虹を見にいこう 第17話(最終話)「虹を見にいこう2」

なか

Chap17-1

 四月、季節は巡り春が来る。まだ肌寒さを感じる風に、街路に立つ桜の花びらが揺れていた。僕がこのマンションでちょっと変わった共同生活を始めてから迎える二回目の春だった。

 レースのカーテン越しに、暖かい色の夕日がリビングに差し込でいた。僕はひとりダイニングテーブルの椅子に腰を下ろし、昨年、戦場カメラマンの源一郎さんが送ってくれた虹の絵葉書を手にしていた。引っ越し荷物の片付けをしていて、目にとまったのだ。雨上がりの瓦礫がれきの町に七色の光が大きくかかる様子を少女が見上げている写真。この絵葉書のお礼を言ったとき、源一郎さんは写真の少女を懐かしそうにして『元気にしているだろうか』と呟いた。

 僕らのことを心配して、日本に帰国していた源一郎さんも、春を迎える前に、戦地へと戻っていった。それが源一郎さんのライフワークなのだから仕方がない。日本を発つ前「タカのことをよろしく頼むよ」と僕の手を取り、いつかと同じ強い握手を残していった。

 僕らのルームシェアは、タカさんが沖縄へ帰るのをきっかけに、やはり終わることになった。皆それぞれの引越しで、急に慌ただしくなったのだった。

 タカさんは自分の帰郷準備も忙しいのに、「引っ越し屋を呼ぶのも、もったいないだろう」と週末や空いている時間を利用して、僕の引越しを手伝ってくれた。バイト先のオーナーから借りて来てくれた車で少しずつ荷物を運ぶ。

 新居は都営新宿線沿いのアパートで、駅から徒歩十分の1DK。会社へ電車の乗り継ぎなし一本で通えることを考えれば、急いで探したわりにまずまずの物件と思えた。引っ越し荷物を運び入れ、タカさんとふいに二人きりになったとき少し窮屈に感じるのは、今までのマンションが恵まれていたからなのだろう。

 引っ越し作業の合間にお茶を飲んでひと息ついていると、いきなりタカさんからケーキを丸ごとホールで差し出された。

「誕生日、おめでとう」

 苺のバースデイケーキだった。

 引っ越しのドタバタで自分の誕生日も忘れていた僕は不覚にも意表をつかれ、

「な、な、なんでタカさん、僕の誕生日知っているんですか?」

 と声を上ずらせてしまった。

「知ってるも何も、SNSのプロフィールにバッチリ書いてある。そうだろう?」

 そのセリフと共に、去年の誕生日のことが蘇った。全く同じセリフを一年前にも言われた。誕生日は祝ってもらうものだという感覚を忘れていた僕は、みんなにサプライズでバースデイケーキを用意され、言葉をなくしてしまったのだ。

 タカさんがこめかみの辺りをポリポリと掻く。

「みんなから、お願いされたんだ。自分たちはもう引っ越してしまったり、バタバタとして当日は祝えないからと。ユウキはリベンジだと言っていたかな」

 昨年はユウキがケーキを落としてしまったのだが、今年はもちろん崩れていない。つやつやと輝く生クリームの上で、チョコ板に書かれた『HAPPY BIRTHDAY いっぺい』のメッセージ。

 また一つ、歳を重ねた。三十歳になったときには、全く実感がわかなかった歳を重ねるということ。三十一歳を迎えても、同じように何かが急に変わるわけでもなかったが、一年前に比べて、少しは歳を重ねることの意味を噛みしめられるようになったと思う。

 ユウキが引っ越して行き、ようやく退院の目処が立ったチャビは、しばらくユウキとルームシェアをすることになった。あの二人がどんな共同生活をするのか、今から興味は尽きない。二人の部屋へたまには遊びに行こうとも思っている。つまらないケンカをするかもしれないが、何だかんだと上手くやっていくだろう。今の二人を見ているとそう思えた。

 リリコさんだけが、仕事の忙しさからいつまでも引っ越し先を決められず、しばらくウィークリーマンション生活をすることになった。マンションの明け渡し日を延長するより、僕の引っ越しを最後に区切りを付けた方が、家賃や電気代など契約上の都合が良かった。

