キューティクル・ファースト


 ここで一度、五時間前まで時間を遡る。

 色濃い影に覆われた廃人通りを抜け、一宮一葉は三番街の中心を走っていた。彼の鍛え上げられた肉体はこの程度の走行で疲労を感じたりはしないが、対照的に彼の胸中は乱れきっていた。

『愛中が何者かの襲撃を受けて、今朝病院に運ばれた。よって、三番街管轄の警察官全員に緊急招集をかける』

 先程受けた連絡の内容を、一葉はもう一度見直す。警察官が襲撃を受ける、ということ自体は正直、そこまで珍しい話でもない。警察官の職権を乱用して私刑行為を繰り返す人間が地下街からの反撃を受けるというのは、自然の道理のようなものだからだ。

 しかし、今回襲撃を受けたのはよりにもよって、十二あるアンダー地区の中で最も地下街への理解があると言われている三番街管轄の愛中空音だ。犯人はよっぽど警察官そのものに恨みのある人間か、もしくは無差別的な襲撃の対象に、たまたま愛中が選ばれてしまっただけなのか。その真偽は現時点で誰にも分からないが、後者の可能性は、極めて低い。

 一葉は視界を過ぎ去っていく群衆の一人一人に厳重な注意を払いながら足を動かし続ける。もしかしたらこの中の誰かが、彼の同僚であり、相棒にあたる愛中を病院送りにした犯人なのかもしれないのだ。彼にとって今の状況は、愛すべき街の住民を疑わざるを得ないという、最も彼が望まないものだった。

 彼はこの街の英雄を自負しており、この街、少なくともこの三番街の人間の多くは彼を自分たちの英雄として受け入れている。そんな、いわば自分の信者ともいえる彼らをも疑わなければならないこの現状に、一葉はかつてないほど動揺していた。そして今回、被害者となったのがあの愛中であったことが、より一層彼の平常心を失わせた。

 一葉は鵜鯉の元を訪れた私服のまま、自らが所属する三番街の地下交番まで、そのペースを落とすことなく辿り着いた。

「遅れてすみません。一宮一葉、ただいま到着致しました」

 まだ焦りを隠せない表情のまま、一葉は交番の扉を開ける。するとそこには既に、彼以外の三番街管轄警察官が全員揃っていた。

 三番街管轄地下交番は、設置場所が廃人通りの近くということもあり、他のアンダー地区の交番と比べて少数精鋭の組織である。他の交番の平均人数が二十人弱なのに対し、三番街管轄地下交番の警察官の人数はたったの六人。それでも、彼らは十二地区中第三位の犯罪者検挙率を誇るエリート集団なのだ。

「っせえよヒト。俺でさえ、愛中がやられたと聞いて秒で飛んできたってのによ」

 一葉と同じく私服姿で苦言を呈すのは、桜丘一。見るからに攻撃的な見た目と乱暴な口調を携え、その混じり気のない白髪から、地下街の人間に『白悪魔』と恐れられている男性警官だ。

「桜丘、憤りは分かるがヒトヒラに当たるな」

 中央奥に腰掛け、一言で桜丘を宥める警察官は、来山概算警部補。この三番街交番の頭であり、一葉と同じくアンダー出身の男性警官である。毎月眼鏡のデザインを微妙に変更するが、それに気づいているのは一葉だけだ。

「どうでもいいが、腹減った……ヒトヒラ何か持ってない? それか喰わせてくんない? しょージキ、あたし腹ぺこで死にそう……」

 茶色い二つ結びの髪の毛を自分の口でくわえて、心からの飢餓を訴えるのは直喰簪。三番街交番唯一の女性警官であり、桜丘の同期で幼馴染みでもある。

「っるせえな簪。いつものパン屋はどうしたよ」

「閉まってたんだよ……はあ」

 ため息をついた直喰は力無く、交番内に設置された大きめのソファに倒れる。

「来山さん、一体何があったんですか」

 一葉は一連のやり取りに触れることなく、来山に向かって直球の質問を投げた。

「ヒトヒラ。ひとまずの確認なんだが、愛中の件についてどのくらい知ってる?」

「連絡いただいたこと以外はなにも知りません。疑うわけではないのですが、愛中が入院するほどの怪我をしたとは本当ですか?」

「今現在、愛中が入院しているのは本当だ。まあ、怪我というほどの外傷はなかったんだがな」

 来山の発言に、一葉は疑問を持つ。

「アイが言うにはよ、力が吸われたんだと」

 一葉の引っ掛かりを察してか、桜丘がそう付け加える。

「力が?」

「まずは、昨夜愛中に起こったことについて詳しく話そうか」

 

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