Chap.17-2
タカさんが沖縄に帰ってから一週間。今夜がルームシェアの部屋で過ごす、最後の夜だった。源一郎さんからもらった虹の絵葉書を最後の荷物にしまっていると、リリコさんが帰宅した。明日には、僕もリリコさんもこの部屋を出ていかなくてはいけない。引っ越しの段取りや、管理会社に鍵を返すタイミングなど、スーツを脱ぐリリコさんの背に問いかける。
着替えの終わったリリコさんは腰に手を当てて、物の少なくなった部屋をしばらく眺めていた。がらんと広く感じるリビング。壁掛け時計の秒針がカチカチと音を鳴らす。テレビや棚はタカさんが持って行き(タカさんはいらないと言ったのだが、みんな引っ越し先の部屋の狭さを思うと、大きな家具はとても引き取れなかった)、ローテーブルやソファはユウキが持って行った。チャビ御用達の無印のビーズクッションもユウキが預かっている。リリコさんが持っていく予定の足裏マッサージ機。缶チューハイ片手にこのマッサージ機に足を乗せ、ソファにふんぞり返るリリコさんの姿も、もう見ることはないだろう。
ダイニングテーブルだけが、このまま残していっても構わないらしく、今までと変わらない位置にあった。テーブルの上に並ぶタカさんの手料理、大皿のホイコーロを前に、チャビと前のめりになって「いただきます!」と手を合わせたのがつい昨日のようだった。
「あんた、もう夕飯は食べたの?」
「いや、まだですけど。どこかへ食べに行きます?」
「そうね……簡単でいいから、何か作って食べましょうよ」
キッチンに立つリリコさんは、フンフンと口ずさみながら、鍋の中身をかき混ぜている。その鼻歌に聞き覚えがあった。確かミスチルの曲で、以前、リリコさんとスーパー銭湯に行ったときにカラオケで歌っていたやつ。そう『名もなき詩』だ。
だけど、リリコさんの歌詞は途中から様子がおかしくなって、
「オー、ダ~リン、あたしを強く抱きしめてぇ」
と、ついには身をよじって声を上ずらせた。
「そ、そんな歌詞でしたっけ?」
二人分の食器を用意しながら、リリコさんにツッコムと、
「まあ何でもいいじゃない」
といい加減なセリフが返ってきた。
明日の引っ越しを考えれば、洗い物や余計な荷物の梱包作業を増やさない方がいい。ただ、何か作って食べたいというリリコさんの提案には賛成だった。普段ズボラなリリコさんらしからぬ提案だったし、キッチンに立つ姿自体が珍しい光景だったが、こうして肩を並べて料理をしていると、兄弟がいたらこんな感じなのかもしれないなあと思えた。ジャージ姿で男装のリリコさんは、あまり料理に手慣れているとは言えない手つきだったけど。
「やだ、また時計が止まっちゃってる」
リリコさんがリビングの壁かけ時計に目を向けた。秒針がピクン、ピクン、と八時より上に行けないでいる。
「本当ですね。この間、電池替えたばかっかりじゃなかったでしたっけ?」
振り返ると、年中この壁掛け時計の電池を交換しているような気がした。もう時計自体が寿命なのかもしれない。
「もう、電池なんてないし。どうせ明日には誰もいなくなっちゃうんだから、このままでもいいわよね」
リリコさんが肩をすくめた。
クリームシチューとグリーンサラダ、こんがり焼き目を付けた厚切りの食パン。
「いただきます」と手を合わせる。特別手の込んだ料理ではなかったが、作り立ての温かさが、じんわり胃に染み渡った。二人で黙々とスプーンを口に運ぶ。リビングのテレビも既にないので、食事中どうしてもシーンとしてしまう。
「リリコさん」
「何?」
「お父さんや、お母さんとは上手くやってます?」
「急にどうしたのよ」
リリコさんが眉間にシワを寄せた。
「この間、どうしても実家に帰りたくないと言っていたので、気になってしまって……」
「そうね。関係が断絶するほどではないけれど、あたしのことを理解してもらってるとは言いがたいわね」
リリコさんはトーストの耳を指先で引きちぎった。
「父は区議会議員で、母は名の知れた女子校の教頭だったの。二人とも今は引退してるけれどね。父も母も忙しくて、子供の頃に一緒に食事をした思い出がほとんどないのよ。兄とも歳が離れているし、大きな家でひとりぼっちでいることが怖かった。よくひとりで絵本を読むような子だったわ」
