三人の魔女 探偵宇藤木海彦のケースブック

布留 洋一朗

第1話 魔女のすむ館

 ことし七十歳になった大迫美登利は、引き締まった二の腕に血管を浮かび上がらせながら、持ってきた食塩の袋をキッチンカウンターの上に乗せた。どすっと音がした。

 彼女のいる台所は、一般の日本の住宅よりも余裕があって天井が高い。

 壁にはそれに見合うようなアメリカンサイズの冷蔵庫が置かれ、キッチンもアイランド型である。対面に座面の高さの調整可能な椅子が三脚、置いてある。


 次に彼女は、あらかじめテーブルに置いていた金属容器の蓋をつかんで外し、背伸びをするように円筒形の容器の中を確かめた。

 銀色の容器の内側は、半ば白い塩で埋まっていた。しかし中央部からは茶いろいなにかがのぞいている。

 頭髪だ。

 まん中あたりは毛が薄くなっていて、地肌がすけて見えている。

 首のところで切断された頭部のうち、顔面と後頭部には損傷がみられるが、もうほとんどが塩に埋まっていた。しかし、表面から水分が染み出しはじめているらしく、皮膚と接している部分の塩は色が変わっていた。

 

 美登利はしばらく考えていたが、「まあ、いいか」とつぶやくと、さっきの食塩の袋にナイフをあてて口を開き、隙間を埋めるように容器へ塩を送り込んで行った。塩が上まできて髪の毛が完全にみえなくると、美登利は容器を両手で揺すってならし、さらに塩を足した。

 そして、上まで隙間なく塩が満ちたのがわかると、ようやく蓋をしめてロックをかけた。

 しばらく美登利は、満足げに照明を反射する容器を見ていたが、ふと気がついたように耳をすませた。廊下の向こうからぼそぼそと人の話し声がしている。

 妹たちはもう、起きているようだ。彼女はエプロンで手を拭うと、大型の冷蔵庫の蓋をあけて、金属容器をおさめるための片付けをはじめた。


 時刻はとっくに朝だが、部屋にはあかりがついていた。

「この雨、本当にしつこい。二日も降りっぱなしなんてうんざりする」

 窓の外を見ていた三女の茜の言葉に、次女の藍子が力なく返事した。

「おかげで水不足にはならないわ」

「そりゃそうだけど」茜が言った。「昨夜なんて、あまりの大雨に屋根が抜けるかと思ったわ。あとで確かめなくちゃ。雨漏りなんてしてたら、最悪よ」

 姉妹が腰をかけているのは、一階の大半を閉める玄関ホールの、さらに奥にあるソファーの上である。

 中庭の見える窓に面していて、部屋に比べて控えめなサイズの応接セットが置いてある。その手前にはホールのがらんとした空間が広がっていて、今朝はテレビのスイッチは入っていない。次女の好むラジオも沈黙したままだ。


 彼女たちのいるのは、かつて「比留間邸」と呼ばれた洋館である。

 完成は昭和初年と古く、この町を象徴するモダンな住宅として、好事家には知られた存在だった。

 しかし、所有者が移り変わるたびに広々した敷地は切り売りされ、建物にも設計者にとっては改悪の方向に手が入った。いまでは延べ床面積は往時の三分の一以下に過ぎないし、文化財などの指定だって受けてはいない。

 それでも、最初のオーナーが本館と呼んだ建物と、独特の噴水がある中庭だけは残っていて、やや高みにある敷地からいまもあたりを睥睨している。

 いやに高い塀、地域との交流に熱心ではない住人と相待って、いわゆるモダニズム建築好きには好奇心の対象を、そして近くに住む子供たちには格好の怪談話の舞台を提供していた。

 

 廊下の奥から軽やかなスリッパの音がした。

「あら、茜ちゃん起きた?おはよう」そう言ったのは長女の美登里だ。

 妹ふたりがありあわせのトレーナー姿であるのに対し、彼女だけがすでに出かけられるような服装になって、髪の毛まで整えてある。

「昨晩はご苦労さま。ふたりともよく眠れた?」

「いいえ。うつらうつらしただけ」藍子が言うと、「わたしは、五時間は寝たわ。もうすっかり大丈夫」と、茜が言った。「それでも、美登利ちゃんの度胸には、とても及ばないけど」

「忘れてしまうのが一番よ」微笑んで美登利は言った。「掃除も洗濯もどうにか済んだし、、お風呂場だって使えるわよ。なんなら朝風呂はいかが?」

「遠慮しておくわ」茜が、ややがっしりし過ぎの顎をあげた。

 そして、顎の先で目の前の広々とした空間を指し示した。彼女は、三姉妹のうち最も体格がよく、肩の肉がゆたかだ。

「だって、まだ完全には始末が済んでないでしょう。床にもう一度掃除機もかけておくべきよ。それでワックスもかける。ルミノール反応なんて、嫌じゃない。絨毯だって、とにかく外にはだしたけど、あんなもの人目に触れさせるわけにはゆかない」


