epilogue

 一年三ヶ月後――。


 タクシーを降りると、いよいよ降り出した大粒の雨に、あっという間の土砂降りになった。街路に立ち並ぶヤシの枝葉が、風にあおられて大きくしなっている。

「本当に、ここで大丈夫かい? 雨がしのげそうなところまでいこうか?」

 運転手さんはそう言ってくれたが、お礼を言って僕はそのまま国際通りに降り立った。

 脳天を叩きつける激しい雨。目についたビルの軒先へとりあえず駆け込んだ。アスファルトが波立ち、足元を煙らせる。巻き上がったホコリくさい町の臭いがどんどん湿っていく。東京ではまだ感じることのできない夏の雨の気配だった。

 那覇空港から、この国際通りまでタクシーでやって来ていた。車窓を流れて行く灰色に沈んだ景色は、ずっと雨の訪れを予感させていて、青い空、南国の草花の景色を期待していたのに、当てが外れてしまった。

 ビルの軒先から、タクシーが去った国際通りの行き先に目を向ける。真っ直ぐに伸びる繁華街通り。首里城をイメージさせる赤い漆喰しっくいの店構えや、あぐう豚といった飲食店の看板がチラホラと見える。急に降り出した激しい雨は、ますます勢いを増していく。歩道への水しぶきを抑えようと、行き交う車もスピードを落としていた。

 連絡してもらった地図を頼りにだいたいの場所に来たつもりだったが。目的のビルはどこだろうと、ごそごそリュックを探った。

「あーあ……」

 念のため印刷してきた地図は、濡れてぐちゃぐちゃ。リュックの取り出しやすいところに入れておいたのが、いけなかったようだ。使い物にならない地図を諦め、ズボンのポケットからスマホを取り出した。改めて国際通りをグーグルマップで検索してみる。指先が濡れて上手く操作ができない。袖口で画面を拭うそばから、髪の雫がポツンと液晶に滲んだ。

「はい」

 うつむく手元に差し出された白いタオル。自然と振り返っていた。

「まったく、そんなずぶ濡れで、風邪でもひいたらどうする」

「タカさん!」

「久しぶりだ、一平」

 懐かしい笑顔がそこにあった。笑うと眼鏡からはみ出す目尻のシワ、キッチンの食器棚からヒョイとこちらを覗く姿、山手線で僕の肩にもたれかかって居眠りをしていたタカさん。記憶の中の様子と目の前の姿がピントが合うように重なっていく。胸の内に抑えきれない喜びが膨らんだ。

「少し背が伸びたんじゃないか?」

 そんな冗談を言いながらマジマジと見つめてくるタカさんに、今度は急に恥ずかしくなって目を逸らしてしまう。心の準備もできないまま、とにかく不意打ちはズルイ。

「もしかして、このビルだったんですか?」

 恥ずかしさを誤魔化そうと辺りに首を巡らせて、ビルの名前がわかる看板でもないかと探した。

「ああ、店はここの2階だよ。飛行機の時間は聞いていたから、そろそろ来る頃だろうと思ってね」

 タクシーの運転手さん、地図で見せたドンピシャの所へ案内してくれたのか。大通りだったので、降ろしやすいところでいいですよ、と言ったのだが。

「新しい『ちむどんどん』ですね」

 改めてその名を噛みしめた。沖縄の方言で胸がどきどきと高鳴っている様子。沖縄へ戻ったタカさんが始めるお店、沖縄の家庭料理を出す居酒屋の開店がようやく来週に迫っていた。僕は少し早い夏休みをもらって、開店準備の手伝いに来たのだった。タカさんは空港まで迎えに行くと言ってくれたけれど、開店準備で忙しいタカさんをわずらわせたくなかった。

