第2話 雨と災厄

 のちに頭部が肉醤とされてしまった人物が、旧比留間邸へと姿をあらわしたのは、その半日ほど前にさかのぼる。


「あ、義母さん、お気遣いなく」奥のキッチンへ向かおうとした藍子に、だらしなく腰掛けたまま橋倉拓郎が声をかけた。

「気を遣ってなんかいません。髪だってそろそろ乾いたでしょう。さっさと出て行ってほしいのよ」

「やだなあ。雨がまだ降ってるじゃないですか。また濡れちゃいますよ。それに、こんな時刻に追い出すつもりですか」

「ええ。今すぐにでも出て行ってほしいのよ」

「はは、同じことばっかり言うくせは、変わってないね」


 拓郎は、齧歯類を連想させる小柄な中年男だった。

 可愛い顔をしているが、茶色く染めた頭髪がすでに薄くなりはじめている。

 サイズの大きいトレーナーの袖をめくり上げ、細い手足をソファーの上に投げ出している。彼はトレーナーの胸のあたりをつまんで持ち上げると、

「これ、借りてってもいいですか。おれには大きいけど」

「どうぞ」

 彼は垂れた鼻水を袖でぬぐい、わざとらしく言った。「ああ、風邪ひいちまうな。風呂も借りて行こうかな」

 藍子は何も言わず、憎しみを込めた目つきで彼を見た。

 拓郎は、藍子の死んだ夫である昭弘が、先妻との間にもうけた息子だった。

 昭弘の死後、正式な遺言書が残っていたにもかかわらず、相続に際して彼との関係はこじれにこじれた。

 その後、三年ばかり連絡のなかったのが、今夜になって突然、濡れねずみになった姿で邸に現れ、強引に上がり込んだのだった。


「服はあげます。二度と返しに来なくていい」

「でも、大切な親父さんの形見じゃない?大事にしてるんでしょ」

「それより、睦美さんには連絡がついた?携帯を落としてきのなら、さっさとそこの電話を使ってって、言ったでしょう」

 彼女は、サイドテーブルに置かれた北欧デザインの電話機を指した。

 拓郎の申告によると、たまたま用があってここの隣街へと出かけ、そこで昼酒に機嫌よく酔ううちに誰かに荷物を盗まれた。困り果てて、ふと思い出した義母の住む家を頼りに、雨の夜道をひたすら歩いてきたとのことだった。

 藍子の古い知識では、彼の自宅は同じ県内にあった。タクシーを呼べば充分、日付の変わる前に帰宅できるはずだ。

「無理ですよ」居直るような気配が、拓郎の言葉にこもった。「あれえ、伝わってなかったかなあ?おれたち、もう別れました。マンションも譲った。こうなったら義母さんだけですよ、おれとつながりのあるのは」

「え。離婚は、いつ」

「そう、一年にはなるかなあ。いや、つきあいは変わらずにあるんですよ、別居みたいなもんだ。それにあいつ、いま入院してるんです」

「入院って。睦美さんは病気なの?重い病気じゃないわよね」

 義理の息子には不信感だらけでも、その妻には悪い印象を持たなかった藍子は、あわてながら聞いた。

「ええ、命にかかわる病気じゃないのに、手術をやるんですと。お節介な医者のせいで、まだしばらく出られそうにないんです」

「そう」藍子は腕を組んだ。「でも、あれだけ大騒ぎして一緒になって、もうそんな冷たい態度とはあなたらしいわ。どうせ原因だって、その自分勝手さのせいでしょう。いい加減になさいよ」

 拓郎は都合が悪いのか、へらへらと笑っている。

「そうだ、あの子はどうなったの。睦美さんの娘」

「ああ、ユイ」

「どうしてるの」藍子の問いに、拓郎は気味の悪い笑顔で応えた。「やっぱり、気になります?」

「ならないことはない。でも、責任はないのを忘れないで」藍子は強張った顔で言った。

「私が本当につながっていたのは、パパとだけ。あなたとは親子でもなければ、もはやなんのつながりもない。悪いけどユイちゃんだって、そう」

「つめたいなあ」

「そう言ったのはあなた自身でしょう。もう忘れたの。協議の席でかっこよくタンカを切ったじゃない」

「チェっ」拓郎はわざとらしい舌打ちをして見せた。「いつまでも古いことをクヨクヨと。あ、そんなこと言ってもいいのかな。東浦の土地、処分しちゃってもいいんですよ。俺のものなのに好きにできないなんて、無駄極まりない」