「あらっ、絨毯なんて、適当に血を落としてから切り刻んでゴミ袋に入れて出してしまえばいいのよ。少しづつ、日をわけて出せば大丈夫よ」

 銀色の頭髪を揺らして美登利が言った。痩せて骨張っているが、手首は太く、関節もしっかりしている。姿勢もしゃんとして年齢を感じさせず、年老いた運動選手を連想させた。

「あ、藍ちゃんの所有物だからとりあえず許可は得ておかないと。いいわよね、処分の方向で」

 

 この家の住人である三人の姉妹のうち、土地建物の所有者は次女の藍子だった。もとは、少女時代の三姉妹が両親たちと住んでいた家を、裕福な実業家だった藍子の亡夫が妻に望まれるまま買い戻し、別荘として与えたものだ。

 藍子夫婦の住む家は別にあって、旧比留間邸には独身だった三女の茜が管理人がわりに暮らしていた。だが夫の死後、一人暮らしの心細くなった藍子が、息子夫婦と不仲だった長女を誘い、三人で一緒に暮らすようになっていた。


 姉の言葉に、藍子が肉付きのいい体を傾けて返事した。彼女だけが髪にパーマっ気があり、家の中にいても薄化粧をしていた。

「いいわよ、もう。どうせダニがいっぱいの偽ペルシャ絨毯よ。パパが誰かに泣きつかれて買って、ずっと倉庫にあったやつだったの。そのうち処分するつもりだったし、惜しくもなんともない。足もとが冷たいのなら、いまどきホームセンターに行けばなんでもあるでしょ」

「偽物だから軽くて助かったのよ、きっと。でも新調するのはいいけど、届けてもらうのがめんどうね」

「美登利ちゃんはチップとか考え過ぎなのよ」茜が言った。「いまどき配達のバイトにまで渡す人なんか、いないって。それよりこの床、強めの洗剤でもう一度ぐらい洗っておかないと、のちのち匂うかもしれない。表面が剥げても、その時はその時よ」

「いやなこと思い出させないで」

「思い出すって、ついさっきのことでしょ」弱々しい声の藍子に、茜が厳しい口調で反論した。

「百歩ゆずって、判断したのは藍ちゃんの自由だし支持もする。でも効かない薬って、どういうことよ?」

「効いたじゃない」

「中途半端にね。苦しんで暴れられて、あたしたちがいなかったらどうするつもりだったの」鬱憤を晴らすような三女の追及に、長女である美登利が介入した。

「まあまあ。終わり良ければ全てよし、というのはお母さまのお得意の締めの言葉ね。わたしだんだん、似てきたのを自覚しているわ。それはともかく、もういいじゃない、もそれぐらいにしておいたら?」

「よくないよ」


 しつこい三女の追及に、ふいに藍子が叫び返した。

「だって、パパがくれたのよ、あの薬はパパのものだったの」かつては、さぞ美しかったであろう大きな目と高い鼻に、涙がたらたらと流れた。

「どうしても許せない奴がいたら、これを飲ませなさいって。濃いコーヒーとかカレーに混ぜたらわからないからって。その通りにしただけじゃない」

「それ、いつの話よ。薬品って風邪を引くのよ。知ってるでしょ」

「いいの、いいの」長女は三女の肩をやさしく叩いた。「結果として藍ちゃんを救って、私たちの役にも立ったんだから。いつまでも放置はできなかった」

 長姉の言葉を聞くと、藍子は涙ぐみながらうなずいた。しかし美登利は一言付け足した。「それはまあ、亡くなられた昭弘さんも、まさか自分の息子の始末に役立つとは思わなかったでしょうけど」


「私は逆と思う」茜が言った「あの不出来なクソ息子にいつか使うのを想定して、藍ちゃんに残したのよ、きっと。だって、それぐらいしか用途は考えつかないでしょ」

「そう思ってくれる?私の判断は間違ってなかった?」

「だから手伝ったじゃない。私が怒ってるのは、準備の悪さと後始末の手ぬるさ。これからもっと、気を引き締めないとだめよ」

 しかたないじゃない、きゅうだったんだからっと騒ぐ二女を横目に、三女は向かって左側にある廊下を指差した。その先にはバスルームがある。

「それより、一番肝心なものが始末されていない。どうするの、あれ。いくら夢だったことにしたくても間違いなくまだあって、時間とともに腐っていく」


「茜ちゃん、安心して」おごそかに美登利が言った。「あなたの休んでいるうちに、急ぐべき作業は終えた。血抜きはすませてお酒に浸した。腐りやすい内臓は、大変だったけど無事に生ゴミ処理機の中。処理能力の高い業務用でよかった。このことでも昭弘さんに感謝ね」と言うと、うんうん、と藍子がうなずいた。