 東京出身のリリコさんに、「一度、実家に帰ればいいじゃないですか?」と言ってみたら、「それだけは、死んでも嫌」とのことだったので、どうやらご両親との仲はあまりよろしくないようだ。

 僕たちを取り巻く状況は、ずいぶん変わってしまった。あのままルームシェア生活が続けられていた方が幸せだったのか。どんな生き方が良かったのかなんて、そんなの一生わからない。いつかタカさんはそう言った。だけど、後悔がなかったどうか、それを決めるのは自分次第なのだろう。

 タカさんが「ハッピーバースデイとぅゆ~」と調子の外れた鼻歌混じりに切ってくれたケーキは、あの日、指ですくったのと同じ、甘さ控え目のリキュールの味がした。


 ◇


 タカさんが沖縄へ帰る日、僕らは空港までタカさんを見送りに行った。僕とリリコさんとユウキや寺井さん。何と、DSバーのマスターおケイさんの姿もそこにあった。

 おケイさんはもう最初から大泣きで、タカさんのバイト先で号泣した話をにわかには信じられなかった僕も……いや僕だけではなく、その場にいるみんなが、その姿にあ然となってしまった。

「タカちゃん、元気でねえ。酔い止めのお薬は持ったの? LCCの飛行機は揺れるわよ。ハンカチは大丈夫? ペットボトルを持ってるなら、手荷物検査のときにはちゃんとカバンから出しておかなきゃダメよ」

 とまるでタカさんのお母さんのような心配の仕方で、涙やら鼻水やら、顔面の穴という穴から豪快に液体を噴出させていた。

「ちょっとみっともないわね。鼻くらいかみなさいよ」

 見かねたリリコさんが、ハンカチを差し出した。おケイさんは遠慮なくチーンと盛大に音を立ててかむと、「ありがとう、助かったわ」と言いながら丸めたハンカチをリリコさんへ返した。リリコさんはそのハンカチを人差し指と親指でつまみ上げながら、

「急にありがとうとか、どういう風の吹き回し? 気持ち悪いわね」

「いいじゃない。わたし何だか最近、尼さんになった気分なの。オンナひとりで生きていく決意をしたのよ。タカちゃんや、あんたたちにも迷惑かけちゃったんだもの。一生を後悔と懺悔ざんげに捧げるわ」

 そういうおケイさんは大まじめに両手を合わせて、僕らへ拝むような仕草をした。

 ため息をつくリリコさん。

「あんたねえ、いちいちやることが極端なのよ。大げさなの。お願いだから、普通にしててくれないかしら。もう普通にしてくれるだけで十分だから」

 空港へ来たとき、おケイさんはなかなか僕らへ近寄れず、少し離れたロビーの柱の影からチラチラこちらの様子をうかがっていた。タカさんが僕らに経緯を説明してくれていたので、まあギスギスとするのはしょうがないとしても、追い返すようなことはないのに。

 いざ僕らの前に立ったおケイさんは、両手をついて土下座を始め、出発ロビー中の目を集めてしまったのだった。

 タカさんの言う通り、純粋な人なのだろう。思えば僕の身の回りは、そんな人達ばかりだ。素直ではなかったり、強がっているけれど、本当はみんな優しくて、少し寂しがり屋で。

「ちょっと、この人怖いよ」

 おケイさんの姿におびえるユウキや、何だかんだと悪態をついているリリコさん。

「まあ、まあ、その辺にしときなさい」

 とおケイさんを立ち上がらせようとしている寺井さん。みんなの姿を順番に見て、含み笑いをしてしまう。

 二月にも源一郎さんを迎えに羽田空港を訪れていたが、あの時は国際線ターミナルだったので、国内出発ロビーを新鮮に感じた。国際線と比べると観光スポット的な景観は少なく、本来の目的通り、飛行機に乗るための場所という整然とした雰囲気だった。歓送迎のシーズンなのだろう。ところどころで僕らと同じように別れをしのんでいる姿が見られた。