 藍子の声がうろたえている。「あそこは、手を付けずに保存しておくって、約束でしょう。ちゃんと書面を交わしてるはずよ。あれだけ騒いだくせに、またそんなこと」

「あ、ぼく、弁護士変えたんです。離婚騒ぎの時に。そしたら、前のやつとは違うことを言うんだなあ。基本、こっちで好きにしてもいいそうですよ。それが嫌なら」

 拓郎は、不健康そうにむくんだ顔を突き出した。赤黒いのはアルコールが抜けていないせいだ。息も酒臭い。おまけに鼻声である。藍子の苛つきが増した。

「聞いてもらいたい頼みがあるんです」

「……」藍子はどうせそんなことだろう、という顔になった。

「いや、この家まで寄越せってわけじゃない。ちょっとの間、俺を受け入れて一緒に住まわせてくれたらってこと。大人しくしますよ。いまの家が、ちょっとね」

 拓郎はちらっと暗い窓の外を見たが、言葉に気を取られた藍子はその意味は考えなかった。

 拓郎は鼻を啜り上げると、歌うように言った。「ここ、子供の頃はやたら広く感じたよね。歳とって見たらそうでもないけど、今のおれの住処よりはずっとまし。これなら、コブ付きでも我慢できる。あ、ここの土地建物の所有権はまだ義母さんのものでしょう。義母さんだけが認めてくれりゃ、あの天然ボケのばばあにも、説教くさい中婆にも文句を聞ける筋合いはない」

「それをいうなら文句を言う筋合いよ」

 拓郎は鼻で嗤った。「そうだおれ、車もなくなっちゃったんだ。だからあのソアラ、もらってあげてもいいですよ。おれ、知らなかったんだけど、綺麗なソアラって探してる人がいるんだってね。中途半端なベンツとかもらって、損したよ」

「ふざけないで。あれはパパが私に買ってくれた物。色だって内装だって特注なの。それよりベンツはどうしたの。あれだけギャンギャン言って自分のものにしたくせに」

「慰謝料として睦美のとこへ行って、あいつも大きすぎるからと手放した」

「ボルボは?ボルボはどうなった」

「ああ、あれ。あれはとっくにない。修理代が高くつくし、欲しいって人がいたし。いいじゃん、昔のはなしは」

 下手なウインクを拓郎はして見せた。

「ぶっちゃけると、今夜泊めてくださいよ。このところ、いろいろ訳ありでね。いいじゃないすか、おれの家でもあったんだし。それと、もうひとつ頼みがあるんだ。いや、大したことじゃない。簡単ですよ。いわばサプライズかな」

 舐めた笑いを浮かべ続ける義理の息子に憤然とし、藍子は立ち上がって奥へと姿を消した。


「どうするのよ」キッチンにはいると、待ち兼ねたように妹の茜が言った。武器がわりに、鋳鉄でできた重そうなスキレットを持っている。アウトドア趣味のある彼女の所有物だった。

「あんなのにこのまま居つかれたら、最悪よ。だから言ったでしょう、とっとと追い返せって。いいえ、もっと早く、社会的に葬っておけばよかった」

「あれだけびしょびしょだったら、それは無理よ」

 横から出てきた姉の美登利が言った。「人間大の濡れ鼠なんて、怖いじゃない。それに前は、ただの単細胞かつわがまま勝手な坊ちゃんというだけで、いまのあの子ほど嫌味じゃなかった。離婚の影響かしら」

「わたしは前からあいつが嫌いよ」憎々しげに茜が言った。「濡れ鼠だって、ぜったいやらせ。むかし、昭弘さんの友人の紹介で証券会社に潜り込んだでしょう。どうせそのときに学んだテクよ。客のところに行くのに、雨だったらわざと濡れていくの。同情させるのが営業の第一歩なのよ。それであいつ、絶対にこのまま家に居座って、あたしたちを骨までしゃぶりつくすつもりよ」


 黙ってキッチンの隅に置かれたワインセラーをさぐっていた藍子が、茶色い小瓶を取り出して、胸元に掲げた。

「わかってるわよ」

「藍ちゃん。なあに、それ。私たち、お酒のことはわからないわ」

「なんの瓶?」

「……昔、パパにもらった」どこか誇らしげに藍子は言った。そして、「美登利姉さん。遅くに悪いんだけど、濃ゆーいコーヒーを淹れてちょうだい。死人でも目が覚めるぐらいの」と、姉に頼んだ。