「それに、遠い昔におとうさまから教わった解体技法が、齢七十になってから身を助けるなんて、素敵でしょ。あ、茜ちゃん、事後承諾で悪いけどあなたの塩を二袋ほどもらったわ。安物のお酒がもうなくなっちゃったのよ。上等なスコッチとかブランデーを使うなんて嫌だし、わざわざ買いに行くのもなんだし」

 

「美登利さん、ありがとう、ほんとうに助かった」藍子が言った。「あたしは、誘われても怖くて猟になんかいけなかった。いまだって、思い出したら」

 おえっと口を手で押さえたが、えづいただけだった。

 今度は次女の後ろに回ってその背中をなでつつ、美登利は言った。

「よしよし。あなたはよくやった。ちゃんと嫌な始末も手伝ってくれたし、合格点をあげるわ。ただし、わたしはもう腰が限界のようだから、このあとは若いあなたたち二人が中心になってがんばってね。七十代をこき使っちゃダメ」

「肝心なのはこれからじゃないの?」と茜が嫌そうな顔をした。「絨毯はともかく、『なまもの』をゴミの日に出すわけにはいかないでしょ。お庭に埋めるにしても、わたしたちだけじゃ、穴を掘るのだって大変よ」

「おほほ、ほほほほ」なにかのツボにハマったのか、旧に美登利が笑いはじめた。「重すぎますって、ゴミ回収の人が置いていっちゃうかもね、ほほほ」

 

 ひとしきり笑うと彼女は、「まあ、胴体はなんとかなっても、いちばん処理の面倒なのは頭ね。すぐになんだかわかっちゃうから。それで、あれだけでも袋に入れて、トンカチで叩いて小さくしたらどうかしら。細かく砕けばあとは楽になるわよ」

「それ、誰がやるのよ」茜が言った。「あたしはぜったい嫌よ」

「ふたりとも、私を見ないでよ」藍子が力なく言った。「ええ、そう。すべて私が悪かったのというのはわかってる。あの子は近くにいたんだから、前もって準備しておけばよかった。警戒心がなさすぎた。でもとにかく、三人ここでずっと楽しく暮らしていくには、いま、あのタイミングでああするしかなかったのよ」

「それは認めるわ」美登利がいい、茜もうなずいた。

「もちろん、ここで気ままに暮らしていられるのは、あなたと亡くなった昭弘さんのおかげというのは、承知しています。この由緒ある家を買い戻してもらって、そのうえ自由に住まわせてもらって。どれほど感謝しても足りないほど。変事に備えて準備をしておけばと思わないでもないけど、結果論でしかない。なにせ突然だったし、我々は異変に見事応じて、災厄を退けたのよ」

 美登利はひとりうなずいたが、時計を見て、「あら、もうこんな時間」と慌てた声を出し、ばたばたと残りの外出支度をはじめた。

「とにかく、いったん身体を休めてから、残りの処分に取り掛かりましょう。焦らず、無駄なく、遺漏なく、ね」

「でかけるの?まだ、そうとう降っているわよ」藍子が言った。

「いまから診察の予約があるの。朝ごはんは適当に食べてね。私は外でモーニングでもいただくから。県立病院まで行くんだけど、こんなにひどい雨じゃなければ、整骨院にでも寄りたいぐらい。もう腕だって腰だってがたがたよ」

「だれか来たら、どうしよう」心配げな藍子に、安心しなさいと美登利は答えた。

「いきなり奥まで上がって家探しするなんて、お風呂場にいるあのひとぐらいよ。それに郵便局だろうが、住宅会社のセールスだろうが、ここまで片付けてあるんだから、なにも感づいたりしないわ。バスルームだってお掃除済み」

「そうよねえ」藍子が言った。さっきより口調は明るい。「あとは、もう少しだけお掃除してワックスをかけましょうか。そしてラグを買ってくるの。今度はうんと明るいのにしましょうね。私たちのこれからが、明るくなるように」 

「ほんとにそう。これまで、昔のままってことに、こだわり過ぎた。大した昔じゃないのにね。これを機に思い切って変えるべきかもね」

「チャンス、かもしれないわね」

 長女と次女が明るい口調で喋っていると、

「なによ、あれ」キッチンに行った茜が、足音も高く戻ってきた。

「なんで冷蔵庫に首が入ってるのよ。朝ごはんを食べる気がなくなったわ。それに首桶は、わたしのスモーカーじゃない」

「ごめんなさい。ちょうどよかったの。さいわい冷蔵庫は大型だし」

「そういう問題じゃないでしょっ。あたしのスモーカー、二度と使えないじゃない」喚く三女を尻目に、

「じゃあ、バスがくるから」美登利はレインコートを羽織ると、身を翻した。

「今日は午前中、ずっと雨だそうよ。車で送ろうか?」藍子が聞くと、

「いらないわ。降りしきる雨の中を、あなたの運転する車に乗るほど怖いことって、世の中にそんなにない。死体をバラバラにする方がまだマシ」

 そう言うと、長姉は、いそいそと出かけて行った。

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