「帰っても、あっちですぐには店を出せないのだろう?」

 寺井さんの言葉にタカさんが肯いた。

「しばらくは向こうでまたバイト生活です」

 それならまだ帰らなくてもいいのに……。気軽に言いかけた言葉を飲み込む。停滞していた六年の月日。ようやくした決心なのだ。今更そんなことを言い出しても仕方がない。

「タカさんのお店が開店したら遊びに行ってもいい?」

 ユウキがおずおずと聞く。

「もちろんだよ。何の遠慮があるんだ?」

 ユウキの表情がパッと明るくなる。

「あー、よかった。楽しみだなあ。ぼく何だか、ちむどんどんが懐かしくて」

 豪華な飾り付けもない、こじんまりとした質素なお店だった。だけどタカさんのお店の気安さと人肌を感じられる雰囲気は、みんなの胸に刻まれていた。

 おケイさんがまたしゃくりを上げ始める。慌てたタカさんが「いやいや、だからおケイさんのせいではないですから」となだめる。また号泣されてはかなわない。

「タカちゃんの新しい店が開店するときには、また、三人で女装したらどうだい?」

 寺井さんが勝手なことを言う。

「ちょ、ちょっと何言ってるんですか!」

 と動揺を隠せない僕など構いもせず、ユウキとリリコさんは途端にやる気まんまんになった。

「いいわね、それ。どうせタカの店はまた地味なんだろうから、開店のお祝いくらい、パッと華やかに花を添えましょ」

「うん、あのとき楽しかったもん。タカさんの店の周年パーティー」

 思い出し笑いをするユウキ。

「あの夜の一平くんのあでやかな姿が頭を離れないんだ。なかなか色っぽかったよ」

 寺井さんが僕の耳元で熱く囁いた。

「も、もう! 寺井さん、いい加減にしてくださいよ」

 顔を真っ赤にして叫んだ僕に、タカさんが朗らかな声で笑った。

 タカさんに僕の引越しを手伝ってもらっていた週末は、そのまま短いドライブをして帰るのが自然と恒例になった。タカさんが沖縄に帰るまでの短い期間、それは忙しい合間を縫ったささやかな二人の時間になった。

 立ち寄ったコンビニの駐車場から見上げた夕暮れ。刻々と移り行く空の色に見惚れていると、「飲むかい?」とタカさんが缶コーヒーを買って来てくれた。

 すっかり日が暮れてしまうまで二人で肩を並べていた。

「こうしていると……不思議ですね」

「不思議?」

「タカさんとこうしていても、特別に何かが変わった気はしなくて」

「そうか……もっと恋人らしくした方がいいかな」

「いえ、今のままでいいんです。その方がきっと僕とタカさんらしいから」

「そうだな。一平とは、出会った時からずっと、何も変わらないままだ」

 手に持つ缶コーヒーの温もりが、タカさんの手のひらに変わる。その手をそっと握り返した。

 少し距離が遠くなってしまっても、今のこの時間を忘れないでいよう、そうすればきっと大丈夫。そう思えた。


 いよいよ飛行機の時間が迫り、タカさんが待合いロビーの椅子から腰を上げると、おケイさんが紙袋から派手な横断幕を取り出した。空港に不釣り合いな妙にデカイ紙袋で、何が入っているのかと思っていたのだが。

「ちょっとアンタたち、そっちの端を持ってちょうだい」

 有無を言わさない迫力で、言われるまま横断幕をみんなでバッと広げた。何をさせるつもりかとブーブー言っていたみんなが黙りこむ。

『タカちゃんの門出を祝して。ちむどんどん、ありがとう!』

 三メートルはある紅白の横断幕に書かれたその言葉を、静かに噛み締めた。

 おケイさんはまた涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして、

「バンザーイ! バンザーイ! ほら、みんな何やってるのよ! タカちゃんをちゃんと見送るのよ」

 泣き笑いでばんざいをするおケイさんと一緒になって、僕らも両手を挙げて、タカさんを見送った。

 タカさんは恥ずかしそうにしながらも笑顔を見せ、

「みんな、今までどうもありがとう」

 と深くお辞儀をして、搭乗者入り口の向こうへと消えて行った。


Chap.17-2へ続く

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