その頃、リリコさんの名前の由来にもなった雪の精霊の話に出会ったのだろう。リリィという白く透明な女の子のお話だ。
「それが最近になって、一緒に食事をしようとうるさいのよ。特に父が。会ったら会ったで、自分の価値観だけで話をするから、ちっとも楽しくないし。この世に女装をする人がいるのを知ってはいても、まさか身近にいるとはつゆほどにも思わない人なのよ。何の心境の変化があったのか知らないけれど、今更何かを取り繕うように食事に誘われても迷惑だわ」
リリコさんが持つスプーンと食器の触れる音が妙に大きく響いた。僕は冷めていくシチューの表面にうっすらと張る膜に目を落とした。
「僕、ご飯て何を食べてもたいてい美味しいと思っちゃうんです」
リリコさんの視線を感じる。
「逆に、会社の接待で、特別高いフレンチのコース料理とか、懐石料理みたいの食べても、全然味が分からなくて。でもね、例えばみんなで旅行に行って旅館の懐石料理を食べたら、同じ物でも美味しいだろうと思うんです。振り返ると、このテーブルで食べたご飯はどれも美味しかったなあって。それってタカさんの料理の腕前だけではなかったと思うんです」
「あんたの説教、まわりくどいわね」
「ストレートに言っても、リリコさん、聞いてくれないじゃないですか」
リリコさんはかぶりを振った。
「僕も母にはカミングアウトしてないですが。タカさんからマサヤさんのお母さんの話を聞いて、僕がマサヤさんだったら、どうしていただろうと考えました」
マサヤさんは自分の病気がわかってから、万が一のことを考え、自分の母親にカミングアウトをして、恋人としてタカさんを紹介した。誰もができることではないし、それが正解とも限らない。だが、結果として『一緒に泣いてくれる人を残してくれたのだから、先に逝ってしまった親不孝な息子だけれど、まあ許してやるか』とお母さんもタカさんも、マサヤさんの死を受け入れることができた。
リリコさんもマサヤさんのお母さんとは面識があるようで、
「マサヤのとこのお母さんと比較されたら、かなわないわよ」
と両手を上げて降参のポーズをした。
「答えがないのはわかっているんです。ただ、一緒に食事をして、美味しいと思える人が多いのには、越したことないじゃないですか。お父さんもきっとそういう気持ちなんですよ」
「そうかしらね……わかってるの、本当はあたし自身の問題なのよ」
「どういうことですか?」
「うーん、そうねえ。ミスチルも言ってるじゃない? 誰かを想いやりゃあだになり、自分の胸つきささるって」
それは『名もなき詩』の歌詞だった。
「父のことが怖いのかしらね、あたし。自分のせいで、父や母を失望させるのが怖いのよ」
呟くように言う。
「だけど、あるがままの心で生きようと願うから人はまた傷ついてゆくんですよ」
それもまたミスチルの歌詞だった。リリコさんに説教しようなんてつもりは少しもない。僕だって同じなのだ。これから先も何かに迷い、どうしたら良いのかと悩み、三歩進んでは二歩下がるような毎日を僕は続けて行くのだろう。ありのままの自分でいようとして、誰かを傷つけることだってあるだろう。ただ誰かを傷つけて、胸も痛まない自分にはなりたくない。手の届く範囲にいる人たちのことを大切にしたい。自分の家族や、タカさん、リリコさん、みんなの顔を思い浮かべた。
「あんたって、そういう返し方が昭和クサイのよねえ。まあ、嫌いじゃないけど。一平と話してると、なんかホッとするわ」
「僕もです。そうだ、落ち着いたらまた、スーパー銭湯一緒に行きましょうよ。お風呂上がりのビールも」
「しょうがないわねえ。たまには、酒のつまみにタカの愚痴を聞いてあげるわよ」
「な、なんですか、それ。リリコさん!」
リリコさんの笑い声。最後の夜に、夕飯を一緒に作れて良かったと思えた。
◇
まどろみの中で、誰かの声が聞こえた。
「おーい、電池どこだっけ?」
それはタカさんの声だった。もうこのマンションにいるはずのないタカさん。僕は夢でも見ているのだろうか。
「電池は戸棚に買い置きがあったから。後で替えておくよ」
返事をする声が聞こえる。
「じゃあ、頼んだよ」
タカさんの声は廊下の奥へと消えて行き、マンションの部屋を出る気配がした。
僕は白く
