ほこら
狸汁ぺろり
子
「すいちゃん、これ何」
那々が指差したのを見て、先を行きかけていたすいちゃんが振り返った。眉がむっとなってた。
「ほら」
「ほら?」
「空っぽの、ほら」
「ほこらやないと? うち知っちょるよ。これ、神様とかのおるほこらやろ」
知っちょるなら聞かんで――と言いたげに、すいちゃんはぷいと、また前を向いてしまった。
「神様がおらんから、空っぽのほらて。兄ちゃんらが言いよった」
兄ちゃんら、と言うのを聞いて、那々は思わず後ろを見返した。山の下のすいちゃんのお家には、今は人の気配は見えない。けれど那々は知ってる。今もあの家にはすいちゃんのお兄ちゃんがいて、時々、音もなく那々達の方を見ているって。そう思うと那々の脚がぞわりとする。長いズボンを履いてきてよかった。
「山、登るっちゃないと?」
斜面を登りかけていたすいちゃんが、少し怒ったような声をあげた。すいちゃんはあんなに短いズボンで、山、大丈夫なのだろうか。ここはすいちゃん家の裏山だし、那々よりもずっと慣れているから、多分大丈夫なのだろうけど、虫が来そうで少し心配になる。
「うん、今行く」
山に登りたいと願ったのは、那々の方だった。けれど、そんなに強く願ったわけじゃない。なんとなく話の流れでそうなったのだ。すいちゃん家の裏に山があって、いつでも登れるからって。いつか暇なときにでも、登ってみないかなって。前々からそんな事を言っていたから、夏休みの最初の土曜日に、そうすることにした。
初めての山登りは、思ったよりも、楽しくなかった。
「待って、すいちゃん。待ってて!」
那々は何度も立ち止まった。少し歩くだけで木の枝が引っかかる。ひっつき虫が服に着く。汚れてもいい靴で来たけど、すぐドロドロになる。晴れの日なのに空は暗くて、森の中に閉じ込められたみたいに心細くなる。それなのに、すいちゃんはどんどん先へ行ってしまう。
「まだすぐよ」
「やけん、一人じゃ登られんて」
すいちゃんの日焼けした脚は少しも汚れていない。ずるい、と那々は思った。すいちゃんは那々が呼び止めるたびに立ち止まって、少しだけ戻っ来てくれるけれど、傍まで来て手を引いてはくれなかった。
「はよ登らんと、上まで行けんよ」
すいちゃんの髪は短い。それに比べて、那々のは長い。せっかく結んだ三つ編みが、枝に引っかかって痛くなる。
こんな格好で家に帰ったらママに心配される。そう考えると、帰りたくなった。
「上まで行かんでもいい」
那々は立ち止まった。すいちゃんも止まった。
「うち、もう降りる」
「帰ると?」
「帰る」
すいちゃんは、また、ぷいと前を向いてしまった。
「やったら、一人で帰って」
冷たい言葉に、那々の心はひやりとした。それからすぐに、熱い苛立ちが込み上げてきた。
「うん!」
もう少しくらい、優しくしてくれたっていいのに。そんな思いを込めて、「バイバイ!」と付け加えてみたものの、すいちゃんは振り返りもしなかった。
那々は一人で山を下った。来た時よりも寂しくて、でも怒っていて、足どりは早かった。すいちゃんの事は嫌いじゃない。でも、今日はここにいたくない。早くお家に帰ってお風呂に入って、全部洗い流したら、また明日から仲良く遊べる。そう思うと少しだけ楽しみになってきた。
斜面を降りると、すいちゃんのお家が見えた。それを見ると那々の足が重くなった。
家へ帰るには、すいちゃん家のお庭を突っ切らなくてはならない。
那々は急に一人でいるのが怖くなってきた。友達とはいえ、人の家に勝手にはいるからだろうか。あまり好かないお兄さんがいるからだろうか。本当ならなんてことはない、ほんの数メートルの距離を足早に通り過ぎるだけなのに、どうしてもそこへ踏み込んでいくのが怖くなってきた。
やっぱり、すいちゃんが戻ってくるのを待とう。でも、どこで待てばいいのだろう。山と家の間の場所で、蚊が飛んでくるのに怯えながら、ずっと突っ立って待っているなんて嫌だ。
そうだ。ほらがある。
那々はそれを見た。コンクリートの土台に、木の柱の小さな家。神様のいる家のはずだけど、今は何故だか空っぽになっているほら。扉も何にもなくて、ちっちゃな那々なら足を曲げて、中に入れそう。
かくれんぼ。
すいちゃんをびっくりさせてやれ。
急にそんな考えがわいてきて、そうしなければいけないような気がした。
那々は意地悪な笑みを浮かべて、お尻の方からほらへ入った。
それからしばらくして、すいちゃんが山から下りて来た。すいちゃんは家を見下ろす斜面のところでしばらく辺りを見渡すと、最初からわかっていたように、木の柱の小さな家を覗き込んだ。その中に鎮座する人形のようなものを確かめると、すいちゃんは大急ぎで家の方へ駆け降りて行った。
「兄ちゃん、神様できた!」
ひと気のなかった家の中から、複数の足音と、あちこちの戸の開く音がした。よくやった、これでうちはまた栄える、という声もした。
夏の日はまだ落ちなくて、斜面のほこらは光を浴びて、生まれたてのように輝いていた。
ほこら 狸汁ぺろり @tanukijiru
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