「会社を休ませてしまったな」

「いいんです。もうずっとそうしようって、一緒に決めてたじゃないですか」

「そうだな。ありがとう」

 まだ全然片付いていなくてね。とりあえず物を入れるだけいれたのはいいんだが、正直助かるよ。そんなことを言いながらビルの階段を上がろうとするタカさんを呼び止めた。

「あの……もう少し、ここでこうしていませんか?」

 ビルの軒下から見える景色。雨に濡れる街並みを振り返った。

 タカさんの戸惑う表情はすぐに消え、近付き、僕の手からタオルを取り上げた。

「じゃあ、もうちょっとちゃんと頭を拭きなさい。本当に風邪をひいてしまう」

 頭をごしごしとされる。せっかく少しは気をつかってきた髪型も台無しだったが、今はそうされることが心地よかった。

 土砂降りの国際通りを前に肩を並べる。

「こうしていると、いつかの雨宿りを思い出す」

「そうですね。本当に」

 はじめてタカさんに会った日も、柳通りのコーヒーショップの前ではじめて手をつないだ時も。僕とタカさんの前には、いつだって土砂降りの雨が降っていた。

 この一年、タカさんと連絡はしていたが、会いに行くとは言い出さなかった。自分の店を出すために忙しくするタカさんの邪魔をしたくなかったし、何よりその時間が僕自身のケジメにもなったと思う。泣いたり逃げ出したり、不安になったり、そんなことばかりだった自分の気持ちの。

 雨は時間をゆっくりにさせる。激しい豪雨も、それを見る静けさを際立たせる。僕とタカさんにはそんな時間が必要だったと思える。

 隣に立つ指先が僕の手のひらにかかった。応えるように握り返す。コーヒーショップの前で、あの日感じた不安は今はもうなかった。


 どのくらいそうしていたのか。風が止み、明るみ始めた空に夕暮れの気配を感じた。時間にして三十分もなかったと思う。南国特有のスコールだったのだろう。

「さあ、そろそろ店に入るか」

 そう言うタカさんの言葉が「あ――」と途切れた。

 つられて追う視線の先、国際通りに大きな虹がかかっていた。

 真っ直ぐ伸びる車道と空の境に立ち現れた光のアーチは、太く長く、僕らの視界を越えて大きく弧を描いていた。強くリアルな色彩が迫る。

 思えば僕らの共同生活は、虹のようだったと思う。赤、青、オレンジ、黄色、緑。五人のハブラシの色が違かったように、性格も生き方も、てんでバラバラな五人だったが、不思議と上手くいっていたのは、僕らの関係がグラデーションを描いていたからではなかっただろうか。ぱっと見れば七色に見える虹も、よく目をこらすと色と色の境目は曖昧だった。黄色から赤へ、赤から青へ。グラデーションを描く。ひとつひとつの色しかなかったら、七色とは言え世界はずいぶん単調になるだろう。僕らの共同生活のように、ハブラシの色のように、ゲイバーで隣に座ったオジサンのように、出会いアプリで知り合った男や、ソマリアの少女も……僕らひとりひとりの色はグラデーションを描きながらつながっていく。この空の下で。


「みんなにも見せたかったですね」

「ん?」

「虹、一緒に見ようといつか約束したじゃないですか」

「ああ、そうだったな。これからはいつだって機会があるだろう。来週には皆、店の手伝いにも来てくれる。今どきはスコールが多いから、またチャンスもあるかもしれないね」

「そうですね。そうだといいです」


 ◇


『ボク、ホンモノの虹って見たことない。死ぬ前に一度くらい見てみたいなあ』

『急にかかるんだよ、虹って。戦場でも東京の空でも変わりはない。俺の故郷は、夏には激しいスコールに見舞われる島でね』

『いつかみんなで虹を見に行けたらいいなあ。タカさんの生まれ故郷に……』

『ほんとね』


 僕らはひとつ約束をした。

 いつか、虹を見にいこう。

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虹を見にいこう 第17話(最終話)「虹を見にいこう2」 なか @nakaba995

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