その身体が揺らぐ。
僕は「危ない!」と声を上げて駆け寄っていた。その男の身体を支えた。
その人は一瞬、気を失いかけたようだった。近くにはローテーブルがあって、もしこのまま倒れていたら、角に頭を打ちつけていてもおかしくなかった。
「あぶないところだった。ありがとう」
とその人は僕に言った。
知らない人のはずなのに、僕はその人がマサヤさんなのだと確信した。初めて見るマサヤさんの姿。僕に似ていると聞いていたが、さほど似ているように思えない。眉がキリッとしていて柴犬や甲斐犬のような和風で凜々しい顔立ちをしていた。僕はこんなにイケメンじゃないよとホッする反面、ため息が出た。これじゃかないっこない。
「やれやれ。やんなっちゃうね。やっぱり薬を変えたせいなのか……最近、ぼうっとすることが多くて」
マサヤさんは気安い笑顔を僕に見せた。
「ちょっと待っててね。電池を替えちゃうからさ」
外した時計をひっくり返して単三電池を交換する。
「これでヨシと」
マサヤさんは時計をかけ直すと、そのまま椅子に腰を落ち着けた。心なしか身体の輪郭がぼやけているように思えた。
何を話したらいいのか分からなくて、僕は棒立ちのまま、再び動き始めた壁掛け時計の秒針の音を聞いていた。マサヤさんも黙っている。こうして二人きりでいるのは、初めてのはずなのだが、例えばチャビと一緒にいるときのように沈黙が苦にならなかった。
「マサヤさんも……」
「ん?」
と椅子に座ったままその顔を上げる。
「マサヤさんも、もうここを出て行くんですね?」
「そうだね」
と息をつく。
「一平くんには、最後にお礼が言いたいと思ったんだ」
「僕、お礼を言われるようなこと、何もしていませんよ」
「タカのことさ。ありがとう。タカが立ち直れたのも、君のおかげだ」
「そんな……僕はいつだって自分のことばかりで。マサヤさんの代わりにもなれなくて」
「うん、そうだったね。だけど、それが良かったんだ。君は君のままでいい。これからもタカのことをよろしく頼むよ」
マサヤさんに見つめられて、僕は戸惑いながらも「はい」としっかり肯いた。
それから僕とマサヤさんは、みんなのことを少しずつ話した。昔からの友人であるリリコさんを知っているのは当然だが、ユウキやチャビの話をしていても全く違和感がなくて、マサヤさんは、やっぱりこの部屋の六人目の住人として一緒に生活をしていたのではないか。そう思えた。
ユウキやリリコさんのエピソードにひとしきり笑った後で、
「さあ、そろそろ行かなくちゃ」
と腰を浮かせかけたマサヤさんに、僕は言った。
「これは、僕の夢なのでしょうか?」
都合がいいように僕の頭が勝手に解釈して、お話を無意識に作り上げている。マサヤさんがみんなのことを知るはずもないし、そもそもマサヤさんは既にこの世の人ではない。僕が知らないはずのマサヤさんの顔も、タカさんが持っている写真か何かで見たのかもしれない。夕飯を作りながらリリコさんが気にしていた壁掛け時計の電池切れ。些細な出来事に引きづられて現れた、都合のいい夢に過ぎない。
「そうだとしても、そうじゃなかったとしても、それはあまり重要なことではないよ。そういうことが世の中には沢山ある。現象にばかり目をとられて、物の本質を捉えられないと、本当に大事なことを見失ってしまうんだ。タカもそうだったようにね。リリコや寺井さん、源一郎さん、みんなによろしくと伝えて欲しい。そしてみんな、タカとこれからも友人でいてあげて欲しい」
「きっと……みんなは、マサヤさんともずっと友達でいたいと思っています」
「うん。そうだったらとても嬉しい」
そのままマサヤさんの微笑みはすーと消えていき、後には何もないマンションの部屋が残った。
再び動き出した壁掛け時計の秒針の音を耳にしながら、僕の夢も深いまどろみの中に沈んでいく。背後で『ちょっとー、誰かあたしのマスカラ使ったでしょ?』とリリコさんの声が聞こえたような気がした。『そんなもの誰も使わないから』とユウキの声も聞こえる。そこに懐かしいみんなの姿があるのだとしても、僕はもう振り返らない。
「epilogue」へ続く
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