「お、いいにおいだね」と、いいながら拓郎は鼻を啜った。完全に鼻声である。

「これを飲んだら、帰って。約束よ」コーヒーをテーブルに置いた藍子が、感情のこもらない声で言った。

「やだなあ、そんなに嫌ってさあ。せっかく、長い間の行き違いを解消しようと、息子が手を差し伸べてきたのに」

「息子じゃない」藍子はにべもなく言った。すると拓郎はねばりつくような口調になった。

 「一度、親子関係にあったものどうしは、どちらかが死ぬまで親子であり続けるんですよ。これは決まっています。法律で決まってるし、世界の常識。わかんないかなあ」

 そう言いながら彼は短い指をカップに伸ばしたが、

「お、そうそう」と言って振り向き、後ろの飾り棚から勝手にウイスキーのボトルを取り出してきた。「アイリッシュコーヒー、義母さんもどうですか。おいおいマッカランの12年かよ」彼はウイスキーの瓶を手でこね回してから、キャップに中身を注ぎ、喉に流し込んでから低い声を出した。

「あー、美味。親父のお気に入りだね。親父、上等の酒は一滴も飲ませてくれなかった。親子なのにね」

 しかし、彼は急に気分が好転したように、「まあいいや」と言った。

「親子ってそんなものかな。照れ臭いもんな。深いところで心がつながってりゃいい。これはね、おれとユイについても言えるんです。あいつには何にもしてやれなかったから、これから本当の親子になろうと思ってね」

「でも、離婚したんでしょ」

「まあ、そりゃそうですけど。それでね……」拓郎がなにか言いかけると、藍子はぴしゃりと拒絶した。

「聞きたくない。それに、そんなもの飲んだら、帰れなくなるでしょ。いい加減になさい」

「やだなあ。おれの頼みって、ウインウインですよ。ここに男手が必要なのは、わかってる。それに、おれは世界で一番親父に似た男だ」

「……似てない」

「えっ」

「あなたはパパに、ちっとも似てない。パパはあなたみたいに、ちんちくりんじゃない。あなたは頭のてっぺんから爪の先まで、あの女にそっくり。性格だって瓜二つ。あと、パパのお気に入りはマッカランなら25年。それはただのいただき物」

 静かに、しかし自信に満ちて藍子は言った。

 次の瞬間、拓郎は立ち上がって中腰になった。さらに赤みを増した顔で藍子を睨めつけたが、「まあいい」と言って座り直した。

「頼みごとがあると思って、下手に出てりゃあつけあがってくれるよな、義母さんよ」

 そして、なみなみとウイスキーをコーヒーに注ぎ、濡れた指を舐めてからコーヒーを勢いよく半ば以上飲み干した。

 「ぶはっ。いまのうちに言っといてやる。あんたは……」

  そこまで言って拓郎は、自分の胸元を見た。そして咳き込みはじめた。急速に顔が赤黒くなり、もともとくりっとした目が飛び出しそうなほど見開かれた。

「て、めえ、なにをのました」彼は咳き込みながら言ったが、終わりは掠れ声になっていた。

「だから、コーヒー。めざましよ。あなたのぼんやりした頭も、これで少しははっきりするかしら。それと、瓶の中はホワイトホース。いえ、悪いお酒じゃないのよ。舌の腐ったあなたにはなんだって同じでしょうし」

「ふざげるな」拓郎はテーブルの上に置かれたコーヒーも、ウイスキーも全部をなぎ払った。そして喉に手を入れ、懸命に飲んだものをもどそうとしたが、うまくいかない。

 

