いた。

「こちら、ご親切に私を病院から車で送ってくださったのよ」

 茜は目線を左右に振って、見られてはまずいものはないか確かめた。藍子がよろよろと近寄り、「まあまあ、それはたいへんね」と調子を合わせた。


 「ほんと、バス停にいたら吹き降りになって大変だったの。足元は洪水みたいだし、途中でお帽子は飛んでいくし。ほらっ」

 美登利は濡れてくしゃくしゃになった帽子を掲げて見せた。「こちらの方が、足を怪我していらっしゃるのに、わざわざ拾いに行ってくださったの。悪いことをしたわ」

「いえいえ」若い女は首を振った。

「それで、お名前はなんておっしゃるの」藍子が聞くと美登利は

「あらー、肝心のことをわすれていたわ。キルティング教室で指導いただいた瀬戸さんのお友だちの、えー、和気さんのおじょうさん。県の職員でいらっしゃるのよ。お母さんと病院に来られてたの」

 茜の目が光り、口元がまっすぐ引き結ばれた。

「県の職員……」

「それでは、私はこれで」みずるが引き返そうとすると、

「待って待って」タオルを持って戻ってきた美登利が、しがみつくようにみずるを止めた。

「せめて、髪の毛だけでも拭っていってちょうだい。ね、そこに座って行って」

 彼女は玄関脇に置いてあった籐椅子を指差した。

「すぐコーヒーを淹れるから。それに同僚の方との打ち合わせって、昼からなんでしょう」

「ええ、まあ。ただ、変わった人ですから、もう現地に着いていると思うんです」

「でも、そんなひどい髪のままじゃだめよ。その方は男の方?おじさん?」

「男性ですが、おじさんは可哀想かもしれません」

「へえ」美登利は好奇心をあらわに尋ねた。

「失礼ついでに聞くけど、その方はどんな感じ?つまり、見目は悪くないの?」

「すきずきだと思います。そう、個性的ですね」


(ま、ダビデ像が濃すぎて嫌だって人もいるんだから)

 みずるの内心には気づかず、美登利はいそいそと言った。

「まあ、そう。なら、ぜひ落ち着いてから行かないと」

 仕方なくみずるは、

「では、お言葉に甘えて、タオルだけをお貸しください」

 と言い、受け取ったタオルで髪と肩口を拭ってから乱れを手櫛で直し、

「ありがとうございました」と頭を下げ、出て行った。

「お愛想なしでごめんなさいね。またこんど、ゆっくりしていってね」

 

 

 旧比留間邸の横から、和気みずるはゆっくりと車を発進させた。

 雨はまだ降り続いていたが、頭の中は天気のことより、さっき訪れた比留間邸のことで占められていた。

(意外に玄関が狭く感じたのは、洋館ってえてしてあんなものなのかな。それと、ちょっと変な匂いがしたのは、掃除をしたてのせいかな……中は意外と明るかった)

 なにせ、伝説の洋館である。怪しく思えるのは仕方がないとみずるは思う。


 少し前のことだ。

 県内で起こった過去の未解決事件を調べるため、宇藤木は友人である馬渕という古書マニアに協力を頼んだ。

 すると彼は、昭和30年代の実話雑誌を探し出してきてくれた。

 そこには、不可解な失踪事件の舞台として比留間邸とおぼしき洋館が紹介されていた。かつてオーナーだった実業家のもとに寄宿していた青年が、忽然と姿を消したという。

 ただ、本題とは明らかに関わりがなく、雑事に紛れて詳しく調べることはその後もなかった。だが、名称と大袈裟な文体で描写された当時の姿、そして割に距離の近いことが強く印象に残って、車で宇藤木とこの近くにきた際には、わざわざ邸宅の前を通ったぐらいだった。

 まさか、住人に中へと招き入れられるなんて、その時は考えもしなかった。


 邸宅の両隣は現在、公園と市立図書館、そしてたっぷりとした樹木に囲まれた高級マンションとなっている。どちら側にも対面通行のできる道路が通っていて、車を使って訪れるのは容易だった。

 みずるは、図書館側の間道から広い道へと出ようとした。

 力を入れないよう注意しているのに、それでもときどき、痛めた左足が脈打つように痛む。この車の購入に際し、MTかATかをずいぶん悩んだものだったが、こんな場合はATにしておいて正解だったと思う。この状態では細かいクラッチ操作などできそうもない。

 今日は月曜日のため、図書館は休みだった。それでも通行人が飛び出てこないか慎重に車道を確認していると、

(あれ?)みずるはアクセルを緩めた。


 雨に濡れた植え込みのあたりに、ブルーとイエロー、そしてボーダー柄がちらちらしていた。見ると、立ったり座ったりを繰り返す、小さな子供だった。

 みずるの車、道路、図書館を忙しく交互に見ている。どうやら人を待っているようだ。黄色い傘を片手に持っていて、雨空を見上げたりもしている。どことなく、寂しげな様子がみずるの気を引いた。

(遊んでいるのかな?それとも、親を待っている?)

 しかし、次の瞬間、みずるはブレーキを強く踏んだ。

 運転席のみずると目の合った少女は、明らかに涙を浮かべていたからだ。

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