 キッチンから恐る恐る様子を探っていた茜と美登利が、連れ立ってやってきた。冷静な表情で義理の息子の姿を見ていた藍子が、ふたりに優雅にうなずいて見せた。

「ごぼ、ぶざげるな」

 一言おめき、拓郎は足を縺れさせながら立ち上がった。そして、テーブルを倒し椅子を倒し、真っ赤になった顔のまま、両腕を伸ばして藍子に飛びかかった。

 しかし、あまり勢いはない。

 短く悲鳴を上げた藍子が逃げるのを、拓郎はよろめきながらもしつこく追いかけてくる。

「藍子ちゃん」美登利が言った。「なかなか、死なないものね」

「おかしい、すぐに効くはずなのに」

 動きの鈍い藍子に拓郎は、両腕を伸ばして飛びかかった。置いてあった籐椅子に足をとられ、彼女は義理の息子だった男と一緒に床に倒れ込んだ。

「どぐをのまぜたな」

 後ろ向きになった藍子の首に、拓郎が手をかけた「ごろじで、やる」

 ひええ、っと悲鳴を上げ続ける藍子の首を押さえつけた拓郎の頭に、茜が黒いものを振り下ろした。にぶい音がした。

 ずるずると崩れるように拓郎は倒れた。茜が自慢の鋳鉄製ディープスキレットで殴りつけたのだ。

 それでも、よろめきつついったん立ち上がった男に、茜はちゅうちょせず再度一撃を見舞った。今度は乾いた音がした。

 拓郎はその場に倒れた。

「いまごろ毒をもられたとわかるなんて、ほんと鈍い男。死に際まで鈍い」


「や、やった?死んだ?」ようやく起き上がった藍子が聞いた。

「たぶん」姉妹はそろって腰を曲げ、カエルのように床に突っ伏した拓郎の様子を伺った。

「これを、どうし……」茜がそこまで言ったとき、言葉にならない声をあげて、突然拓郎が立ち上がり、今度は茜と揉み合いになった。彼女が持ったままのスキレットを奪おうとしたのだ。

 藍子が拓郎の下半身にしがみついたが、拓郎は彼女を引きずったまま、茜をソファまで追い込み、ついにスキレットを奪いとった。

 そして拓郎はそれを振り回した。だが、もはや大した力は籠もっていない。頭への打撃が効いているようだ。しかしそれでも、年配女性二人よりは卓郎の方がまだ力強く、彼に腹を突かれて茜がへたり込んだ。


「じね」掠れた声をあげた拓郎は、藍子をぶら下げたまま、うばったスキレットを茜に向かって大きく振り上げた。

「ひっ」今度は甲高い悲鳴が上がった。

 それも、拓郎だった。彼の胸に、大きな二股のミートフォークが突き刺さっている。

「お突き、一本」フォークの先に美登利がいた。

「美登利ちゃん」藍子が叫んだ。拓郎がミートフォークを自分の手で掴み返すと、美登利はあっさりそれを捨てた。そして今度は、エプロンのポケットにさしたナタのような肉切りナイフを手にした。

 彼女は日本刀のように両手でナイフを握ると、動きの鈍った拓郎の側面に回り込み、踏み込んで相手の首筋へと叩きつけた。

 傷は深くはなかったがうまく血管を裂いた。首から血をどくどくと吹き出し、拓郎は膝をついた。

 

 彼は呆然とした顔となり、上体をめぐらして窓の外の暗闇を見ると、口を開いた。「ユ……」

 しかし、すべて言い終わらないうちに、彼の落としたスキレットを奪った藍子が、血塗れになった顔面目掛けて横殴りに叩きつけた。

 ついに拓郎は仰向けに倒れた。

「ちくしょう、ちくしょう、ちくちょう」

 藍子は繰り返し、義理の息子だった男の顔を打った。しかし拓郎の動きはまだ止まらず、彼は体を起こして腕立て伏せをするような体勢となった。その後ろから茜が布を巻き付けて、力任せに横倒しにした。

「あっ、私のストール」美登利が声を上げた。しかし茜はそのまま、ぎりぎりと拓郎の首を締め付けた。

 それでも彼は何度か転がって抵抗したが、また正面を向いたところに美登利が近づき、冷静な表情で肋骨を避けつつ心臓に肉切りナイフを押し込むと、ついに動きを止めた。


 三人の女たちは、そろって荒い息をついていた。

 しばらくして、ようやく美登利が言った。「ああ、人一人処分するのって、ほんとうにおおごとね」

「絨毯、ダメになったわ」荒い息をしながら茜が言うと藍子が、

「それより、花瓶がたいへん」と、倒れて欠けたクリスタルの花瓶を指差した。

「コーヒーカップは?」

「あれはワゴンセールで買ったマイセンの紛い物。ポットはスージークーパーのコピー。本物なんて、出すもんですか」

「でも美登利ちゃん、さすが一番落ち着いてる。ちゃんと手にミトンを嵌めてるし」と藍子は姉を褒めた。

「だって怪我したら嫌でしょ。それより、わたしのお出かけ用のストールが犠牲になったわ」美登利が言った。「ああ。大損害」

 そういいながら、三人はそれぞれ満足げな笑みを浮かべた。


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